※超出張るモブ視点
 緑間勝手に図書委員







 ギャー冷てぇよちょっタンマタンマタンマごめんってオレが悪かったからそれだけはー何を言っているのだよ遠慮するな高尾ほらこんなに暑いのだからなーなんて声が聞こえてきたので、少し小走りで足を進めて、渡り廊下に出た。
 そこには並んだ蛇口、その一つに繋がれた青いホースからは水が勢いよく流れる音がした。傍には今時珍しいリヤカーと自転車。その前に立っているのは男の子二人。
 赤いカチューシャを付けた黒髪の子がブラシとスポンジを武器のように構えていて、もう片方の背の高い子が水をきらきらと噴き出すホースを黒髪の子に向けている。いつもは額を覆っている前髪を、さくらんぼみたいなモチーフ付きのヘアゴムで縛ってちょんまげにしていた。
 私を見るなり二人とも、チャンバラみたいなポーズで固まっていた。それが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「こんにちは」
 背の高い子の方が、さっきの数倍は小さい、大人しい声で返事をした。
「……どうも」
「洗車?」
「……はい」
「そう。暑いのにお疲れ様。頑張ってね」
 右手に本を抱えたまま、渡り廊下を素通りする。二人の姿が見えなくなって校舎に入ったところで、
「おい真ちゃん今の誰!? すっげえきれーな人じゃん! 何年!? オレにも紹介しろよ!」
「うるっせえのだよ高尾! おまえのせいで恥をかいただろうが!」
 後ろから騒ぎが耳に届く。ちょっと悪いことしただろうか。
「……でも意外だったな」
 私の知っている緑間くんはいつも涼しげな顔をして、背筋をぴんと伸ばして、長い睫毛を伏せて文庫本を読んでいる子だったのだ。物言いも落ち着いているし、背伸びを感じさせない大人っぽさがあるというか。同年代の男の子にしては珍しいタイプだった。
 前髪括ってたし。大きい体と精悍な顔つきとのギャップが珍妙で、可愛かったけど。
「まあ、高校一年生だもんね」
 友達と騒いだりくらいするか。
 なんて思いながら、明日いろいろ話を聞こうと内心決意した。

 年が一つ違う私が緑間くんと接点を持ったのは、まあ、委員会が被って、担当の曜日が一緒になったというだけの話だ。
 図書委員の仕事は案外重労働である。利用者はあまり多くないとはいえ、返却される本はそれなりの数あるし、重いし、戻す場所もきっちり決められている。貸出返却の手続きもやらなくちゃならないから、そればかりに構ってもいられない。友達とまったり過ごしたいだろう、昼休みと放課後が潰れるし、月一で校内新聞も出さなくちゃならないし、正直委員会の中ではハズレに入る部類だろう。
 サボる子は珍しくないし、後輩に仕事をできるだけ押し付けようとする先輩もいる。当番二人制、人数から考えて週に一、二回来なくちゃいけないのに、一年生に二回分割り当てたり、相方を一年生にして自分はすっぽかしたり。まあ年功序列と言ってしまえば終わりなんだけれど、個人的にそういう考え方は好きになれないなあと思っていた。
 今年の三年生もそうだった。
 直接は言わないけれど、「空気読めよ」なんてプレッシャーを掛けて、一年生に悪い日取りを押し付けようという雰囲気が滲み出ていた。
 が、「よーしじゃあとりあえず希望あるー?」なんて、男の先輩が軽い口調で言い始めたとき、緑間くんがいの一番で言い放った。
「水曜の昼休みで」
 司会がえ? それだけ? みたいな顔をしていたのも覚えているし、
 そのときの彼が、片腕にでっかい段ボールを抱えていたのも覚えている。
 ちなみにアマゾンの。
「……ん、じゃあ水曜の昼は緑間でー。他の日は?」
「この人数なら数人は一回でいいと思いますが」
「え、一回しか来たくねーと?」
「まあ昼休みなら構いませんけど」
 放課後は部活があるので、と眼鏡を押し上げて緑間くんは言う。
 彼を案じる一年生の視線と、上級生の反感と、面白いことが始まりそうだという好奇心がないまぜになって、教室に充満し始めた。いずれにしても悪い空気だ。
「おまえそんなの言ってたら新聞作るときどーすんだよー、協調性持てって一年―」
「何か発行するときはきちんと出席しますよ。それに昼休みは出ます。ただ放課後は都合が悪い、と言っているだけです」
 おい緑間やめとけって、と隣に座っていた一年生が半泣きの顔で諌めているが、本人はじっと司会の三年生の方を見据えている。今では睨んでいるつもりはなかったんだろうと思うけれど、そのときは正直反抗しているようにしか見えなかった。
 三年生の方も黙り込んでしまって、均衡状態。
 やがて。
「あのー……」
 気の弱そうな男の子が、おそるおそる、といった声で口を出した。
「申し訳ないんですけど、あいつうちの主力なんで、部活の時間潰れるのはちょっと……」
 うちのバスケ部が全国レベルの強豪であることは皆知っている。あんまりバスケ部事情には詳しくないけれど一年でその主力ならかなりすごいんだろうな、と、そんな状況ではなかったけれど、そのときは一瞬感心してしまった。
 それで反論できなかったんだと思う。三年生は舌打ちして、
「じゃあ金曜の昼も入れよな」
 とだけ言って、黒板に作っていた曜日表に、乱暴に緑間くんの名前を二つ書き連ねた。
 勿論、緑間くんと同じ曜日を希望する子は、一人もいなかった。ので私が水曜日、委員長の女の先輩が金曜日に回ることになった。
 最初は少し緊張したが、全て杞憂に終わった。
 休まずちゃんと来るし、パソコンとバーコードを使った手続きの仕方も熱心に聞いていたし、書架の位置も図書番号もさっさと覚えてしまった。そもそも最初からサボるつもりなら放課後は無理、なんて言わないことに気付いたのは後になってから。
 本を抱えすぎていたら、まだカートに沢山残っているだろうに「オレの分がありません」とか言いながらさっと取っていくし、上の棚は率先してやってくれるし、無愛想だが案外気のつく良い子なのだった。
 ついでに本の趣味も合った。
「あれ、鏡花」
「……ご存じですか」
「うん、外科室とか好き。文語体だから読んだことある子一人も見たことなかったんだけど」
「オレも、知ってる人間は中学の同級生一人くらいで」
「中学生で鏡花はすごいね……」
 というわけで、夏になってそこそこの付き合いになった今は、それなりに仲良くさせていただいている。

