竹取編 04



 翌日、俺達は三人揃って二日酔いを起こし、勤労者達は迷わず病欠を選んだ。
 しかし俺は綾倉千鶴と食堂で落ち合う約束をしてしまっていた。連絡手段がないので、行かなければ彼女を困らせてしまう。もう会わないほうがいいのではないか、と篝に言われたが、すっぽかすのはどうも気が引けた。
 五百円程度、やったところで何も困らない。しかしまた、彼女の照れくさそうなはにかみが見たいと思う自分がいるのだ。
 俺は恋する乙女か、と自分で突っ込んだ。


 胡乱な動作でパーカーとジーンズに着替え、駅のコンビニで液キャベを買って飲み干し、学び舎に向かうべく阪急電車に乗り込む。
 と、ドアの反対側の座席に見覚えのある少年が二人座っていた。
 知らんふりで車両を変わろうとしたが、「そこの短髪間抜け面。ちょっと来い」と呼び止められてしまう。振り向くと奴は足を組み、尊大に手招きをしていた。俺にそんな態度をとる人間はただ一人。白石裕也である。
 自分の方が年上であるとぐっと堪え、俺は彼らの前に立ってつり革に掴まった。
 ドアが閉まる。車体ががたがた揺れる。窓の外を住宅街や川、道路が流れていく。
「何か用か」
「特には」
 相変わらず小憎たらしい小僧だ。天狗風で吹き飛ばしてやろうか。
「こんにちは真田さん」
 遼弥は相変わらずよい子である。
「というかおまえ達、何故こんな時間にこんなところにいる? 学校は?」
 この二人は高槻に住んでいるから、高校も高槻のはずだ。
 遼弥はくすりと笑った。
「真田さん、昨日も同じこと聞かれましたね。今日は休みました。安倍神社で緊急の会合があるものですから」
「全く。僕達は除外確定なのだから、わざわざ京都くんだりまで呼びつけないでほしいもんだ」
 仏頂面がぶつぶつ文句を言う。
「知ってるだろう? 四条大橋の金ぴかの木。あれは祓い人がやったんじゃないかと疑われてるんだ」
 そういえば昨日会ったときは話題にしなかった。
 自分の中の好奇心が、むくむくと頭をもたげる。
「蓬莱の玉の木か? まさかおまえ達がやったのか?」
「だから違うって言ってるだろう。祓い人は錬金術師じゃないんだ。ていうか、なんであれが蓬莱の玉の木だと知っている?」
「篝の働いている骨董屋から、仏の御石の鉢らしきものが見つかったのだ。この符合。大体あの金ぴかの木、竹取物語の蓬莱の玉の枝の描写まんまではないか。物語にまつわるものだと誰でも考える」
 俺は得意げに力説していた。しかし裕也は眉間に皺を寄せ、ふうんとだけ感想を漏らした。
「まあ別にどうでもいいな」
 対称的に、遼弥は何やらそわそわし始める。
「あ、あの、真田さん」
「ん?」
「その仏の御石の鉢、今どうなってます? 誰かに売っちゃったとか……」
「いや、してない。鑑定しようがないから、ただのばったもんとも限らないし、今鉢が出回ったら世間を混乱させるだけだからな。公表もされてない。篝と店主で相談して、そういう手筈になったそうだ」
 伊澄のおじさんはおっとりしているが賢明な人であるし、金にがめつくもない。
「そうですか。――伊澄さんなら、そう考えられるでしょうね」
 遼弥は聞いて安心した様子だった。常に不機嫌そうな兄と違い、弟は表情豊かなので、心境の変化が丸わかりだ。
「鉢が気になるのか?」
 尋ねれば遼弥は曖昧に笑う。
「はい。今すごい騒ぎになってますし、これ以上京都が混乱しても困りますし」
 言っていることはいつもの遼弥だが、何やら引っかかる笑顔だった。
 いつの間にか、電車は桂駅に到着していた。
「あ、では俺はこれで。頑張ってこいよ。あと裕也はくれぐれも俺の扇を大事にすること」
「はいはい」
「ありがとうございます。ではまた」
 つり革から手を離し、踵を返す。
 そのとき。
「その仏の御石の鉢、本物だぞ」
 裕也の声が飛んだ。
「だからしっかり見張っておけ」
 振り向いて見たが、裕也はいつもの仏頂面で、何を考えているのやらさっぱりわからなかった。まだ高校生なのに、本当に可愛げのない奴である。
 同じ目的地の人間に流されるように、電車を降りる。
 何故見てもいないのに裕也がそんなことを知っているのか、四条辺りで馬鹿騒ぎをしている妖怪は大丈夫だろうか、そんなことを考えながら。
 そしてふと思い出す。
 しまった。祓い人の集会があるなら、今日彼女はキャンパスに来ていないのではないのではないか?
