地球からのQSO/



 あの試合を終えてから練習に来なくなった奴、バスケを完全に辞めてしまった奴、自信を無くしてしまった奴がいた。真面目にやっていた奴ほど速く、深く落ちていって、もう這い上がれないところまで行ってしまったチームメイトが沢山いた。
 そうなったのはひとえに、オレたちが弱かったから。確かにそうだろう。だがどうすればよかったんだ。あんなの、台風相手にフォークを振り回しているようなものだ。明らかに実力の違う怪物たち。オレだって諦めたくなかった、勝ちたかった、あんな惨めな気分になりたくなかった、そんな弱音を誰が責められる。
 そしてその後で、強く強く思うのだ。
 ――情けねぇバカみてえ最高にかっこわりい。
 だからこんなのはただの私怨だ。全面的にオレが悪い最低の感情だ。理解している。だがそれでいい。そう思い続けることだけが、オレに残された最後の砦である。全部緑間が悪いということにして被害者ぶれば、そりゃあ楽だろう。だがそれでは、自分が本当に惨めになってしまう。二度と立ち上がる資格がなくなってしまう。そんな気がする。
 しかしどうしても消せない、濁りきった、確かにこの胸の中にある感情。
 オレこと高尾和成は、緑間真太郎を、どこかで恨んでいる。



 ボールが宙を飛んでいる。視界を右往左往する赤ゼッケンと白ゼッケン。あんなに綺麗でも優雅でもないけど、ちょっとだけ、狭い池の中の鯉みたいである。などとらしくもなく詩的なことを、しかも紅白戦中なのに思ってみたりする。
「へい!」
 持った途端マークに掴まってボールを下げたら、背後にいた先輩が手を上げて知らせてくれた。完全にフリーだ。ありがたやと思いながら股抜きでパスした。先輩はちゃんと受け取って、ドリブルしてセンターラインへ突っ込んでいく。
 しかしその進路に立ち塞がるように、大きな緑色の影が現れた。
 ターンを捕まえて、腕を伸ばして跳ねるボールを掬い取って、そのまま伸び上がってシュート体勢に移行。
 丸い茶色が高く高く、天井へ舞い上がる。
 大きなボールが、スポットライトを日食のように一瞬だけ覆い隠して、ゴールに吸い込まれていく。――いつかの光景と寸分たがわず。
 耳の端でブザーの鳴る音が聞こえた気がした。
「あ、」
 ざ、とネットが揺れる音。歓声とホイッスル。
 突っ立っているうちに、次の試合を待っていた先輩方に、ゼッケンを剥ぎ取られてコートから追い出された。
 タオルを持ってふらふらと体育館を出て、テラスに設置されている水道に向かった。ちょうど汗だくの同級生が集まっていて、顔を洗ったり座り込んで休憩したりしている。さっきチームを組んでいた奴もそこにいた。
「あ、高尾、さっきはお疲れー」
「そっちもお疲れさん。しっかしまけちったなー」
「やっぱちげーよなーキセキの世代サマはよー」
 ははは、と気持ちの籠らない笑い声を返して、空いている水道に進み出て蛇口を捻る。水が流れ出す。両手を器にして溜めて、顔に押し当てる。火照った頬が少しだけ冷えて、汗が洗い流されて気持ちよかった。
「秀徳で、入部して即レギュラーだしなあ。あんまこゆこと言いたくねーけど、ほんとにさすがキセキとしか言いようないよなあ」
「そりゃコートの真ん中からシュート打てて、しかも命中率が百パーの奴なんて常識的に考えていねーし! バケモンかよ!」
「でもあいつオレらと同いよ……? 悲しいけど同いなのよ……?」
「先輩たちと変わらない体格だけど十五歳なのよ彼……それに比べてなんて貧弱なアタシたち……」
「やめて! 厳しい現実なんて見たくないわ!」
 タオルで顔を拭いながら思わず吹き出したら、全員がこっちを見た。
「さっきからおまえらなんで女言葉なんだよ……笑かすなって!」
「え、なんでって……ノリ?」
「あらやだ高尾ちゃん笑ったおカオかわいーじゃない、おねえさんによく見せてぇ?」
「うっわ、汗だくでひっつこうとすんじゃねぇって! や! め! ろ!」
 しっしと手を振って、気色悪い声を出すむさい野郎を追い払う。いやーんつれないとか言いながら離れていくので、また笑ってしまう。
 そんな和やかムードの中で、いきなり、青いシャツ姿の爽やか短髪(名前が思い出せない)が「あ」と声を挙げた。
「そーいや高尾には言ったっけ? 明日練習終わったら、学校の前のファミレスで一年の親睦会やるつもりなんだけど」
「いや聞いてねーよ? 行くけど」
「よし高尾参加―っと。……であのさ、悪りいんだけど、おまえ明日緑間誘っといてくんねえ?」
「え」
 思わず固まった。
 同級生は顔の前で手を合わせて、
「頼む! あいつおまえの後ろの席だろ? 高尾ならうまくやれそうだしさー、緑間の話って聞いてみてぇじゃん?」
「あー……」
 確かに、ホームルーム一発目で行われた席替えのせいで、オレと緑間は前後席だ。自己紹介をしたときが一番大きなアクションで、席がかちあったときは「あっれー緑間クン? クラスが一緒の次は後ろの席かよーやべーオレら運命の赤い糸で繋がってたりしてー?」なんて茶化して、それ以降はプリントを回すときなんかにちょこちょこ話しかけてはいる。しかしあいつ絶望的に愛想がない。誘ったって来ないに決まっている。
 ……けどオレ以外が言ったって同じだろうし。
「……わーった。でも当日だし、絶対に来させる保証はできないぜ? それでもいいんならだけど」
「いーよダメ元だから。忘れず頼むなー、明日なんか奢ってやるから」
 なかなか気前がいい同級生だった。ちょっとだけやる気が湧いた。
「おい一年ども! 何ちんたら休んでんだ次の試合やっぞ!」
 と、もたもたしていると、体育館の出入り口から先輩の怒号が飛んでくる。青ざめた視線が一瞬だけ飛び交い、全員で慌てて「すいませんしたぁ!」と返事をする。駆け足で体育館に戻って、なんかもう軍隊みたいだと思った。上下関係も練習も厳しい、声を出さないと怒られる。中学のときとはレベルが桁違いだ。
 ――その方が気合いはいっけどな。
 さすが三大王者臨むところ、という感じで。
 ゲーム終了のホイッスルが鳴る。ゼッケンを貰って、また所定のコートに足を踏み入れる。そのとき一瞬だけ、鷹の目を使って体育館全体をチェックしてみた。図体のでかい緑色の影なんてすぐ見つかる。オレとは違うコートを、澄ました顔で歩いている。
 確かにここにいる。自分と同じチームに。
 そんな確認作業を、この学校に入って何度行ったかわからない。何度やったって結果は変わらないとわかっているのに。それにバカみたいだ。
 ――オレばっか意識して、目で追って。
 何やってんだオレ。今更敵意なんて持ったって意味ないのに、さっさと切り替えなくちゃならないのに。
 心の中で小さく溜め息が漏れた。

