他学のバスケットチーム以外にも彼らの敵はいるもので、その一つに夏の猛暑がある。
 暑くない夏など夏らしくない、気温が高いからこそ海も酒もかき氷も気持ちよく感じられるのだ。暑いだけなら百歩、いや千歩譲って許すとしよう。しかし問題は夜だった。日中は大学に行っていて留守だが、就寝時がいけない。緑間と高尾は別の部屋で寝ているため、夜通し稼働していると電気代がかさむのである。貧乏学生にこれは痛い。なのでとうとう「クーラーが無いと暑くて眠れない」という事態に発展した日、第三十二回目の会議が行われ、こんな取り決めが成された。
 『クーラーは寝る前にタイマー一時間でだけ稼働してよし』。
 もういっそ一緒の部屋で寝てしまってはどうかという意見も出たが、やはりそれはちょっと抵抗がある、気恥ずかしくて眠れる気がしないという、まだまだ初心を忘れられない彼らの妥協案であった。
 いつものように風呂に入って、勉強しながら適当にテレビを見て、瞼がとろんと重くなってきたので別々の部屋に引っ込む。
「おやすみー」
「ああ」
 全ての灯りが消え、しんと部屋が静まり返る。
 深夜午前零時ぴったりのことであった。

 それから二時間半後の午前二時半。
 緑間真太郎は不意に目を覚ました。
「……あっつ……」
 理由など明々白々。この湿気を孕んだ茹だるような暑さである。淀んだ空気が肌に纏わり付いて大変不快なのに、その自分の中からも湿った熱を感じるのだから腹立たしい。
 もう九月に入るのに、と思いながら、緑間はベッドから這い出た。サイドテーブルに置いた眼鏡を掛け、電気は付けないまま部屋を出る。
 リビングの扉を開けても気温は似たようなもので、しんと静まり返った部屋は昼のそれと全く違う様相を見せている。辺りが見通せなくて少しだけ気味が悪い。
 心霊番組でよく舞台になるのはきっとそのせいだろうなと思う。夏場はよく特別番組が組まれるので今日も見たが、心霊写真のコーナーでは霊がどこに映っているかわからず、怖がるより高尾と二人で間違い探しをやっているかのようになってしまっていた。「シャンプーしてるときとかふって背後が気になるときあんじゃん? そういうときめちゃ便利だぜ鷹の目」と得意げにしていたのを思い出す、あのときはこいつは筋金入りのバカかと心底呆れた。
 食器棚から新しいコップを取り出して、冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出して、注いで含む。独特の茶葉の風味。冷たい。火に水をぶっかけた感じ、体が僅か冷えた気がして、ほうと小さくため息を吐く。
 闇に馴染んできた目を時計に向ける。かち、かち、という微かな秒針の音。
 ――高尾。
 隣の部屋で眠りについているはずの同居人。
 ――高尾、は。
 本当に、眠っているのだろうか。
「……………………」
 流しの脇にコップを置いて、音を起てないように忍び足で移動する。
 一瞬迷って、手を伸ばす。冷たい感触。回して、ドアを開ける。
 静かな部屋。
 カーテンを少しだけ開けると、月明かりが差した。
 高尾和成はベッドの上に丸まっていた。
 黒のタンクトップにトランクス。腹に掛けていたらしいタオルケットは足元に、タンクトップの裾は上に丸まっていて、なんというか――
 予想通りというか。
 風邪を引く条件リーチだ。
「……はぁ……」
 とりあえずそーっと手を差し込んで、裾を引っ張って服を直してやる。ベッドの足元側に回って、タオルケットを広げる。ふわりと柔らかくて甘い柔軟剤の恩恵。体に被せてやると、もぞ、と気だるげに身じろぎした。
 頭側に歩み寄って、膝を折る。
 高尾は枕を抱きしめ、大口を開けて胸を小さく上下させている。完全に寝入っている様子である。それはいい、それはいいのだが、
「……凄まじいアホづらなのだよ……」
 安心しきっているを通り越して、全身の力抜いてますもうふにゃふにゃですみたいな。今にも口の端からよだれを垂らしそうだ。
 なので高尾が狸寝入りをしていたら緑間はすぐわかるのである。寝顔が綺麗だから。指摘してやるとなんでバレたの、とか笑いながら尋ねてくるが、正直一目瞭然だとしか答えようがない。
 ――まあ、寝ているなら構わないが。
 この暑さでうだってもいないようだし。
 高尾の間抜け面を見ていると鼻をつまみたくなってきたが、堪えて辺りを見回す。
 クーラーのリモコンはすぐ近くの机の上に置いてあった。
 今日だけだぞ、と思いながら、スイッチを入れてタイマーをセットする。ぴっ、という小さな音の後で、風が吹き出す。
 立ち上がってカーテンを閉めて、それから、ベッドの高尾の寝顔をもう一回覗き込んで。
 眼鏡を押し上げた後で、そっと頬に唇を押し当てた。
 少し冷たくてつるりとした、肌の感触があった。
 その後激しく照れ臭い気持ちになり、すたすたと早足でドアに向かった。
 開いて、振り向く。
 ――ゆっくりおやすみ。
 なんて、胸の中で呟いて。
 ぱたりと小さく、ドアを閉めた。