「…………」
 でもとりあえず、学生の本分は学業なのだから、授業は受けないと。
 俺は重い足取りでキャンパスへ向かった。


 今日は京都には絶対近付くまいと考えていたが、そうもいかなくなった。同級の小柳美鈴が、四条にラーメンを食いに行きたいとごねて俺を呼び出したからである。
 「こ」やなぎと「さ」なだという名簿の悪戯で俺は彼女と知り合い、二年経った今では良好な関係を築いていた。
 彼女はロングヘアを茶色に染め、化粧をし、ファッション雑誌に載っていそうな服をばりばり着こなしている。可愛いというより凛々しい。俺の好みではないが結構な美人である。
 気は非常に強い。大阪出身の人間らしく、好物は粉物とソース物とB級グルメ。
 座右の銘は天下無敵。
 しかしそんな彼女も、牛丼やら焼肉やらの店には一人で入りづらいそうで。
 一回生のとき、彼女が学校近くのラーメン屋の前でしり込みしていた際、俺が声をかけたのがきっかけで食事を共にするようになった。一番多いのはラーメン屋だ。趣味がラーメン店の新規開発である彼女は、パンフレットやネットでおいしそうな店を見つけては俺を誘ってくる。
 俺は仲間内で、彼女を「ラーメン女史」と呼んでいる。美鈴さんとの約束で正斗の誘いを連続で断り、奴が勢いで付けたあだ名が、俺のツボにクリーンヒットしたためである。最初は「アキに女ができた」と冷やかしていた正斗も、十何回目の不都合となるとさすがに堪忍袋の緒が切れたらしかった。
「またラーメン女史か!」
 あの悲痛と憤りがほどよく混じった叫び声を、俺は一生忘れない。
 念のため、食堂の入り口で三十分ほど待ったが、綾倉千鶴は現れなかった。やはり会合に行っているのだろう。……彼女が祓い人であることがほぼ確定してしまった。これはかなりの精神的ダメージである。
 ということで落ちた気を紛らわそうと小柳美鈴の誘いに応じ、新町通、ラーメン女史が探してきた店。「らあめん清水」に足を向けた。
 店は入り組んだ場所にあり、とてもこじんまりしている。テーブル席は三つしかない。中は油染みで薄汚れ、壁にずらっと貼られたメニューは見るからに年季が入っている。
 しかし。
「んー、うまい!」
 うら若き乙女は大盛特製ラーメンを啜り、満面笑顔で叫んだ。
「スープが超好み! チャーシューもイイ! しかも安い! 最高!」
「……美鈴さん、唾が飛ぶ」
 カウンター席から別の机から、視線が飛んできて非常に痛い。これだけ騒いでも恥ずかしくないなら、一人で店に入るくらい朝飯前ではないのだろうか。誰かがいれば大丈夫なのか。
「ねーちゃん、絶賛ありがとな」
 厨房から店主らしき親父が声をかけてきて、俺は顔から火が出るかと思った。
 だが美鈴さんは気にしない。
「おうよ! あ、餃子一人前追加で!」
「あいよー」
 朗らかに笑って飯をかっくらう。
 この豪快な食べっぷりと竹を割ったような性格が好きなのと、迂闊なことを言うと強チョップが飛んでくるのとで、敢えて突っ込まない。
 確かに特製ラーメンはうまい。細麺があっさりしたスープにほどよく絡んでいる。新規開発でこのレベルなら上々、いや最高である。美鈴さんが見つけてくる店は案外ハズレも多いのだ。そういうときの美鈴さんはむっつりと黙り、でも最後の麺一本まで食い尽くし、店を後にする。出ても文句は言わないが表情でわかる。
「これは通うリストに入るレベルだね」
 美鈴さんはうんうん頷きながら言った。
「学割効くし漫画もあるしな」
 今度あいつらも連れてきてやろう。俺はレンゲでスープを啜った。
 店内には天井の角にテレビがあり、アナウンサーが仏頂面でニュースを読み上げていた。内容はもちろん四条大橋の事件。カメラで映されたそこは、相変わらず人垣がうず高くできている。妖怪や狸、狐の類もちらほら混じっているようだった。
 狐といえば皐月――あいつえらく白石双子と親しかったが、どういう経緯で仲良くなったのだろう。正斗への説教にいっぱいいっぱいで結局聞けなかった。白石双子にも朝会ったとき、時間の都合で大した話はできなかったし。
「昼間から暇なこった」
 音声を聞いていたらしく、美鈴さんがお冷を煽って呟く。
「あたしはあんなのギラギラした木より桜の方がいいけどねぇ」
「美鈴さんは花よりラーメンだろう」
「どういう意味だコラ」
「いだだだ」
 脛に思いっきり蹴りが入った。痛みで涙目になる。
「ところでさ真田、ちょっと聞きたいんだけど」
「はぁ……」
「もしあんたの家がすっごい金持ちで、あんたにはベタ惚れの彼女がいたとする。でも親は同じ金持ちとくっつけさせたがってて、ある日いきなり女集めて『好きなの選べ』って言われた。あんたならどうする?」
 店主が無言で歩み寄ってきて、ごとり、と重い皿をテーブルに置いた。ぶっとい三日月のような形の料理が、何故か九つある。ここの餃子は七つ入りだったはずだ。
「サービス」
 渋い声。美鈴さんが「大将愛してるぅ!」と叫ぶと、親父は俺達に後ろ手を振った。
 うーんハードボイルド。
「で、答えは?」
 彼女は早速餃子にタレをぶっかけている。
「……とりあえず拒否かな。結婚はしない、何なら親子の縁を切ってもらってもと構わない、と言う」
 自分の場合、愛する人と結ばれないことより、話したこともない相手と契りを結ぶのが嫌だ。
「恋人との仲を認めてもらうのがベストだが――そうだな。駄目だったら駆け落ちも辞さない」