 翌日、朝考えた手筈通りに事を実行した。
 二時間目終了後の休み時間。自分の席で一足先に弁当を食っていて、さも今思い出しました、という具合を装って後ろを向く。
「そーだ緑間、おまえ今日通常練習の後ヒマ?」
 小さな文庫本を両手に。
 緑間真太郎は淡々とした口調で、
「……暇じゃないのだよ」
 とだけ言った。
 言ったというか唸ったの方が正しいかもしれない。
 やっぱ変な語尾。
「用事ってどうせ自主練だろー? なんか今日終わったら、ガッコ前のファミレスで一年の親睦会やんだって。皆集まるからおまえも来いってよ」
「オレは行かないと伝えておけ」
「えーなんで? 」
 冷凍のクリームコロッケを口に運びながら、じっと観察する。
 ボタンどころかカラーまできっちり留めた学生服。眼鏡。妙に白い肌。左手の指にはそれより白いテーピングがぐるぐると。性格からして染めてはいないだろうに緑っぽい色をしている前髪が、分厚く額を覆っている。マッチ棒が四本くらい乗りそうなバシバシの睫毛。それが覆う切れ長の目をそっと伏せ、本の世界に片足を突っ込んでいる。なんだかATフィールドが見えた気がしたが無視した。
「飯を頬張りながら喋るな、汚い」
 はいはいすいませんねお下品で。
 口の中のものをごっくんし、水筒から茶を入れて飲む。
 するとその間に、緑間は栞を挟んで本を閉じていた。手の甲で机の端に押しやる。紺色を基調に、沢山水玉が浮いたデザインのカバーの端っこには『高野聖』と書かれている。
 静かに顔が上がる。
 緑色の瞳とかち合う。
 うっすら張った涙の膜が、光を湛えてきらきらと輝いている。
 ――意外だ。オレの顔なんか見ないまま、本読みながら聞き流されると思った。
 これはちょっと脈ありかもしれない。
「飯食ってバカ騒ぎして、せんせーに見つかっても怒られないギリギリで引き上げて、そんだけじゃん。ハーフラインからのシュートより簡単っしょ?」
「そういうのは得意じゃない」
 だろうな、と内心同意する。口には出さねぇけど。
 少しだけ考え込んで、再度開口。
「……ほら、おまえってさ、天下無敵のキセキの世代の一員だったじゃん? オレらの学年でバスケやってたら知らねぇ奴なんていないわけ。だから皆おまえに興味あんだよ。話してみたいし、もう同じチームなんだから、できれば仲良くやっていきたいと思ってる。だからおまえが行ったら、皆喜ぶと思うぜ。おまえただでさえちょっと話しかけづらいしさ」
 下手にうまいこと言わず、正直な意見を述べてみた。
 一年グループに混じっているとひしひしと感じる。結局、誰もかれも緑間真太郎という人間に興味を持っているのだ。大なり小なり、良い意味でも悪い意味でも。
「それにこれから三年付き合うんだから、うまくやっとくに越したことねーだろ? 大事だぜ。人間関係も」
 これも本音。緑間を見ていると歯がゆくて仕方がない。もう少しだけでも愛想よくすれば、先輩達とも同級生ともうまくいくのに。
 悲しいことにこの世界は、自分の好きなことだけやっていればうまく回るわけじゃない。煩わしいことも我慢しなきゃいけないし、苦手なことだってやらなくちゃならない。
 だが奴は涼しい顔で、やっぱり感情の籠らない声で言った。
「必要性を感じないのだよ」
 気のない言葉に、少し苛立ってしまった。
「チームメイトと親睦深めんのに必要性もくそもねーだろうがよ」
 それとも何。
「おまえ一人いれば点は取れるから、別にオレらと仲良しこよしする必要はない、って言いてぇわけ?」
 沈黙。
 その後で、チャイムが鳴り響いた。
 小さく息を吸って、吐いて、深呼吸。落ち着け。怒っても何にもならない。
 無理やり口角を上げて、薄く笑う。
「――急に提案したのはこっちが悪かったよ。オレも昨日聞いたばっかだしそこは勘弁な。まあ、前向きに考えといてくれよ。じゃ」
 言い捨てて前を向いた。
 最初の期待が嘘のように、手ごたえを感じないやりとりだった。
 ――それにしてもあいつ。
 鷹の目でこっそりと確認した緑間は、少しだけ静止して、やがて文庫本を引き出しにしまって入れ違いに教科書類を取り出していた。いつもの仏頂面と、流れるような動作と、ぴんと伸びた背筋で自分を構成して。
 そして思う。
 ――ほんとに、笑わねぇよなあ。

 放課後、一年のほぼ全員が揃ったが、やはり緑間は店内に姿を見せなかった。
 三十分ほど待っても一向に来る気配がない。
「んー、オレも出るとき声掛けたんだけど、やっぱ無理だったか……」
 主催らしい爽やか短髪くんが頬を掻く。高尾ちゃんと誘ってくれたんだよな、と尋ねられもしたが、一応言ったと返すと沈黙していた。
 ドリンクバーと少しのポテトだけで待たされた腹ペコ運動部員共は非難轟々で、
「もーいーじゃん。時間あんまねーし注文しようぜ」
「そーそー、腹減ったわ」
「……そだな」
 メニューが回され、わいのわいのと騒がしい声が飛ぶ。面倒見のいい奴がアンケート用紙を一枚取って、後ろにオーダーを書きつけていく。
「高尾も、約束通り好きなもん注文していいぜ」
「あー……んじゃあ高尾ちゃん、お言葉に甘えてがっつりいっちゃいまーす!」
 浮かない顔をした隣を見て、わざと元気に返事をした。狙っていたミックスグリルを書き留め役に頼む。ソファに大袈裟に凭れかかり、うっすいオレンジサイダーのストローに口を付け、話しかけてみる。
「てかおまえ、妙に緑間に固執してね? なんかあったの?」
 爽やか短髪くんは困ったように笑った。
「んーなんつーか……まあオレ、中三んときの全中で帝光と当たってさ」
「……おお……」
 それはそれは。
「お互いご愁傷様だな……」
「……もしかして高尾も?」
「まあ……んで、ボロ負けしたよな」
 何も答えはなかったが、あそこに勝てるチームなんていなかったから、結果はオレと同じだろう。
 営業スマイル装備のお姉さんの「いらっしゃいませーご注文お伺いします」と注文を取りに来る。やかましいタイプの奴がオーダーを読み上げる。
 相手は自分のウーロン茶をちびっと飲んで、会話を途切れさせた。その間に聞こえてくる。
「つーか別に緑間誘わなくても良かったんじゃね。来るわけねーじゃん」
「ほんっっっと協調性ねぇもんなー、プレイだってジコチューだし。先輩達にもすげえ嫌われてっし、正直あんま関わりたくねえっつーか……我儘三回とかもおかしいよな?」
「おかしい! あれヒーキだって絶対!」
「いくらキセキの世代だからってあんな特別待遇納得いかねぇよな!」
「ていうか何だあのいっつも持ち歩いてるぬいぐるみとか置物とか! イミわかんねえ!」
「いろんな意味でちょっとは遠慮しろっつうんだよな!」
「……まあ、緑間に向けてる気持ちってこんな感じだよな、皆」
 苦笑いをますます深めて、爽やかくんがようやっと口を開く。
「オレんとこも昔、すげー大差付けられて負けちゃってさ。やっぱショックで……オレも一回はやめようかと思ったし、実際やめた奴もゴロゴロいたよ。だから、……正直今、緑間と同じチームになっても、なんかしこりがあるってか。だから緑間がどんな奴か知って、一緒に練習して仲良くなれたら、それも取れるかと思ったんだけど――」
 緑間は決して自分達に心を開かない。歩み寄ろうとさえしない。相変わらず台風のままだ。無事なのはあいつが立っている中心だけで、周りはミキサーに掛けたみたいにぐちゃぐちゃに掻き回す。
 ああ、と溜め息のような同意が漏れた。
「それ、すげーわかるわ」
 切り替えなくちゃならないと思うのに、どうしてもうまいこと感情がシフトしてくれない。緑間を見ると、昔のチームメイトの泣き顔や苦悶、あの試合で感じた苦いものがどうしてもちらつく。引退後もがむしゃらに練習していたほどの悔しさが胸をよぎる。
 緑間が同じチーム、同じクラスにいたときの衝撃ときたら、言葉では言い表せないほどだった。それが静まってきた四月半ば。オレはただただ茫然として、途方に暮れている。
 あれだけ一生懸命磨いた、緑間真太郎を落とすための武器を、敵意を――対象に向けられなくなった今、どこにやればいいのか。
「……高尾って、結構緑間に話しかけてる印象あるもんな。もしかして理由は一緒?」
「んー……うまくは言えねぇんだけど」
 確かに好きにはなれない。協調性はないし無愛想だし我儘だし。
 だけれど。
「完全に嫌いかっつったらそうでもねーんだよな。別に無理に仲良くしないとなんて思ってねーし、あっちも思ってないみたいだし、別に一人でもいいみてーだし? ならもう関わらなくていいじゃんって感じなんだけど、なーんかほっとけねえってか……すっきりしねえっつーか……だからなんでこんな風にもやもやしてんのか、それを探ってる最中って感じ」
「……そっか」
 しみじみと。
 未だに緑間の愚痴大会が盛り上がっている中、オレとそいつの周辺だけは、何故か水を打ったようだった。
 爽やかくんはまた少しだけお茶を飲んで、喉を潤してから、
「えらい奴とかちあっちゃったよなあ……ほんと」
「だよなあ……」
「監督も最初の練習で言ってたけど、運ないよなオレら……」
「それはすっげえ思うわ……」
 やがてさっきのお姉さんが最初の料理を運んできて、テーブルはむさい野郎の歓声に包まれる。それでオレも体を乗り出して食事モードに入った。後はもう自分でも言っていることがよくわからない、どんちゃん騒ぎだ。
 爽やかくんとはそれきり、話をしないまま別れた。
 ファミレスから外に出ると、散りかけの桜、薄桃色の花弁が、雪のように空に舞っていた。温く昏い、深い深い群青色のドーム。ほんのりと甘い匂いがしそうな虚空。少し欠けた月が辺りを照らして、煙のように薄く纏った雲を透かしている。そのおかげで動きがよく見える。夜がこんこんと更けていくのがわかる、なんだか不思議な気分だ。
「あー食った食った」
「明日も学校かよくっそー」
「じゃあまた明日なー」
 自転車組は自転車で家に、徒歩組は団子になって駅に向かう。オレは自転車組だ。電車の方が楽だが、体力づくりの一環と、入学祝に買ってもらったばかりのママチャリで通学している。
 探査機のようにライトを付けて、喋りながら車道を走っていると、建物や木の間から、不意に秀徳の校舎が見えた。小さな光をいくつも集めて、まだ生きていますよと伝えんばかりである。
 体育館の明かりは、まだ灯っていた。
「……あ、オレ学校に英語のプリント忘れてきたわ! 取ってくっから先帰ってて!」
 道を左に外れる。集団の「四月から置き勉かよ高尾ー」「また明日なー」という、背後から被さっていた声がだんだん遠ざかっていく。
 ペダルをこぐ速度が、それと比例して速まっていた。
 花を巻き上げながら、しゃー、と音をたてて、暗い路地を突っ走る。風が髪をなぶる。オレは風。なーんてな、と内心で呟いて、一人で小さく吹き出す。
 カッコつけて派手にドリフトして、しかしその後は大人しめに、静かに体育館の前にママチャリを止める。学ランのポケットに手を突っ込んだ。照れ隠しだ。入口から身を乗り出す。上履きに履き替えるのが面倒くさい。
 ボールが跳ねる鈍い音がした。
 茶色基調の空間に、白いシャツと黒のハーフパンツ、まっすぐ長く、ややほっそりと伸びた背中と手足。ハーフラインの上に立っている。テーピングの巻かれた指先がボールを弾いて、ゴールネットを揺らす。
「……おーい、緑間ー」
 タイミングを見て声を出した。
 ボールが床に当たる音と、緑色の頭が振り向いたのが同時だった。野暮ったい前髪が汗で濡れている。涼やかなのに精悍に整えられた顔立ち。
「親睦会終わっちまったんだけどー?」
 そう言った途端怪訝に眉が動いて、また背中を向けられてしまった。
「行かないと言っただろうが。しつこい」
「そんだけ期待してたってことだよ、恨み言くらい聞いてくれたっていーんじゃね」
 また、ボールがバウンドする音。近くにあるストッカーから取って、手元で遊ばせて、緑間が頭上で構える。
 滑らかな指先の動き、手首のスナップと返し。
 こいつがピアノが得意――らしいと以前女子が騒いでいた――な理由がなんとなくわかる気がする。
 膝を折って、戸口にちょこんと尻を下ろす。壁掛け時計に目をやる。もう少しで最終下校のチャイムが鳴る。それが誰もいない校舎に響き渡るまで、こいつはシュートを打ち続ける。
 知っている。だってオレもいっつも同じ時間まで練習してるから。
「…………なあ、」
 物言わぬ背中はもう沢山だ鬱陶しい邪魔をするな帰れ、とオレを拒絶しているのが丸わかりだったが、知らんふりを決め込んだ。
「嫌にならねーの?」
 たっぷり間を置いて、唸るような声。
「何が」
 こっち振り向きもしやがらねえの。
「それ。同じこと延々やって、しかも出る成果はずっと一緒だろ。おまえ絶対シュート落とさねーし」
 それは例えば、今オレの鞄の中にちゃんと入っている英語単語の書き取りプリントを、ずっとやらされ続けるような。同じ目の出るサイコロを、延々と振り続けているようなもんなんじゃないだろうか。オレなら気が狂いそうだ。
「……シュートは反復練習が命なのだよ。やらないと腕が鈍る。おまえもそれくらいわかるだろうが」
「おまえの気持ちはわかんねぇのよ」
 またシュートが決まって、どん、どん、と重い音。
「楽しいの? それ」
 そんな情けない声すら遠く響いていって、人気のない体育館というのは寂しいものだなと思った。
 こいつも一人で練習して、そういうことは思わないのだろうか。こんながらんどうの、どうしようもなく広い空間に一人ぼっちで、怖いとか、心細いとか、思わないのだろうか。
「……オレは」
 やがて返ってきた答えは、
「楽しい楽しくないでバスケはしていない」
 人生楽しんだもん勝ち、を座右の銘に掲げるオレには、理解しがたいもので。
 ――なんだそれ。
 じゃあ何のために、誰のためにバスケやってんだ、こいつ。
「高尾? 今日もこんな時間まで練習か?」
 後ろから飛んできた低い声に慌てて振り向く。つんと短く刈った髪に、うちで一、二を争う大柄な体格。渡り廊下に立っていたのは、うちの主将さんだった。
「あ、大坪さんお疲れさんです! いや、オレは偶然寄っただけっすけど……」
「何やってんだ、もうチャイム鳴るから早く帰れよ? 緑間にもそう言っといてくれ」
「わかりました。大坪さんもお気を付けてー」
 大坪さんは小さく手を振って、体育館の明かりの届かない暗闇へ退場していく。
「……聞こえたー?」
「聞こえた」
 ラスト一球。緑間は投げて、ゴールの下に転がっているボールを拾い集めに行った。ぱすっ、と小気味いい音をたてて最後のシュートが決まり、それもストッカーにしまって転がして、倉庫に片付けに行く。
 オレはと言えばその場にしゃがみこんだままで、一向に手を貸さなかった。そんな気分じゃなかった。不意打ちでおっきな氷の塊を飲み込まされたような、嫌な気分だった。緑間もいつものイヤミったらしい口調で、見ていないで手伝えくらい言えばいいのにと思った。そしたら嫌々ながらもスニーカーを脱いでそっちに行くのに。
 それでも緑間は最後、体育館の照明スイッチを押すところまで一人でやりきって、オレの方に歩いてきた。
 ようやく立ち上がってでかいのに道を譲り、留めていた自転車の方へ向かった。
 緑間の着替えなんて待ちたくなかった。
「……じゃあオレ、帰るから」
「そうか」
 しかめっつらを隠しもしなかった。
 オレは鍵を開け、ママチャリに飛び乗り、できるだけなんでもない足取りを装ってその場から離脱した。