 ぱち、と。
 目を覚まして時計を見れば、朝方の三時だった。
 寝起きは良い方だし明日は平日だがまだ早すぎる。さて何故起きたのか、はすぐわかった。布団から抜け出る。そのとき気付いた。
 暑くない。プラス静かな機械音。
「……………………あれ」
 クーラーが稼動していた。しかもタイマー付いてますよの証明用ランプ付きで。
 もしや時間を間違えたのかとリモコンを見ればちゃんと設定は一時間になっており、ますます妙だと首を傾げる羽目になる。自分が寝ぼけてスイッチを入れた、とは考えにくい。テーブルの上にちゃんとあったし。まさか幽霊。同居人の言い方じゃないが、そんなバカな話はないだろう。
「……んー?」
 おかしいとは思ったが、それより目が覚めた理由の方が先だ。
 部屋を出るとむわりとした熱気が全身を撫でた。うわあちいと悲鳴を挙げながら、トイレに直行して用を足す。手を洗って、ついでに何か冷たいものでも飲んでから寝ようと台所に足を向けた。
 流しの脇にぽつんと一つ置かれていた使用済みのコップを、まあ緑間か自分のどちらかだし、とざっと水で洗って、冷蔵庫のお茶を注ぐ。
 それに口を付けた途端に思った。
 ――あれ、コップが置いてあるっておかしくね?
 几帳面な同居人は、基本的に使った食器は全て洗ってから就寝するのである。こんな風に棚や洗い桶から一つだけ出ているということはまずない。
 幽霊。
 ――いやいやそれはない、それはないのだよ。
 相方の口癖を真似て、茶化し混じりに否定する。寝る前に心霊番組なんて見たせいで変な飛躍をしているだけだろう。
 ――しっかし何がどうなって、
 と思った瞬間、
「…………あ」
 緑間の顔が脳裏に浮かび上がった。
 使ったコップ、一時間タイマーのクーラー、加えてこの暑さ。目が覚めて、冷たいものを摂取して、高尾の部屋に寄ってクーラーを付けてから眠りについたと思えば簡単に筋が通るではないか。しかもものすごくやりそうだ。手にとるように想像がついて、ぶふぉ、と思わず声を漏らして笑ってしまう。
 なんというか。ぶきっちょというかバレバレというか。
 ――あいつ、もう寝てるかな。
 まだタイマーが切れていなかったから、緑間が高尾の部屋に寄ったのは一時間以内のはずだ。起きてたらからかってやろう、と思いながら、コップを元の流しに置いて廊下を進んで、緑間の部屋のドアを数センチだけ開けて隙間を作る。
「…………真ちゃん、起きてる?」
 小声で尋ねたが返事がない。明かりもついていないしやっぱ寝てるかな、と思いながら、ゆっくりと扉を全開にして潜る。
 微かに蚊取り線香の匂いがした。
 緑間真太郎は布団をしっかり体に被せ、ベッドの上に仰向けになっていた。
 目は軽く閉じられているが、唇はほんの少し開いている。無造作に投げ出された足がすらっと長い。眼鏡を外され伏せられた睫毛も同様で、見ていたら触りたくなって、そ――っと指先を当ててみると、
 ――うぉっふさふさ!
 女かよこいつ。いやこんなごつくてデカくてゴーイングマイウェイな女いたら嫌だが。
「…………ん……」
 形のいい唇が唸った。慌てて手を引っ込める。
 幸い緑間は目を開けることなく、もぞもぞと頭をシーツに擦り付けただけで、しばらくしたら大人しくなった。寝返りも打たない。大変寝相のいい男なのだ。大袈裟に身を引いていた高尾は、猫の傍を通る鼠にでもなったかのように、抜き足差し足で緑間の隣に舞い戻る。
 ……そうして見ると、首筋にうっすら汗が浮いて、目をぎゅっとつむっていて、やや寝苦しそうにしているのがわかった。さっき反応したのも、もしかして眠りが浅いからかもしれない。
 緑間の部屋のクーラーは沈黙していた。居間やキッチン同様、もわもわとした熱気が漂っている。しかも緑間、布団をしっかり腹の辺りから足元まで被せているため、余計暑いのだろう。風邪を引かないよう人事を尽くしているだけなのだよ、なんて起きていたら言うかもしれないが、高尾に言わせればただのバカである。それでゆっくり休めなければ意味がないではないか。
 ――ほーんと、ぶきっちょなんだからなぁ。
 頬を指先で軽くつつく。ぐりぐりとこすりつける。それからベッドサイドに置いてあったクーラーのリモコンを掴んで、電源を入れた。ぴっと音がして、静かに機械が稼動する。冷たい空気が辺りに充満し始めて、現金にも緑間の寝息が規則正しくなった。
 リモコンを置く。それからもう一度寝顔を見て、そっと覆いかぶさって、頬に唇を押し当てた。
 薄く笑う。
「……おやすみ。真ちゃん」
 囁いて、足音を立てないように出入口まで戻って、ゆっくりとドアを開け閉めして部屋を出た。



 翌日七時。
 目覚ましの音で飛び起き、競争のように早い者勝ちでトイレに入って、洗面所に立つ。
「朝飯トーストでいいよなー?」
「ああ。……あ」
 高尾、と。
 歯ブラシをくわえて立ち去ろうとするその背中を、緑間が呼び止めた。
「なーに?」
 しゃこしゃこと口の中を泡だらけにしながら、名前の主が振り向く。緑間は洗った顔をタオルで拭いながら、
「……昨日は暑かったが、途中で起きたりしなかったか?」
 尋ねた。
 高尾は快活に笑った。
「オレ神経太いからもうぐーっすりだよ。真ちゃんは?」
「フン、人事を尽くして熟睡なのだよ」
「ぎゃははははは! 寝るのに人事ってなんだよそれ!」
 でかい声を挙げながら、てこてこと台所まで歩いていく。
 その後ろ姿を見ながら、緑間も歯ブラシを手に取った。

 ――クーラーは朝には止まっていて、一人も、二人も、機械でさえも語ることはない。
 そんななんでもない、夏の日の話である。



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