「あんたが女だったとしても?」
「ああ」
 餃子に箸を伸ばす。
「とまあ今は言っているが、その時になってみないとわからない。もしかしたら金がなかったり怖気づいたりで、周りの言いなりになるかもしれない」
 ふーふー吹いて冷ましてから、一口かじった。焦げ目がつく程度に焼かれた皮と肉汁、ニラやにんにくの風味が口いっぱいに広がって、なんとも美味だ。
「……あんたはなんだかんだでやると思うけどね、あたしは」
 美鈴さんがじっとこちらを見つめてくる。
「買いかぶらないでくれ。俺はそこまで勇気のある人間じゃない」
「いやあ。少なくとも、そう正直に言えるあんたにあたしは好感が持てるよ」
 そして彼女は垂れる髪を耳に引っ掛けながら、大きく溜め息を吐いた。
「ていうかあんたは何で彼女ができないかねー。物言いが堅すぎるからか? あと理想が高いから? あたしもあんたにしときゃよかったかなー」
「美鈴さん、彼氏いなかったか?」
「いたけどこないだ別れた。浮気されてた」
「不貞な奴だな。そんなのはきっとへらへらの猫被り駄目男に違いないぞ。別れて正解だ」
「まー、相手が浮気してなくても、すぐ別れてただろうけどね。なんとなくそう思う」
 美鈴さんは餃子を口へ運び、「あち!」と叫んでコップを掴んだ。
「しかし何故にいきなりそんな話を?」
 煽られたコップからは水ががんがんなくなっていき、机に置いたときにはもう空っぽになっていた。仕方ないのでピッチャーを掴んで注いでやる。
「あー、その別れたときに五条大橋で高校生の女の子がぼけっとしててさー。夜中だし危ないから帰れって言ったら、家は嫌だって言うのよ。事情聞いたらどうもそういうことだったらしいわ。で、帰ったら婚約が済むまで出してもらえなくなるからって。でも自分が帰らないと、相手のことがバレて迷惑がかかるから、橋で悩んでたそうな」
 こんなご時勢にそんなことがあるのか。
「金持ちは大変だな」
「ほんと。庶民にはまずない悩みだわな」
 美鈴さんは器用に麺を啜る。そういえば今は麺類を啜れない人が増えているとか聞く。俺としては啜った方がおいしそうに見えていいと思う。
「で、どうしたんだ?」
「うちに泊まらせようとしたんだけど、使用人っぽい人が迎えに来て連れてかれた。一応あたしができる範囲なら助けてやるから電話しな、って番号渡しといたけど」
 下手な男より格好いいなラーメン女史。
「実はあたしもあんたと同じようなこと言ってさ。それで本当によかったのか悩んでたわけよ」
「なるほど」
「でも羨ましかったなー。あたしは別れた後だったからさー」
 はーあ、と大袈裟な溜め息が挙がる。
「美鈴さんはこの餃子のようにパリッとかつ旨みのある人だから、きっとすぐに合う人間が見つかるさ」
「女を餃子に例えるのもどうかと思うけどどーもありがとう。卒業までにお互い誰かいなかったら付き合おうや」
「考えておく」
 その絶妙なタイミングで、ポケットが機械的に震えた。
 発信者は伊澄篝。
「すまんちょっといいか?」
「ん」
 断りを入れてから出る。
「もしもし」
『あ、アキ出た! 今どこ!?』
 電話口の篝は珍しく焦った声を出していた。
「四条のラーメン屋だが」
『なら今すぐ安倍神社に来て! 妖怪と祓い人がかち合っちゃってえらいことになってる!』
「はぁ!?」
 思わず大声を挙げ、美鈴さんに訝しげな目で見られた。
「おまえどういう」
 そこで通話が切れる。ぷー、ぷー、という電子音に何も意味はなく、答えもくれない。
「すまん美鈴さん用事ができた! 大将ごちそうさま!」
 リュックから財布を引っ張り出し、千円札を机に叩きつけて、俺は全速力で「らあめん清水」を出た。
 店の隣の細い路地に入る。跳ねて「らあめん清水」の屋根に着地し、軽業師のように建物の上を渡っていく。
 阪急電車の線路沿いに走り、埋川通と重なるところで左折。二条城を通り過ぎると、安倍神社はすぐ見えた。入り口に「本日はお休みしています」の看板が立っており、あちら側からわらわらと小妖怪達が逃げてくる。
 一の鳥居の上に降り立つ。
 瞬間、本殿の背後がパッと光り、何かが空へ飛んでいった。目では追えなかったが、気配からして妖怪だった。
 続いて爆発音。そちら目掛けて飛ぶ。
 安倍神社は京都、関西一帯の祓い人を取り仕切っている神社である。ご先祖は現代でも名の知れた陰陽師、安倍晴明。その血が何十代ほども続いて今に至っているのだから、一族の妖力はかなりのものだ。
 神社の後ろは神主達が住む広大な屋敷になっている。そこで祓い人が一同に介すのだろう。騒ぎはそこで起きているらしい。
 本殿を越え、空から覗いた屋敷は――光線が飛び交う戦場となっていた。
 屋根にところどころ穴が開いている。庭はもはや人間の姿をしていない妖怪でいっぱいであるし、縁側からは札やら紐やらが飛び出してくる。
「こりゃあえらいこっちゃ」
 しかし気付いた。屋根がぼろぼろなのは屋敷の奥の方で、手前の辺りは綺麗なままだ。屋敷が壊れるのは誰かが攻撃しているからであり、無傷なところは争っていない――妖怪または人間しかいないということになる。
 今日は祓い人の会合。多くの人が集まるわけで、手前の部屋ではなく奥の方の広い応接間を使うはず。
 つまり境目にいるのは――