 きゅっ、とバッシュの爪先が音をたてる。
 手元でゆっくりドリブルして、目の前の敵を通常状態の視線で睨みつける。
 息を吸って、吐いて。潜めて、じっと、静かに相手の反応を窺う。
 眼鏡越しの緑色。でかい。凄まじい威圧感。
 でっかい丸で床をつく音。一定速度。催眠術を掛ける用の、十円玉の吊るされた振り子のようだ。
 たーん、たーん、たーん、たーん。
 ――刹那。
 急速にボールを押し込んで左へフェイク、と見せかけて右、これもフェイク、左へ全力ドライブ、そこから右手が蛇みたいに伸びてきて、
「!」
 瞬間。
 耳をつんざくような、高いホイッスルが鳴り響いた。
 試合終了。
 今日の練習はその紅白戦で終わりだ。整列して、頭を下げてありがとうございました、と叫んで、散る人ごみの中にぽつんと立ちつくす。
 気分がすっきりしなくて、そのままよろよろと外に出た。いつもの通り水道のところまで行って、顔を洗う。それでもすっきりしない。
「……あー、くそ」
 負けた。
 負けた。
 ……取られた。
 凍らせたらわたあめが作れそうな、大きな溜め息がこぼれる。
 その後で両手で頬を叩いて、気合いを入れ直した。
 落ち込んでいるのは自分らしくない、後ろを向く暇があったら前を見ろ。言い聞かせて、タオルで雑に顔を拭って歩きだした。汗を掻いたシャツが気色悪い、一回着替えよう。
 渡り廊下を通って部室棟へ。むさ苦しい男バス部室へ向かう。
 が、帰宅組と居残り組でひしめきあっている筈の部屋の前には何故か人が溢れていて、中から何やら怒号めいたものが漏れてきていた。
「あ、高尾!」
「……どした? もしかして」
 喧嘩か、と言う前に、同級生は焦った顔で、
「緑間が先輩ともめてる!」
 硬直した。
 あいつとうとうやっちまったか、と思った。
「……ど、どういう経緯で!?」
「オレも途中から来たからわかんないって!」
 おいおまえらいい加減にしろよ、もうやめとけって、緑間、落ち着け、だあん、とロッカーに何か重そうな物が叩きつけられる音。かしゃーん、という軽い音。
 走って部屋を覗いた。
 想像通り、緑間が自分より少し小さい先輩に、ロッカーに押し付けられていた。
「っ、おまえが!」
 怒り心頭の顔で、なのに泣きそうな声で、
「おまえがそんなだから、オレらは……!」
 叫んだ、その左手は、あいつのそれを無遠慮に掴んでいて、
 静止の声を挙げる前に。
 緑間は長い腕を鞭のように真一文字に振るって、渾身の力で枷を払った。
 嫌な音がした。
 何かが壊れた音だった。
「こ……の野郎!」
 爆弾が破裂したような大きな声が挙がった。
 突っかかろうとした先輩が、後ろから伸びてきた何本もの手にあっという間に羽交い絞めにされる。
 緑間はいつもの無表情のまま、床に落ちていた眼鏡を拾った。そしてそのまま、踵を返して更衣室から出て行った。あまりに堂々としているので、避けて道を開けてしまったくらいだ。顔は見なかった。見れなかった、と言った方が正しいかもしれない。ただ茫然として、わあわあ喚いて押さえられている先輩を見ていた。
 何がどういう道を辿ってこんなことになったのか、さっぱりわからなかった。だけれど、その暴れる人型をした何かは、ひどく、同情と冷めた達観両方を誘う物で、
「――おい、バカみてえに騒いでみっともねえ姿晒してんじゃねぇよ、轢くぞコラ」
 いきなり、肩に大きくて温かいものが触れた。
 それを感じた瞬間、どけ、と言わんばかりに後ろに引かれる。
 オレの代わりに前に進み出たのは、明るい髪をした、顔立ちが少し幼くて、だがこの部の中で一番厳しい先輩だった。
「宮地さん、けど」
「文句を言いたくなる気持ちはわかる、オレだって実際言ってっしな。けど、おまえの鬱憤を緑間に向けるのは違うだろうが。気に入らねぇならおまえがあいつ叩き落として変えればいい。それができねぇなら、うちのやり方が気に入らねぇなら、もう部なんてやめちまえ」
 そんな人が甘くて優しい、同情的な言葉なんて掛けるわけがなく。――鋭い針みたいな叱咤だった。周り全員を、吐いた本人でさえ突き刺すような。
「キセキの世代なんてのが出てきた時点で覚悟したんじゃなかったのかよ。オレらの世界には訳わかんねー、どうしようもなく理不尽なバケモンがいる。けど、それでもやめられないから、こうしてバスケやってんだって」
 未だに床を転がる先輩は、はっとした顔をした。
 だがそれはみるみるうちに半べそに変わって、
「……宮地さんは!」
 その人は振り絞るように叫んだ。
 もうやめてくれと思った。
 嫌だこんなの、聞きたくない、見たくない、思い知らされる、自分も同じなんだって、足掻いて、でもどうしようもなく結果は無惨で、折り合いなんて付けられなくてうまく割り切れなくて、
「あいつらと直接当たったことが無いから! んなことが言えるんすよ!」
 しん、と辺りが静まり返った。
 やや置いて。
 その人は、口元にうっすらと、笑みを湛えた。
 哀れむようで、赦したようで、しかしどうしようもなく軽蔑したようで、突き放したような、そんな壮絶な、笑顔だった。
「……そうか。そうだな。そうかもしんねぇな」
 力無い声で、宮地さんは言った。
「そうやって一生人のせいにしてろ」
 そして、緑間と同じように、誰にも当たらず誰とも話さず、背筋を伸ばしてまっすぐ前だけ見て、更衣室から出て行った。
 足音が遠ざかる。誰も何も言わない。
 ひどい吐き気がした。オレももう見ていたくなかった。目の表面も潤んできていた。だけれど拳を握って、足を踏ん張って、意地のように耐えた。そうしないと、何かに負けてしまいそうな気がした。
 ――だけど宮地さん。
 縺れそうな足を動かして、そこから離れる。
 ――それは酷でしょう。
 オレたちが弱かったから。確かにそうだろう。だがどうすればよかったんだ。オレだって諦めたくなかった、勝ちたかった、あんな惨めな気分になりたくなかった、そんな弱音を、
 そんな弱音を吐いちゃ、いけないのか。
 みんな、あんたみたいに強くない。