 結論を出したところで、俺は宙を滑りそこへ向かった。妖怪達の頭上。屋根と同じくらいの高さで屋敷の右手の庭を飛ぶ。
 もうすぐ境界というところで、薄い緑色の和服と、腰の辺りまで届く細い三つ編みを見つけた。
「篝!」
「アキ!? 助かった!」
 服の袖がぐるん、と跳ねる。空に横向きになった篝は、ちょうど札を出そうとしていた祓い人の顔を思いきり蹴り飛ばす。鈍い音。優雅に着地した篝と対称的に、祓い人は無言で地面に伏した。
「おうアキ来たか!」
 正斗は畳張りの部屋の中に土足で入っており、閉じられた襖を背で押さえていた。よほど急いで出たのか、トレードマークのツナギでなく半袖にハーフパンツ姿だ。襖はあちらからはハンマーで叩くような衝撃と、うるさい音がしている。
 妖怪達がすたこらと空や玄関へ逃げていく。
「飛べん奴は無闇に外に出んと部屋沿いに走れよ! 迷子んなるぞ!」
「何の騒ぎだこれ!」
 俺の質問には篝が答えた。
「俺もよくは知らないんだけど! 山で宴会やってた中級妖怪達が、祓い人の会合に悪戯半分で花火打ち込んだらしい!」
「誰だそんなことしたのは!」
「だから知らないって! そしたら助太刀に来た奴とか戦いが好きな奴とか見物に来た奴とか敵討ちとか捕食目的とかとにかく大騒ぎだ! 小さい奴は怖いもの見たさで来て攻撃されたら死に物狂いで逃げてくんだ馬鹿だよ馬鹿!」
 篝の絶叫は切実であった。
 滅多に激昂しない奴なので、これは相当頭に来ている。
「わかった。気持ちはわかる。だから落ち着け」
 どうどう、とジェスチャーすると、篝は一泊置いて、深呼吸をしだした。
 廊下を鉄鼠がとたとた走り、外の茂みへ消えていくのが見えた。
「……俺達は面白いことやってるから来ないか、って言われたんだけどね。祓い人の会合なんて嫌な予感しかしなかったから、一応様子を見に来たんだ。最初は祓い人に悪戯したりできゃーきゃー騒いでた妖怪達も、ここの頭領が一発本気出したら、波が退けるみたいに逃げ出してね。俺と正斗はここでとりあえず祓い人の侵攻防いで、小妖怪を逃がしてるところだったんだけど。こがね様だっけ――が捕らえられて、今匹敵できるだけの妖力がある奴が奥で戦ってる」
「こがね様?」
 聞いたことがない。何の妖怪だろう。
「糾の森を牛耳ってる鵺らしいよ」
「糺の森の主とはまた大変なものを……」
 篝は頭を掻き毟った。
「おーいおまえら! そっちから入る奴おらんのやったらこっち手伝え! もう破られるぞ!」
 正斗が中から呼ぶ。
 確かに、襖がどんどんという音と一緒にめりめり言い出してきて、正斗より使っている壁が長く持ちそうにない。
 部屋に入り、なくなるのを覚悟してリュックを放った。できるだけ身軽にしていた方がよさそうだ。逃げていた小妖怪達はもう次の部屋に移っている。壁を突破されてもとりあえず大丈夫だ――自分達以外は。
「正斗、いちにのさんで退け!」
「助かるわぁ親友!」
 部屋の真ん中で俺は構えた。
 正斗が押さえていない右端や左端が、次の瞬間、槌やら槍やらにばりばりと齧られ――

「いち、に、さん!」

 退いたと同時に、襖が蹴破られた。
 わらわら湧いてきたのは沢山の和服の男達だ。銘々札や武器を手にしており、険しい顔でこちらを睨んでいる。……これが全部祓い人とは気が重い。
 なんて考える前に、右手を頭上にやった。指揮者のようにぐるり、と一回転。そして勢いよく、振り下ろす。
 ぶん、と、バットを振ったときのを百倍にしたような風斬り音が響いた。
 沸き起こるは、威力を圧縮した風。一陣の嵐。
「うわあああああああ!?」
 叫び声と全ての人間が、遥か彼方に飛んでいく。
「……アキちゃんちょっと本気出したやろ?」
「本気にちょっとも何もないだろう。本気は本気だ」
「まー涼しくはなったね」
 向こう側の襖が人の体で、次々と突き破られたり倒れたりしている。……ちとやりすぎたかもしれない。
「で、俺らどうする?」
「こがね様――気にならない?」
「それはなるし助けてやりたいが――」
「どうした?」
 正斗と篝が同時に顔を向けたので、俺は至極真剣な顔で答えた。
「例の大和撫子美少女がいたら困る」
 次の瞬間、俺は二人に両脇を抱えられて走り出していた。
「俺にとっては大事な問題なんだぞ!」
「むしろ今バレといた方がええて」
「出発出発」
「わかった! わかったから離せ!」
 ばたばた倒れている黒服を跨ぎ、通り過ぎ、屋敷の奥を目指す。
 部屋を進むごとに祓い人や妖怪がわんさかしており、その度に攻撃を食らわせなくてはならなかった。
「そういえば、今日の会合は蓬莱の玉の木の犯人探しのためだったらしいぞ」
 向かってきた札を風で打ち返しながら、会話を進める。
「え、あれ祓い人がやったん?」
「まあ、ある日突然桜が金の木に、なんて普通の人間じゃできないからな。妖力や術を使ったと考えるのが普通だろう」
「……とすればさ、蓬莱の玉の枝を手に入れるメリットが祓い人にはあるってこと?」
篝が入れた蹴りで男が倒れる。
 そう言われれば篝の言う通りだ。俺も曽我氏に言ったではないか、竹取物語の道具は妖力が高く珍しいだけで、用途は骨董好きの人間が愛でるしかないはずだと。
「なんや――祓い人でかぐや姫ごっこでもしとんか?」
 正斗が首を捻る。しかし篝はぴんと来たらしい。
「その可能性はあるよ。確か安倍神社の頭領の孫、高校生の女の子だ」
 ん?
「俺の友人が今日、五条大橋で高校生の女の子が婚約問題で悩んでいた、と言っていたが」
 まさかそれが安倍神社の娘だったのだろうか。
 そんな都合のいいことがあるか? しかし歳、背後の事情が一致している。婚約者のことで悩む女子高校生などそうはいまい。
「優秀な祓い人を婿にするために伝説の宝を取ってこさせる――充分ありうるね」
 顎に手を当て、思案顔で篝が言う。
 俺は頷いた。
「安倍神社の一族といえば名家中の名家だ。女子は高校生ならもう結婚できる歳だしな」
 これはなかなか有力な説が出た。
「あ、じゃあ俺も、店の仏の御石の鉢持っていけば参戦できるのかな?」
「……おまえが女好きなんは知っとったけど、祓い人の娘でもええんかい」
「やっぱそれはやだな。アキじゃないんだから」
 この野郎。
 ――あ。
「朝、裕也に会ったのだが。あいつ、碇屋の仏の御石の鉢は本物だから見張っておけ、と言っていたぞ」
 あれはもしや、鉢が他人の手元に渡っては困るからではないか。もし祓い人がかぐや姫のように――宝を持ってきた者を安倍の婿に取るのなら、店の鉢に買い手が付いたり盗まれたりした時点で、難題は終わりである。
 しかし、そもそも何故あいつが本物だと知っている? もしかして、仏の御石の鉢を碇屋に入れたのはあいつか?
「これはなんか隠しとるのう、あの双子」
 俺が自分の考えを二人に伝えると、正斗は面白そうにニヤニヤしだした。
「次おうたら締め上げたらなな」
「ていうか今日来てるんじゃないの? アキが会ったの、あの子らがここに来るときでしょ?」
「そうだな」
「よーし、出おたら絶対白状させたる」
 正斗は右手で拳を作り、左手にぱん、と当てる。やる気を出すのは構わないが。
「逆に言えば敵側に裕也と遼弥がいる、ということなのだがな」
 悪友二人は同時に「あ」と間抜けな声を出した。
 奴らの強さは、ここにいる全員が知っている。
「俺ら今日は悪いことしてないって言い切れないしなぁ……」
「裕也の式にだけは死んでもなりたくないぞ……」
 祓い人は往々にして、人語の通じる強い妖怪を見つけたら、自分の配下の操り人形――式にしようとする。基本的には同意の上で契約は結ばれるが、陣や道具を使うことで無理やり言うことを聞かせようとする奴もいる。そういう祓い人に捕まってしまったら、一生奴隷だ。
「おまえら、俺が捕まったら全力で助けてや」
「えー。俺は速攻逃げるからアキ頼んだよ」
「阿呆。自力でなんとかしろ」
「おまえら冷たいな!」
 そのとき、まっすぐ突っ切っていた部屋が、襖によって遮られた。
 多分一番奥だ。戸の先からどたどた音がする。きっとここが戦場になっている。
「……蹴破るか?」
「俺らもうそういう年でもないけ」
「やる!」
 篝と揃って見ると、正斗は目をきらきらさせていた。
「じゃあ行くぞ……」
 一度近付いてしまったので、わざわざ助走のために後退した。
 二人はいいかもしれないが、俺は人間の学生の中で生活を営む妖怪だ。このままだと次鉢合わせしたとき面倒なことになる。というころでパーカーのフードを被っておいた。気休めかもしれないがないよりマシだ。
 左から俺、正斗、篝の順に並び。
「ゴ!」
 駆け出す。
「おらおらおら助太刀じゃー!」
 正斗の雄叫びは無視して、牡丹の描かれた壁を足でぶち破った。
 戸が倒れ、見えた黒服にとりあえず突っ込む。いつかの腕相撲ではないが奇襲作戦だ。俺が選んだ祓い人は予想外に女性だった上、完全に隙だらけだったので、やや手加減して鳩尾に拳を打ち込んだ。
 倒れた体を床に激突する前に受け止めると、破魔矢がこちら目掛けてまっすぐ飛んでくる。
「おわ!」
 慌てて頭を下げた。
 気絶した女性をそっと床に下ろし、部屋の状態を確認する。
 えらく広い部屋だ。二十畳はあるだろうか。あちこちで人と妖怪が術を打ち合っている。篝は部屋の右の方で祓い人をビシバシ縁側へ蹴り出しているし、正斗は訳のわからないことをわーわー叫びながら黒服を投げ飛ばしている。
 しかし一番目を引くのは、部屋のど真ん中を陣取っている雷獣だ。姿は狼に似ているが、ライオンのように大きい。白い毛並みはふさふさと立派で、鋭い牙が口から覗いている。顔つきと妖力は、年季の入った威厳に満ちていた。吼えている。部屋の一番奥に背を向け、真ん中に座る、年を取った男に。
 爺はソファーにゆったりと腰掛けていた。髪はない。完全に坊主だ。服は他の祓い人と同じく、黒い羽織に白い和服。右手で頬杖を突き、にやにやと楽しそうに場を見物している。
 その左手には、瑠璃色の小さな壺が収まっていた。蓋の代わりなのか札が二枚貼られており、時折中が動くのかカタカタと揺れている。