 オレのメニューは月水、火木、金用の三種類ある。本日水曜のは体力作りが中心で、秀徳の全体練習でも走っている外のコースを一周、筋トレして軽くボールに触って終了だ。
 外周を終えるとそれなりに気分がすっきりした。水道で水をがぶ飲みして、はー疲れたと空を仰ぎながら体育館に戻る。
 すると居残る先輩達から離れ、相変わらずの隅っこで緑間がシュートを打っていた。
 そこまでされてしまっては逆に笑いだしてしまいそうだった。
「みどりまー」
 声を掛ける。
 相変わらず奴はこちらを見ないが、小さくだろうと肩が跳ねる動作くらい、鷹の目は捕まえちゃうぜ?
「さっき派手にやってたなー、左手平気だったか? すごい勢いで振り払ってたじゃん」
「……なんともない」
「ならいいけど」
 しかし弾みかけた会話は、まるで火が付かなかった手持ち花火のように、表面のペラペラの紙だけ消化して沈んでいく。
 ハーフラインを踏むバッシュ。宙に描かれる、高い高い軌道と滑らかなループ。寸分の狂いもない。いつも通り。
「なあ、」
「なんだ」
 緑間の返事は全体的に苛立たしげで、『な』のところだけちょっとボリュームが大きかった。
「緑間って、シュートレンジはハーフコートまで?」
「そうだが」
「ふーん」
 相槌を打った後、急に閃いた。
「オールコートだったらもっとかっけえのにな」
 はははは。なんて、軽く笑う。
 ――しかし緑間は、オレの冗談を冗談と受け取らなかったらしい。
 目を見開いて、端正な顔立ちをやや歪めて、ものすごく真面目なツラをした。
「はは……ってあれ? どした?」
「――高尾。おまえはいつもぺちゃくちゃとくだらんことばかり話すくせに、今日はどうしたのだよ。えらく冴えているな。もしかしておまえ蠍座だったりしないか」
「え? そーだけどなんで?」
「おは朝の占い、今日の一位は蠍座だったのだよ」
「は?」
 訳がわからん。
 しかしオレが首を捻っていても緑間は合点したらしい。満足そうに頷いて、
「そうか――」
 嬉しそうに呟いて、
「……その手があったか」
 オレは先ほどの緑間の数倍、いや見開くなんてもんじゃない、もう唖然として本気で目を剥いてしまった。
 だって、ボールを構えて、僅か俯いた緑間の顔。
 ――歯を見せて獰猛そうに、心の底から嬉しそうに、笑っていたんだから。

 それから一週間後の昼休み。
 緑間は「今日の放課後は残れ、礼に良いものを見せてやるのだよ」とわざわざ声を掛けてきて、満足そうに爪をやすっていた。「言われなくても残るけどもしやいやそんなまさかあ」と思ったが、放課後、緑間は本当に何でもない顔で、それはそれは本当に何でもないような顔で、コートの端から華麗にスリーポイントシュートを決めた。
 ボールが点ほどの大きさになって、ぱすっと小さな音をたててリングに吸い込まれていく、異様な光景だった。
 口があんぐり開いた。
「……み、どりまおまえすげーなんてもんじゃなくね!? なんで入んの!? そもそもこっからあんなとこまでボール届かせんの自体無理じゃね!?」
「初めから無理などと言っているからおまえはダメなのだよ」
 緑間はキザに眼鏡を押し上げる。
 しばし絶句。
「――緑間、オレのほっぺたつねって。全力で」
 テーピングを巻いた左手が伸びてきて、オレの顔の肉を千切らんばかりに摘まんで引っ張る。
「いっへえ!」
 夢じゃなかった。
 過酷な現実だった。
「いつかおまえも言っていたが、ロングシュートというのは命中率さえ極めてしまえば、あとは上限を保つ他道が無いからな。これでオレのシューターとしての天井が大幅に高くなったのだよ。やりがいもあったしな」
 そうぼやく緑間真太郎大明神はいつになく朗らかで、大変充実したお顔をなさっていた。
 ――ていうかやっぱ笑ってる。
 あの、何を話そうとも誰が接そうとも、一ミリたりとも口元の筋肉を持ち上げようとしなかった顔面サボり間無愛想太郎が。
 うわあ。
 なんというか、着ぐるみがいきなり喋ったような衝撃というか。
 どうやら無遠慮な視線を送っていたらしく、緑間の表情がだんだん曇っていく。眉を潜め始めて、あ、しまった、もったいない。
「高尾、さっきからオレの顔に何か付いているのか」
「いや、付いてねぇよ! けど」
 相手を見上げて、急いで笑った。
「うん、うちのエース様のお役に立てたなら光栄でっす、なーんて」
「……そうだな。今日だけは、おしるこくらい奢ってやっても良い気分なのだよ」
 あら。
 あらあらあらあら。
 ちょっとちょっと。
「……緑間、ごめん、もっかいオレのほっぺつねってくんね?」
 すると再びテーピングを巻いた左手が伸びてきて、オレの顔の肉を千切らんばかりに摘まんで引っ張る。
「いへえ」
 夢じゃなかった。
 ……夢、じゃ、なかった。