 これが安倍の現当主だ。確信する。……纏っている妖力が尋常じゃない。
 その老人を守るように、若い衆がずらりと雷獣に立ち塞がっている。神社にそんなシステムがあるのか知らないが、門下生だろうか。しかし顔を見るに雷獣相手に完全に怖気づいている。まあ、皆まだ若いから仕方ない。
 何故か老人の左側に、片方はつまらなそうな、片方は落ちつかなげな白石双子が立っており、こちらをぼんやり眺めていた。部屋の左端には結界が張られている。中では少女が二人縮こまっていた。きっと安倍の娘と誰かだろう。そちらにも黒服の若いのが沢山立っていて顔が見えない。
 箕船の少女の姿は、今のところ見当たらなかった。
 ぼさっとしている間に、風を斬る音が連続してこちらに向かってきた。
「しゃらくさい!」
 空をはたくと、三つほどの矢は途端にばらばらと落ちていく。
 部屋の中央に向かって走った。きっとあの瑠璃色の壺が――こがね様を封じている壺だ。
『それを渡せ老いぼれ! さもなくば喰うぞ!』
 低い声が雷獣から発せられる。
「面白い。やってみるがよい」
 若いのが後ずさりする中、対する爺は好々と笑ってみせる。
 ライオンは唸り、体勢を低くした。雷獣が牙を剥く。体の周りからバチバチと電気が走り出している。
 あれは雷を発する構えだ。
「――駄目だ!」
 タックルするように左側から体を押さえた。
「その怒りはよくわかる! だが放電は駄目だ! ここにいる全員が死んでしまうぞ!」
 雷獣は聞く耳を持たない。
『構うか! こがねが取られるくらいなら――』
「そうはさせんで!」
 刹那、声と一緒に、雷獣が俺の体ごとずるりと後退した。
 見ると、雷獣の右足に正斗が掴まっている。
「頭に血ィ上っとる奴は邪魔なだけやでなー」
 俺は反射的に腕を離していた。
 正斗は笑顔だったが、両腕に渾身の力を込めて狼を足止めしている。雷獣は足をばたつかせているが振りほどけないらしい。
 ぐ、と。そのまま白い体が持ち上がる。
 そのまま正斗は自分の体を起点に、雷獣を振り回しだした。
 ジャイアントスイングでもする気か。いやする気だあれは!
「ちょっ、正斗おま」
 言いかけたが狼の体で鼻っ柱を折られそうになり、間一髪のところで退避。
 凄まじい風斬り音を発しながら、ぐるん、ぐるん、と雷獣が宙を回転している。
 当てられては叶わないと戦いを放りだし、いつの間にか妖怪も人も部屋の隅に避難していた。どれだけ馬鹿力なんだあいつは。
「悪いけど大人しゅう……」
 その馬鹿はにやりと笑みを浮かべて、
「退場してもらうでぇ!」
 俺達が蹴破った襖の先に狙いを付け、白い塊をぱっと離した。
 雷獣はものの見事に空を飛び、俺達のいる応接間を簡単に通り過ぎて、三部屋ほど先の畳に叩きつけられた。
 何かが爆発したような、えらい音がした。
 一同騒然となって、雷獣の落ちた先に顔を向けている。篝も白石兄弟も――本人と頭領以外はぽかーんとした間抜け面を晒していた。
 場が一発で静まり返った。
「ハ、案外簡単やったな」
 正斗が埃を払うように両手をはたく。
「おまえはちょっと頭冷やしとれ」
 言い捨てて、鬼は爺の方を振り返った。
 その目と目が、ひたりと合う。
「これはこれは。おまえさん凄まじい馬鹿力だな」
「ありがとさん。でもなぁ爺さん、助けられたとか勘違いしてもうたら困るで――俺は妖怪やからな。その壺が欲しいんはあいつと変わらんわ。いくら知らん奴でも、同類が捕まったら助けたらなな」
「ほう。しかし、これはもうわしの物。中の鵺はわしの式にさせてもらう。……おまえさんが代わりになるなら、逃がしてやってもよいがの」
 正斗は少し言いよどんだが、やがて不敵に笑いだした。
「阿呆、冗談言うとれ。もっとぴちぴちでぼいんぼいんの若い姉ちゃんやったら考えたってもええけど、いかにも性格悪そうなクソジジイに仕えるんはお断りや」
「いい条件で契約してやるがなぁ」
 残念残念、と爺は笑う。そして瑠璃色の壺を、正斗に差し出してみせる。
「ならばこの壺はどうやって取り返す?」
「そりゃ勿論、力づくで」
「できるかな?」
「できる」
 正斗は唐突に右手を握り、コイントスでもするように何かを弾いた。見えないほど小さかったその何かは、ぼん、と急に大きくなる。
 金砕棒だ。鬼に金棒ということわざさえある、鬼の専門にして最高の相性を誇る棍棒。
「――何せ俺には、冷たいけど心強い仲間がついとるからな」
 上空でくるくる回る金砕棒を手に取り、正斗は俺の方へ顔を向けて叫んだ。
「アキ! 頼んだ!」
 だが俺は言うより早く動いていた。
 先ほどのように風を集め、頭領の前にいる黒服達目掛けて――手加減なしの大風を放ったのだ。
 しかし相手も早かった。黒い影が飛び出してきて、鋭い音がしたかと思うと、俺の風は一瞬にして消えていた。
「!?」
 ぱし、と何かが当たる音。
 白石裕也が、俺から取った天狗の扇を振って閉じた音だった。
「悪く思うなよ」
 黒い羽織が風の余韻ではためいている。
 俺のと同等の風を作り、ぶつけて――相殺した。
「チ!」
 裕也が札を取り出し、俺に向かって突っ込んでくる。だが俺が迎え撃つより前に、陰陽師は横から攻撃された。篝が床を滑り、奴に足払いを決めたのだ。
「アキは早く壺を!」
「すまん! 任せた!」
 畳を蹴る。
「すいませんっ……!」
 しかし悲痛な声が耳に届き、思わず振り向いた。
 遼弥が俺に向かって弓を構えていた。だが矢はつがえられていない。
 放たれた矢は俺と遼弥の延長線上にいた――篝が掴み取っていた。
「おお。駄目かと思ったけど、意外とできるもんだね」
 軽薄に呟いて、奴は矢を床に捨てる。矢尻の部分には札が巻かれており、ところどころひどく焼け焦げていた。
「まあ負けても恨みはしないよ。……二人纏めてかかっておいで」
 俺の後ろに篝が立ち塞がる。振り向いて見るその背中は、早く行けと俺を叱咤していた。
 再び走り出す。
 端にいた祓い人達は、同じく避難していた妖怪達が抑えてくれている。
「奴らに協力するのじゃー! こがね様を取り返せー!」
 などと、いろんなのが喚いてえらく騒がしい。
「オラぁどかんかいい!」
 正斗がぶんぶん棍棒を振り回す。俺の風と違い、正斗の攻撃は単純な暴力である。妖力的要素はない。一番楽な「妖力を封じてしまう」という戦法は効かない。しかし、正斗の攻撃に蜘蛛の子を散らしたようになった若いのの後ろから、
「まだまだ修行が足らんのう」
 障子紙を連ねた紐が何十も飛んできた。
 金砕棒や正斗の腕にぐるぐる絡みつく。まだ正斗は動いているが、あと少しで完全に拘束してしまうだろう。
 だが――その隙だけで充分。
 跳躍。天井が高いから助かった。壁の頭上を通り越し、空いた爺の左手に目標を定め、人差し指と中指をこちらへくい、と動かした。
 見事、壺がふわりと空を舞い、まっすぐ俺の元に飛んでくる。
「これこれ」
 しかし爺はこちらにも紐を伸ばしてきた。正斗の拘束にも相当妖力を込めているだろうに、この爺は化け物か。
 叫ぶより動けだ。迎えに行き、俺が壺をキャッチしたのと、札が俺の体に到達したのが同時だった。そのまま紐が全身に回っていく。腕、腹、足、だんだん自由が利かなくなっていく。
 床に倒れ込んだ。フードが脱げる。
 必死で抵抗に抵抗し、壺の札を、渾身の力で剥がした。
 お札は妖怪の弱点だ。右手が焼ける。熱い。じゅう、と音がして、手のひらの皮がべろりと剥ける。歯を食い縛る。完全に自分が止まってしまう前に。――もう、一枚。
 取れた。
 壺から、もわもわと煙のようなものが立ち上った。
 煙が形作ったのは――黒い髪の、綺麗な、女の子だった。
 そこで俺の視界は、真っ白な紙に覆われてしまった。

「先輩!」

 耳の奥で聞き覚えのある声がしたが、それが誰のものなのかすらわからない。
 体の力がすーっと抜けていく。動けない。
 ――ああくそ。今日は散々な一日だ。

 そして俺は、白い世界の中で気を失った。


 …………。
 …………。
 ……頭がボーっとする。
 頬がぱちぱちはたかれて、痛くはないが鬱陶しい。
 目を開けた。木が沢山あった。
「アキ!」
「大丈夫!? 生きてる!?」
 いや、その前にチャラチャラしたのと女顔と眼帯がいた。うち二人はあちこちにキズバンや包帯を巻いて、見るからにボロボロだった。
「あー……一応は」
「よかった……っ」
 見えないところで女の子の声がする。
 女。
「……こがね様どうなった?」
「大丈夫! 秋隆が頑張ったから逃げられた!」
「……その声は皐月か?」
 ああ、そんなこと聞かなくてもわかるじゃないか。見えているのに。
「そうだよ! 全くもう無茶して……!」
「心配させんなやもう! 阿呆!」
「誰か水ちょうだい!」
 だんだん意識がはっきりしてきた。
 正斗に背中を支えられて状態を起こし、水の入ったコップを受け取る。
 いつの間にか手に包帯が巻かれていた。こくり、と一口だけ飲む。
「先輩、よかった、よかったぁ……!」
 俺の左手、皐月の後ろで、女の子が膝をついていた。目からぼろぼろと涙が落ちていく。白い和服に黒い羽織り。長い髪。整った顔。
 綾倉千鶴だった。
 一気に目が覚めた。
「!? 綾倉さんなんでここに!?」
「ミイラ男状態になったアキ助けてくれたの、彼女なんだよ。拘束用だったからダメージは負ってなかったけど、どうしても取れなくて」