 鷹の目で後ろを盗み見する。
 オレより背が高いのに、筋を伸ばしているせいで余計でかく感じる身体。少し冷たい感じのする整った顔。無骨で大きい手のせいで、構えているシャーペンが小さく華奢に見えた。消しゴムのくっついている先端を顎に軽く押し当て、薄く唇を開いて、思案するように真剣にノートに視線を落とす。その一連の仕草だけで女子のハートのど真ん中をたやすく射抜けそうである。イケメンは速やかに爆発していただきたい。そんなとこまで百発百中でなくともよい。
 チャイムが鳴るのをそわそわしながら待つなんて、自分は小学生かと思う。
 しかし昼休みが来てしまえばやっぱり気分は陽気で、高速で教科書類を引き出しにしまい、高速で鞄から弁当箱を引っ張り出して、意気揚々勢いよく後ろを向く。
「緑間くーん」
 途端、絵になる耽美系美少年が、不機嫌そうな猫に大変身である。うわおすげー露骨。でも悪りいけどそれくらいでめげねぇぞ。蠍座の男っつーかオレのしつこさなめんなよ。
「なー、こないだおは朝の占いがどうとか言ってたじゃん? あれ何? もしかして毎日見てんの? そーいや入学式で声掛けたとき、ラッキーアイテムがどうとか言ってたな。あーそういえば変な道具いっつも持ってるっけ、あれ全部ラッキーアイテム!?」
「……飯時にマシンガントークはやめろ。唾が飛ぶ」
「大丈夫だよオレの唾聖水だから」
「どういう理屈なのだよそれは!」
 ぎゃははは、と大声で笑う。
 緑間はますます眉間に皺を寄せて、しかめっ面を作っている。
 箸を伸ばして、冷凍春巻きをつまみながら思う。
 ――うーむ。
 やっぱり笑わねぇな。
「ていうか朝の情報番組の占いなんて当たんの? あんなの日本の人口十二分割だし、大雑把だなーってあんま信じてねぇんだけどオレ」
 突如、切れ長の緑色の瞳がぎらりと凶悪な光を持った。あれ、オレそんな変なこと言ったか。
「おは朝の占いは絶対なのだよ」
「じゃあ当たる?」
「当たる。オレが保証してやる」
 うっそだあ。
「……つーかそもそも何で占いなんか見始めたのよ。女子じゃあるまいし」
 緑間は弁当の卵焼きを一口齧ってから、じろりとこちらを睨んだ。ちょっと洋画のゾンビみたいだった。
「人事を尽くして天命を待つ。全力を尽くして事に向かえば結果はおのずと付いてくるのだよ。だが勝負ごとには、どうしても運という要素が付き纏ってくるだろう。オレは例え形のないものだろうと、バスケに関わることなら妥協したくないだけだ」
 しかしそんななりで大真面目に、熱の籠った声で紡がれたのは、
「…………」
 箸が止まっていた。
 気まずさを隠すように、鷹の目で見えていた相手の弁当箱にそれを伸ばした。
「うりゃ」
 唐揚げを挟む。
 そのまま素早く口の中へ。
「あ、おい貴様!」
「なんだこれうっめえ! 冷凍の味じゃねぇぞ! お母上お手製!?」
「なにを人の弁当のおかずを勝手に掠め取っているのだよおまえは! 下品なのだよ!」
「ばっか何あまっちろいこと言ってんだよ! 弁当広げるっつーのは合戦でホラ貝吹いたのと同じことなんだよ! 箸持ったら取るか取られるかの真剣勝負なんだっつの!」
「だからどういう理屈なのだよおまえの言質は!」
 などとくだらない会話をしているうちに、昼休みも終わってしまう。
 五、六の授業をすっ飛ばせばあっという間に放課後で、更衣室に向かえば同僚が「おーっす」と挨拶をくれる。さっさと着替えて体育館に向かえば、モップを携えた、これまた同級生軍団。自分も道具を持ってその中に混じれば、自然と話の輪にも入っていくことになる。
「そーいえば聞いたか? 名前忘れたけど、こないだ緑間と喧嘩してた先輩。やめたらしいぜ」
 うわ、マジかよ。
 オレは苦虫を潰したような気持ちになったが、そもそも喧嘩があったこと自体知らない奴が多かったらしく、なんだそりゃ詳しく聞かせろと一気に周りが盛り上がる。
 上体も顔も動かさずに伺った体育館のコート、緑色の影はオレたちよりだいぶ離れた場所で、黙々と床を拭いていた。やっぱり、一人だ。
「あーあー、緑間何したんだよ」
「また変な我儘言ったんじゃねーの?」
「そーいや殴ったらしいじゃん。胸ぐら掴まれてロッカーにこう、押し付けられたもんだから、先輩に向かって思いっきり」
「あ、それは違うぜ」
 え、と一斉にオレに目が向く。その威圧にたじろいで、後悔したがもう遅い。
「……緑間って、左手すっげえ大事にしてんの。あいつ左腕も掴まれてて、多分それが嫌だったんだと思う、咄嗟に払っただけ。殴ってはない」
 毎日やすりで爪の手入れをして、さらにテーピングで保護までしているような奴だ。利き腕を無遠慮に握られて大人しくなどできまい。……と思って緑間にやめろと言おうとしたのに、間に合わなかった。
 「なんだそうか」「あのでかいのが殴っちまったらただじゃ済まなそうだもんな……」などと場が沈静化し始める。しかしこう印象が悪いと、情報操作されて一方的に悪いと決めつけられてしまうのか。有名税の一種なのかもしれないが、重すぎるだろう。背筋が寒くなる。
 その後で思う。
 ――あれ。オレ、なんで緑間庇ってんだろ。
 だってあいつ、日常生活じゃにこりともしないのに、バスケに関係することだけは笑ったから。
 あれだけ嫌な目にあっているのに、中学であんなに大差付けて負かされたのに、どうしても、ほっとけない。
「こんちはー!」
 その怒号のような挨拶で我に返る。慌てて自分も挨拶をして、モップを擦る。
 通常練習。今日も紅白戦。緑間とはかち合わない。相手はただ、真剣な眼差しで敵を射抜いて、手加減なく、奢りもなくプレイをして、綺麗なスリーを決める。
 終わったら居残りだ。着替えて外靴に履き替えて、靴ひもを結んで、大きく伸びをして、屈伸して立ち上がる。いつものジョギングコース。校門を出て、並木道へ向かう。
 アスファルトを叩く音。先には、街灯と桃色の桜がずらりと列を成している。橙色の光に薄い花びらが透かされて、それがちらちらと降っていて、この光景はなかなか風流でいいなと思う。
 たっ、たっ、たっ、たっと、ペースを保って足を前へ、前へやる。首元に提げていたタオルが蒸して、だんだんと熱くなってくる。
 と。
 そのとき前方に、同じようなジャージ姿の誰かが走っているのが見えた。
 あのでかさ、頭の色、綺麗なランニングフォーム、いつも目にしているものだ。ちょっと速度を上げて隣に並んだ。
 顔を覗きこむ。やはり緑間だった。
「あれ、こんばんはー。今日はシュート練やんねえの?」
 営業用スマイルで挨拶したのに、相変わらず、本当に相変わらずの仏頂面で、奴は横柄に堪える。
「言われなくとも帰ったらやるのだよ」
「うわ、すげえな……てかいきなり体力作りに切り替え? おまえって結構走れたよな?」
「……オールコートでスリーを打とうと思うと相当消耗する、体力向上が必須と判断しただけなのだよ」
「はー。そりゃ手が早い」
 気の抜けた口調で返すと、緑間がじろりとこちらを見た。一瞬怒っているのかと思ったが、しかし何故か、不思議そうな雰囲気も纏っていた。
「と言うか、この間からなんでなんでと質問ばかりしてきて、おまえは落ち着きのない小学生か。少しは自分で考えろ」
「しっつれいな! ……まあ確かに聞いてばっかではあるけど」
「何のつもりだ。休み時間の度にぎゃーぎゃーと、こっちは騒がしいったらないのだよ。もうオレに構うな、鬱陶しい、おしゃべりがしたいならよそを当たれ」
 ……………………。
「……オレだってなあ」
 緑間のペースはオレのそれより少し速かった。合わせていると、きっと最後の方で体力がもたなくなる。だが遅れるのは嫌だった。こいつの背中を見るのは絶対に。
「訳わかんねーんだよ。オレだって、おまえみたいなデカくて可愛げなくてジコチューでこっちに一切興味持つ気が無い陰険眼鏡なんて構ってる暇があったら、借りてる漫画でも読み進めてえよ」
「おい、誰が陰険眼鏡なのだよ。……じゃあ何故オレに話しかけてくる」
 だから、オレにも何でかわかんないけど、ほっとけないんだよ。
 誰にも干渉しないし、干渉されたくない。人の手を一切借りない。悪評が立っても弁解の一つもしない。自分の意見を目上の人間相手でも平気で押し通す。だからどんどん孤立して、集団の中で悪者扱いされてしまう。
 でも、こいつは確かに変な奴だけれど、その奇行や我儘の中に、本人なりの筋の通った理由がくっついているのだ。そして自分の中で筋が通っていないことは、絶対にやらない。
 自分に正直なだけ。
 まっすぐすぎるだけ。
 確かにむかつくけれど、でも多分、こいつはもう良いとか悪いとかいうステージにいないのだ。
 そういう肯定の気持ちが、中学時代の恨みつらみと絡み合って心境を複雑にして、頭の中を引っ掻き回す。オレにだってもう、自分がどうしたいのかわかっていない。やっぱり、いや以前よりさらにひどく途方に暮れているだけだ。何に迷っているのかもわからずに迷っているだけ。
 そういうの察せよ鈍感野郎。絶対こいつ中学時代うちと対戦したこと覚えてねぇだろ。そういうとこも腹立つんだよオレの独り相撲みたいで。
 ――あれ、そういえばこいつ。
 鷹の目でなく、顔を動かして、自分の目で相手を見た。
 緑間もこっちを見て、唇を真一文字に結んで、オレの答えを辛抱強く待っていた。
 ――オレに質問なんてしてきたの、初めてじゃ。
「……っ、だから、オレだって訳わかんねえっつってんだろうが! 人の話聞け! バーカ!」
「ばっ……!?」
 足の回転数を上げる。緑間を追い抜かして、桜の道の最速に立つ。
 だが相手も黙っちゃいなかった。二分もしないうちにでかい図体が並んで、オレの前に現れて、引き離す。負けじとターボを掛ける。抜く。緑色の髪が出現する。抜かれる。抜く。抜かれる。
 桜の花がおしとやかに、静かにそれを見物していて、まるで平安時代のお貴族の見世物になった気分だ。
 そんな大人げないデッドヒートを繰り返しているうちに、いつの間にかコースの最終局面であり「心臓破りの階段」と謳われる、近所の神社のふもとまで来ていた。
 朱色の鳥居を潜って、石畳の段差に足を掛ける。かっかと火照る体と崩れ落ちそうになる足を叱咤して、上る。走っているというより腿上げに近い。頂上にあるお賽銭箱にタッチした方が勝ちというのが、暗黙の了解で既に決まっていた。
 息が切れる。もはや短距離走と同じくらいのスピードを出している。だけれどこいつには負けたくない。緑間にだけは負けたくない。その一心で足を動かした。
 隣からもはあはあと荒い呼吸が挙がっていて、スニーカーの足音も全然軽やかじゃなかった。だだだだ、と音がする。頂上が見えた。段がなくなった瞬間一気に駆けだした。
「取った――――!」
「させるかああああああああ!」
 倒れるように駆け込んで。
 体当たりをかます勢いで、同時に賽銭箱に手を付いた。
 ……そのままずるずると、その場にへたりこんで、ばたんきゅーした。
 林の中の境内。自販機の光以外は暗闇だけだ。誰もいない。不意に、剥き出しの腕や足に触れた空気を冷たいと感じた。はー、はー、という、タイミングのずれた二人分の呼気だけが生気あるものだった。
 緑間はもう立ち上がって、膝に手を付いて呼吸を整えている。
「おっ、……まえ、なかなか、はぁ、やるのだよ……」
「へっ、週二で余分にここまで、は、走ってる、はぁ、オレを、なめるんじゃ、ふぁ、ねーのだよ……」
 河川敷に倒れ伏すヤンキー二人(背景は沈みゆく夕日)みたいな会話だった。
 ……あれ、それって和解フラグじゃねぇの?
 …………。
「…………うげ、やばい吐きそう」
「は?」
「ちょっとムキになって頑張りすぎた……」
 どきがむねむねします。じゃねーやむかむかします。あれこれも間違いか。もーわからん。
「おい、高尾、堪えろ、死ぬな、」
「かってに殺すな……」
「あ! 高尾、あそこが多分トイレなのだよ! 行け!」
「ちょっと……むり……」
 するといきなり体が持ち上がって、数メートル浮いて移動したかと思うと、乱暴に足の裏を付けさせられた。左手に温かいものが添えられて、冷たい金属を握らされる。回る。ノブの引っ込む音と一緒に開く。
 真っ白い便器が、闇にぼんやり浮いて見えた。
 認識した瞬間無我夢中でそれに縋りついて、顔を下に向け、思いっきり胃の中のものを吐き出した。
 逃げもせず、背中をためらいがちにさする、骨ばっているのに温かな感触は、冷えていく体に妙に心地よかった。
「………………………………はあ、……は……」
「……気が済んだか?」
 小さく頷けば、背をしきりに擦っていた手が離れて、緑間の気配がどこかへ消えていく。タオルがゲロで汚れるのが嫌で手の甲で口を拭って、トイレから出ると、不意に目の前にミネラルウォーターのペットボトルが差し出された。
「うがいして、その辺にぺっするくらいなら許してもらえるだろう」
「……ぺって」
 憔悴しきっていたのに思わず笑ってしまった。
 暗闇の中で、緑間が口元をへの字に歪めるのがわかって、素早く礼を言ってペットボトルを受け取った。
 がらがらがら。ぺっ。
「……あー、なんかすげえ疲れた……」
 ぼやくと、少し離れたところから声がする。
「それはこっちの台詞なのだよ……おまえはもっと体力を付けろ」
「自分でもスタミナ不足がわかってっから走ってんじゃん……おまえ考えてから喋れって人のこと言えなくね……」
「うるさい黙れ」
 少し流して手を洗って飲んで、はあと息をつく。ぼんやりと、下にあるぽつぽつと灯りの浮いた街並みを眺めていたら、不意に高い金属の音がした。続けて、手を二回叩く乾いた音。顔を向ければ、緑間が賽銭箱の前に立ち、手を合わせて目を閉じていた。
「……なー緑間」
 手を離して、お祈りを終えてからこちらを向くのが奴らしいと思う。
「それも、……えーと、なんだっけ? 人事?」
「ああ。験担ぎだ」
「それってバスケで勝つのためだよな」
「そうだな」
「わざわざやすりで爪の手入れをするのも、トイレ面倒で夏暑そうなのにテーピング巻いてんのも」
「勝つためだ」
「おは朝見て、変なお告げされてもいろんな場所探して、小遣いはたいてラッキーアイテム入手すんのも」
「勝つためだ」
「先輩や監督に嫌われようが意見すんのも」
「勝つためだ」
「一週間全力で練習して、シュート範囲広げたのも」
「勝つためだ」
「毎日毎日最後まで残って、宿題あろうと疲れていようと飽きもせずにシュート打ってんのも」
「勝つためだ」
 …………………………………………ああ。
 負けた。
 なんかもう反論する気も起きないくらい、こてんぱんに負けた。
「…………は」
 ようやくわかった。
 オレ、こんなに全身で、バスケが大好きだって言ってる奴、見たことないんだ。
 ……だめだ。
 こんな奴、嫌いになれっこない。
「は、あっははははははは!」
 腹を抱えて爆笑するオレとは対照的に、緑間は白けた目でこちらを見ていた。完全にヒいている顔だ。
「……何をいきなり笑いだしているのだよ。気持ち悪い」
「いっやあ……なんつーの。そだ、ドラマとかでよくあるじゃん。大事な人間殺された女が復讐誓って仇の男に近付くんだけど、近くにいるうちに男にほだされてって、最後には本当に好きになっちゃって殺せなくなった、って話。あれの女の方の気分だよ」
 浮いた涙を人差し指で掬い取る。自分の往生際の悪さには涙が出そうだ、マジで。
「だけど――うん」
 緑間真太郎は敵じゃない。同じ学校の、同じチームの、うちのエース様だ。
 そのことを、それに気付けたことを、心の底から。
「良かった」
 緑間は訳が分からん、という顔をしていた。
 だけどそれでいい、と思った。
 ――緑間に白旗ぱたぱたしちゃったこととか、今でもあんま認めたくねぇし。
「あーすっきりした……よし、じゃあ帰るか! おまえのシュート練習時間減っちゃうしな!」
「おい、何を一人で納得して切り上げようとしているのだよ、オレにはおまえの心境がさっぱり」
「わかんなくていーのー。オレだって、おまえの考えてることなんかイミさっぱ不明だしな」
 それより。
「まーた競争でもして帰ろうぜ、……真ちゃん?」
 咄嗟に思いついたからかいだった。絶対にこいつはこういうネタを聞き捨てる奴ではないという、確信があった。
 案の上、緑間は微かに肩を震わせて、
「……しんちゃん?」
 と地獄の底から響くような、ドスの効いた声を吐き出した。
「下の名前真太郎だろ? だから、上二文字取って真ちゃん」
「いやその程度はわかるが……!」
「うん、適度にフランクで親愛籠ってるとこがいいじゃん? 今日からそれでいくか」
「は!?」
「おーし、じゃあランニングもっかい行くぞー、し・ん・ちゃん?」
 悪戯っぽく笑って走り出して、一足先に鳥居まで。
 夜もばっちり効果抜群の鷹の目で様子を窺うと、後方の緑間は茫然としたまま、肩をぷるぷるさせていて、
 ――やっべえやっぱすげー面白い。
 口元を押さえて笑いを堪えていると、火が付いたように「高尾貴様あああ撤回しろおおおおお」と叫び声が挙がって、巨人がこちらに憤然と進撃してきた。ていうかあいつのあんな声も初めて聞いた。ポーカーフェイスが崩れた、あまりに普通の対応で、今度は堪えきれず吹き出してしまった。
 爆笑しながら一気に階段を駆け下りる。
 少し行けば冷たい空気と街灯、満開の桜が降る夜の道。
 オレ達は学校まで、追いかけっこに興じることとなった。



 ボールが空を舞う。強力磁石で吸い寄せられるかのように、リングに掠りもせずに通過して、床に落ちる。シャツの袖で汗を拭って、ふうと一つ息を吐いて、また次。
 緑間真太郎くんは今日も絶好調。居残りサボりもなし。
「それでもまあ、よくやるわな……」
 ぼやいていたらいきなり肩を叩かれた。
 うわあと悲鳴を挙げて反射的に振り向くと、オレの頭の数センチ上で大坪さんがにやにやしていた。
「高尾、今ちょっといいか?」
「あ、はい! 大丈夫っす!」
 隣に並んで、大坪さんはオレの視線を視線で辿る。先にはシュートを打ち続ける長身緑頭がいるはずだ。案の定、相手の目がすっと細まった。
「――こっちは本命じゃないんだが。おまえ最近、緑間にえらくちょっかい掛けてるな」
「そうっすね。いやあ、あいつ頭堅すぎて、いじったらなかなか面白いってことに最近気付きまして」
 後ろ頭を掻きながら笑う。ちょっと照れ隠しである。
「オレねえ、もう緑間に降参したんすよ。全面降伏です。あんま認めたくねぇけどもう敵わねーわとか思っちゃってます。……でも、嫌な奴ですよね、あいつ。我儘だしおーぼーだし、なんつーか、……見てるだけで、自分の中の弱さを突きつけてくるっつーか」
 それは偏に、あいつの在り方が正しすぎるからだと思う。
 あそこまでまっすぐだと、強すぎると、どうしても自分と比較してしまう。見たくもない、自分の汚い部分や、逃げているところを浮き彫りにされてしまう。
 すると大坪さんはぽつりと、小さな声で返事をした。
「……ああ、うまい言い方だな。それは、よくわかる」
 え。
 思わず下から凝視すれば、大坪さんはこちらを見て、オレの顔を見て苦笑いした。
「高尾。シューターに信用されんセンターほど、悲しいものもないと思わないか?」
 ……そうか、あいつがシュートを打つ時信じているのは常に自分で、外れると思ったものは撃たないから。大坪さんの立場なら、そりゃそういう答えに辿り着く。
「……けど、それでいて、嫌いになれないんだな。むしろあそこまで力があって、あれほどの熱意を込めていれば、他人より自分を信用するのもなんとなく頷けてしまう。多分、うちの部員の半分くらいはそう思っているんじゃないか。本心ではな」
「…………ですね」
 だからオレは決めた。一晩悩んで答えを出した。
 あいつより練習して、あいつの閉じた、一人だけの世界に押し入ってやろうと。
 きっとあんな自己完結人間に認められて、あまつさえ頼られちゃったりしたら、そりゃもう相当すごいだろう。あいつは厳しいからやりがいもありそうだ。目標としてはアリだと思う。あの中学時代、ボロ負けして、覚えるどころか振り向きもされなかった、オレの意地もある。
 凶器のやり場は。刃は潰してしまったけれど、まだ緑間に向けることにする。
 ――前に、人間は好きなことばっかりやってもいられないと言った。嫌なこともやらければ好きなことを円滑に行えないのだと。だけれど、好きなことばっかりやっていても許されて、周りも次第に認めて行ってしまう。天才って多分そういう理不尽な人種なのだ。そう思って、諦めた。
 視界の中で弾ける緑色。
 強く眩しくも、鮮やかで綺麗な。
 月に叢雲、花に風。だけれど、雲に隠されても金色に照り続ける月や、嵐にも負けず咲き誇る花はとても美しく、今目の前にあるのはそういう類のものなのだということを知る。
「でも、やっぱオレは、ちょっとでも緑間が輪の中に入れたらいいなって、そう思うんですけどね」
 人生楽しんだ方がいい。
 皆が笑ってプレイできたら、それが一番いいんだけど。
「だからまあ、あいつに一緒にプレイしてやってもいいって認めてもらえるまで、修行しようかなって」
 ひひひ、とおどけて笑う。
 しかし大坪さんの反応はあまり芳しくなかった。
「それはそれでなんだか、少し卑屈な目標な気がするがな……おまえ、なんだか緑間に毒されてないか?」
「されてないっすよ! ……多分!」
 盛大に溜め息吐かれた。
 いや、されてないと思いたい。マジで。
「……まあいい、そんなおまえに朗報だ」
「?」
 呆れた風だった大坪さんはもったいぶったように、来た時の朗らかな笑みをもう一度口元に浮かべて、
 衝撃の宣告を、
 オレに、