「え、でもあの部屋にはいなかったはずじゃ」
 涙を拭いて、彼女は答えた。
「私美羽ちゃんと結界の中にいたので――見えなかったんだと思います」
 絶句した。つまり左端にいた少女二人の片方は彼女だったのである。
 だが黙っていても、バレたものは仕方ない。
 またコップに口を付けた。冷たい水が体に行き渡っていく。そうすると少し気分がすっきりした。
「……俺がミイラ男になってからどうなったんだ?」
「こがね様が出てきた後で、綾倉さんがおまえに駆け寄ってくれたんだよ。で、皐月が来た。煙幕出して、俺らでアキ抱えて猛ダッシュだよ。で雷獣さんに乗って糺の森まで逃げてきた」
「そうか、だからこんなに周りが木ばっかりなのか」
 はぁ、と一つ大きく息を吐いた。全員が黙ったので、彼女のしゃくりあげる声だけが森に響いていく。
「――ごめん、綾倉さん」
 そちらに顔を向けて、俺は精一杯力を込めて言った。
「でも、俺、大丈夫だから。もう泣かないで」
 ありがとう。
 ひっく、ひっく、と喉が鳴っている。
 だが綾倉さんは着物の袖で豪快に目をこすり、
「はい!」
 としっかりした声で答えた。
 その姿がなんだか微笑ましくて。笑ったら、自分の周りの集団が目に入った。
「……おいおまえら。言いたいことがあるなら言え」
「やぁ別にー? お熱いなぁと思って」
「なっ」
 頬がかあと熱くなる。全員、俺をからかうようにニヤニヤしている。
「ていうかお嬢さん、ようあの状況で飛び出して来れたなぁ。妖怪助けてしもて大丈夫なんか?」
「真田先輩の姿が見えたので思わず……帰ったら父に叱られるとは思います。でも、妖怪を無理やり式にするのは、私は反対なので。取り返したいと思って当然ですよ。だから私、気持ちとしては妖怪側に賛成なんです。花火打ち込まれたときは驚きましたけど、それは先輩達がしたことじゃないでしょう?」
 綾倉さんは笑顔でそう語る。
 正斗が空いた手で口元を押さえ、感激した風に目を細めた。
「ええ子や……この子ほんまええ子……」
「俺祓い人は嫌って言ったけどこの子は別」
「篝コラァ」
 皐月が脇で、小さな声で笑っていた。
「――目が覚めたかの」
 その時森の奥から、白いライオンのような獣が歩いてきた。
 背にショートの黒髪の少女が乗っている。
 年は小学生ほどに見えるが、きっと実年齢は何千歳にもなるだろう。お人形さんのような可愛らしい顔立ち。白シャツに赤いリボン、灰色のスカートにニーソックス。小奇麗なお嬢さん、という感じだ。
 あれがこがね様か。
「箕船の天狗と巫女、鬼、猫、狐。世話をかけたな」
 雷獣は俺達の手前で止まり、こがね様はぴょんと地面に降りてこちらへ歩いてくる。
「本来なら、糺の森全員で詫びを入れたいのだがな。騒ぎで弱っているのもおるし、参加していないのは巫女を怖がって出てこないのだ。すまぬな」
「あ、私のせいで……すみません」
 綾倉さんが萎縮したように頭を下げるが、こがね様は首を横に振った。
「謝るのはこちらの方だ。そしてありがとう――おかげで私はここにいる」
 つかつかと。
 こがね様は、俺の正面に膝をつく。
「この礼は必ず。大したことはできぬが、困ったときはいつでも呼ばれよ。糺の森の妖怪全員で駆けつける」
 もちろんあなたもだぞ、と彼女は綾倉さんを見た。
「――はい」
 顔を合わせ、花のような笑顔を浮かべる巫女。
 一瞬見惚れた。
 しかし正斗篝がニヤニヤしているのに気付き、慌てて気を引き締める。
「あやつも――悪い奴ではないのだがな」
 苦笑いしながら目をやったのは、後ろで控えている雷獣だった。丸まり、俺達の方へ目を光らせているばかりで、どうも寄ってくる様子はない。
 そういえば、あいつは周りを殺してでもこがね様を助ける、と言っていたっけ。
「どうも私にしか懐かんで」
 犬系統の動物が唸る声が聞こえたのは気のせいだと思いたい。
「ここの森は妖力で満ちている。動けるようになるまで休んでいけ」
 ありがとうございます、と声が揃う。
 こがね様はにっこりして、
「ではすまんが、他の妖怪の様子を見てくるので失礼する」
 と、ぽてぽて歩いて去っていった。

 しかし結局、少し休んで回復した後で、糺の森を出て行った。
 皐月はバイトの子に番を任せているからと、早々に店に帰った。私、正斗、篝は行き先が一緒だ。ボロい六畳部屋。綾倉さんはあの状態ではもう会議などないだろうということで、安倍神社へは戻らず、箕船神社へ帰るらしい。居場所を伝え、妖怪達に送ってもらえることになった。
 帰った部屋の中でばったり倒れ込み、俺達は昼間で眠りこけた。