 最後の最後の最後まで我慢して、最終下校ベルが鳴るまで練習して、更衣室で着替え帰宅しようとしている緑間を校門付近で発見し、ドリフトしてママチャリで乗り付けて、
「真ちゃん真ちゃん真ちゃん真ちゃん!」
「その呼び方はやめろと言っているだろうが高尾!」
「オレ次の練習試合ベンチだって! 背番号十番!」
 緑間は珍しく固まった。
 眼鏡を押し上げることも忘れたようだった。
「んで家に電話したら明日すき焼き! かーちゃんも妹ちゃんもすっげえ褒めてくれた!」
 そう言うとようやく時を動かしだし、ぼそりと。
「……………………良かったな」
「おうよ! だから今日は後ろ乗ってっていいぜ!」
 自分でも締まりのない笑顔とわかる表情のまま、親指でぐいと後部座席を指した。
 緑間はしばし尻ごみしていたようだったが、オレのきらっきら笑顔に気圧されたらしく、大人しく荷台の方に回った。
「……おい、骨組みが尻に当たって痛いのだよ。ていうか足が地面につく、高さが足りん」
「足置き棒あるだろ? 尻は我慢して」
「…………」
「つーかほんとなんかぎゅうぎゅうだな。妙な圧力が……せっま」
「……本当にこれで走るのか」
「それはだーいじょうぶよ! オレの幸福パワー信じろ!」
「…………」
「じゃあしゅっぱつしんこー!」
 とペダルを漕いだその途端、重さでハンドルが右にぶれた。慌てて立て直そうとしたら次は左、また右、すげえ蛇行運転で、後ろの緑間が「高尾しっかり運転しろもういい下りる!」とか騒ぎ出したが、校門を出る頃にはなんとか安全モードに移行していた。しゃー、と音をたてて群青色の道を滑る。
「真ちゃん、もっとオレの腰に手回してぎゅーとかしていいぜ?」
「おまえはそれをやられて嬉しいのか」
「すっげえ嬉しくない」
「なら言うな」
「……いや、嬉しいかもしんない」
「……おまえもしかしてホ」
「いやそれはない」

 などと騒ぐのがこの時点のオレたち。

 真ちゃん相手に大胆宣戦布告、
 五月に光と影コンビに敗北し、
 ママチャリはリヤカーと合体、
 夏大はスルーする羽目になり、
 緑間はあんなことを言いだし、
 オレたちはめでたく恋に落ち、
 WCで連携までお披露目する。
 そんな未来が待っていることなど露ほども知らない。

 とりあえずオレは、人事を尽くしながら交信を待つ。照れくさいし腹立たしいのでこちらからは極力飛ばさない。緑間がパスを出してくれれば、待ってたぜ、といつでも立ち上がる準備だけしておく。
 それでもたまーに交信は試みる。
 君を欲しがってみる。そうしないと寂しいから。
 さてさて。
 鈍感なエース様は、一体いつ気付いてくれるのやら。



 /鼻水かんでもう一回、応答せよ応答せよ









火星より返信/



 帝光中にいた頃。一・二年のときは知り合いが大勢、練習が終わっても残っていたのだが、三年生になると体育館には誰もいなくなった。
 オレはひたすらに、黙々とシュートを打ち続ける。帝光の理念を守るため。勝つため。自分のため。
 ――完璧なスリーさえ打てればそれでいい。
 だから完璧を保つために練習した。全く苦だとは思わなかった。
 ……だが。
 だだっ広く無機質な物音しか聞こえない、静かな体育館は少しだけ息が詰まり、誰もいない真っ暗な道を一人で歩いていると――少しだけ。ほんの少しだけ、胸に穴が開いた気分になった。

 秀徳に進学してしばらくして、やかましい連れができた。
 名前は高尾和成。ぺちゃくちゃとよく口の回るひっつき虫みたいな奴。
 最初はただひたすらにうるさいうざったいと思っていたのに、冬になる頃には、自転車にリヤカーをくっつけて一緒に登下校する仲になっていて、オレはいつの間にかこいつを信じていて、心を許していて、……好きになっていて、
 練習終わりの体力を消耗した時分に、リヤカーに揺られているとうっかり寝てしまう。すると高尾は信号に引っ掛かってもじゃんけんを求めず、オレの家の前で自転車を止めて、「おーい」と声を掛けてくる。爪先でガンガンとリヤカーを蹴り始める。
「着いたぞーみどりまー。そんなとこより自分ちの寝床の方が快適だぞー」
「…………」
「起きたらちゅーしてやるぞーいやぶっちゃけしてやんねーけどー」
 しねぇのかよ。
 早いとこ解放してやろうかと思ったが、やめた。目を閉じて寝たふりを決め込む。
 するとリヤカーへの攻撃が止まった。
 静かになって、ぽてぽてと小さな足音がして、――額の辺りに、温かいものが触れた。
 五本あって細くて骨ばっていて、それがゆるゆると、オレの頭を撫でる。
 いつもの高尾らしくない、繊細というか、柔らかな素振りだった。
 それで驚いて、ゆっくりと目を開ける。
「……おい、どういうつもりなのだよ」
「んー? ――いやさあ、真ちゃんの世界って、結構閉じ気味じゃん」
 高尾は猫にでも触るように、オレの髪を乱したまま、
「真ちゃんって、人を滅多に褒めないけど、その代わり人に見返り求めないじゃん。でもさ、真ちゃんは一生懸命こつこつ努力して、それってすげえ偉いし、褒められていいと思うのよ。だからオレはたまに歯がゆくなんの。……おまえ、いろんな意味で高いとこにいるからさ。オレの手が届くうちに、オレが気付いたうちに、こーやっていいこいいこしてあげようかと思って」
 きっと褒めてるのだろうに、ぼんやりした表情のせいでそう聞こえない、言葉を吐く。
 オレは自分が決めたことを、自分のためにやっているだけだ。人の評価などどうだっていい。だから高尾の言っていることは見当違いだ。
 ……ああ、だけど。
 嬉しくないと言ったら、何か思うことがないと言ったら嘘になるから、むきになって返した。
「オレが偉いなら、おまえだって、偉いだろうが」
 こいつだって、オレと同じことを毎日やっている。
「別に、褒められるべきはオレだけじゃない、誰もかれもそれくらいやっている、オレだけが特別というわけじゃない。だから不要な心配はしなくていい」
 すると高尾は一瞬目を点にして、やがてゆるゆると。温度にしたら二十八度くらい、へにゃり、という効果音がぴったりな、そんな締まりのない顔で笑った。
「あはは。そっか。そだな」
 無性に照れくさくなって、フンと鼻を鳴らした。
 しかし、髪の間から熱が離れていく、そのことは寂しいと思った。なので。
「……高尾。オレは起きたぞ」
「ん?」
 高尾が首を傾げる。仕草が苛立たしい。一発で理解しろ。
「……………………起きたらちゅーしてやるって言っただろうが、このバカめ」
 瞬間、不細工がぶはっと盛大に吹き出した。
「なんだよおまえしてほしかったのかよ! あ、そんでもしかして寝たふり決め込んでた!? やっだ真ちゃんやらしー!」
「うるさい! 早くしろ!」
 チェシャ猫のようなにやにや笑いが鬱陶しい。高尾はこちらに屈んで顔を覗きこんできて、
「やーだね。てかオレやんないっつったじゃんよー」
「…………」
「ここ緑間家の前だしーまた今度な」
「…………」
 くそ。ここは最終手段で行くか。これも人事の一つなのだよ。
 わざと普通の声色を出す。
「……高尾」
「んー?」
 眉を僅か下げて、拗ねた顔。
「――――どうしてもダメか?」
 高尾の顔が瞬時に真っ赤になった。
 会心の手応えだった。これで落ちねえ高尾はいねえのだよとさえ思った。
 ガッツポーズを堪え、内心ほくそ笑みながらポーカーフェイスを装う。高尾は口元に手を当てて、琥珀色の瞳を金魚のように泳がせている。
 しかしようやっとあいつが吐いたのは、
「…………ダメ! やっぱだーめ! ほら! とっととのけ!」
「チッ」
「うわ可愛くねえ! さてはおまえ今の演技だろ!」
 リヤカーの中に転がしていたスクールバッグを拾う。高尾のくせに生意気なせっかくオレが珍しく、と思いながら立ち上がりかけた、
 その刹那、顎に両手が宛がわれて引き寄せられてその先には見慣れた顔があって、
 柔らかさの後、相乗して、がつん、と歯に堅いものがぶつかった。
 すぐ離れた、すぐ近くの高尾は、ぶりっこして「……えへ?」とすっとぼけた。
 騙されてやらなかった。
「……下手くそ」
「……面目ない」

 そして二年の春。
 体育館で残ってシュートを打つ、という体制は変わらないのに、
「カバディカバディ」
「…………」
「カバディカバディカバディ」
「…………………………………………」
「カバディカバディ」
「カバディカバディカバディカバディカバディカバディ!」
「うるっせえのだよ貴様ら! 何がカバディカバディだ! 頭から離れなくなったらどうしてくれるのだよ!」
 振り向いて叫べば、同級生が十人ほど、わらわらと右に左に群がり、腰を落として構えているのが見える。
「なんだよ緑間カバディ知らねぇの? これ瞬発力鍛えんのにいいんだぜ、声出しもできるし」
「気が散る! よそでやれ!」
「真ちゃんが寂しくないようにわざとここでやってんのにぃ」
「ひどいわ真太郎さん、あなたがそんな人だと思わなかった!」
「真太郎さん冷たいぃ!」
「やかましい! その気色悪い女言葉を今すぐやめろ!」
 くねくねとしなを作っている奴がいるのと、高尾が腹を押さえて爆笑しているのがつくづく腹立たしい。
 それでも気を取り直して体勢を戻せば、また後ろから声。
「緑間、あと何球―?」
「三!」
「なんだもう終わるじゃん。じゃあそろそろ片付けすっかー」
 そんな一言でカバディ組はあっけなく解散する。
 オレの転がしていたボールを拾いに行く者、自分の荷物を取りに行く者、と散り散りになった。オレが決めた本日最後のシュートは、ゴール下で待ち構えていたお調子者にキャッチされる。歓声が挙がる。こいつら全員バカだと思う。
「あ――――今日もつっかれた」
「さっさと帰るべ」
 そして再びぞろぞろと、群れを成して体育館を出る。
 騒ぎながら、かたつむりもかくもやというペースで着替え、自転車組は愛車を取りに行き、校門の前で一旦集合して、半々に別れた。
「コンビニ寄っておでんでも食おうぜー」
「あーいいなー、大根食いてえ」
「オレは肉まん食いてえわ」
「あ、肉まんもいいな! 一口くれよ」
「やだよおまえ一口大きいだろ」
 それなりに遅い時間だというのにやかましく、歩道に広がって、店の白い灯りやスーツの会社員、車のエンジン音が充満する街を歩いていく。
 一年が経つと、あれだけ多かった同級生部員は半分以下に減ってしまった。それだけ秀徳のバスケは厳しかった。今ここを歩いているのは、過酷な練習に耐えて残った、本気の奴だけだ。そして高尾曰く、「おまえが最後まで残ってるから皆感化されちゃったみてーよ? 今大坪さん達抜けて、スタメン争い勃発してるみたいだし」という人間でもある。
 どこか懐かしいながら。しかし昔とは全然違う光景。
 この騒がしさがうざったくもあり、どこか温かくもある。そんな環境の中に身を委ねて、前に進んでいく。
「なーんか、最近の真ちゃんもてもてだなー」
 隣の、肩ほどの位置にいる高尾は、目を細めて溌剌とした笑顔を見せている。それがなんだか癪に障った。
「……妬いてくれないのか」
 他の人間には聞こえないよう、小声で唸る。
 すると高尾はぶふっと息を漏らした後、照れくさそうにこう返してきた。
「……ばっかだなあ。おまえの良さをオレだけじゃなくて周りにもわかってもらえて、真ちゃんが好かれた方が嬉しいに決まってんじゃん?」
 この距離感ももどかしくもあり、心地よくもある。
 しかしとりあえず。
 絶対に面と向かっては言わないが、こいつには敵わないなと内心思った。



 /聞こえています、届いています、余分なものだと知りながら、それなりには楽しいです。オーバー