 水曜日――つまり次の日は事情を聞く前に、呆れ顔の緑間くんと一緒に、カチューシャの男の子がやってきた。
「こんちはーいつも真ちゃんがお世話になってますー! 手伝いに来ましたー!」
「図書室で大声で騒ぐな!」
 叩き。
 いってえ、と叫んで、お友達が頭を押さえる。
 目を一、二回大きく瞬かせた。
「えーっと……昨日の? っていうかリヤカーの自転車漕いでる子?」
「そっす、一年の高尾でっす!」
 それからズボンのポケットをごそごそと漁って、あ、あった、と何かを掴みとる。その拳を差し出されたので、一瞬考えて、掌を上に向けて広げた。
 ころころころ、と全部色の違う包装の飴玉が三つ。
「以後お見知りおきをー」
 プラス屈託のない満面笑顔。
「……おお」
 カリオストロのルパンみたいだ。……この子絶対女の子に人気あるんだろうな。
 なんてぼんやりしていたら、緑間くんが申し訳なさそうに口を挟む。
「……すみません、騒々しいの連れてきて。好きなように使ってやってください」
「あ、別に私は構わないよ。席いっぱい空いてるし、ゆっくりしてもらえれば」
「いえ、仕事はやらせます」
 眼鏡を押し上げて断言。
 受けて隣の高尾くんもびしっと敬礼する。
「やらせていただきます」
 顔合わせ数分でいいコンビだと思った。
「……じゃあ書架、お願いしようかな」
「ういっす!」
 案内すると、高尾くんは返却本用のおっきなカートをさっさと一人で本棚まで転がして、「えーと作者名順でしたっけ?」と一冊手に取る。
「そうそう。背表紙のラベルが九一三じゃないのは緑間くんに渡してね」
「あ、ほんとに数字書いてあるっすね。なんか決まりあるんですか?」
 私が答える前に緑間くんが、別の本を手に取りながら、
「十かけ十かけ十で千通りな」
「マジで!? 真ちゃんも先輩もそれ覚えてんすか!?」
「よく使うやつは、まあ」
 琥珀色の瞳を丸く光らせて、すげーすげーと高尾くんが騒ぐ。そして眉間に皺を寄せ、唇の前に人差し指を立てた緑間くんに「しっ」と叱られて、慌てて右手を立てて「わり」と謝るのだ。その仕草がひょうきんで、なんだか憎めない。
「すいません貸出――」
「はい、今行きますー」
「あ、オレが」
「いいよいいよ、緑間くんこっちお願い」
 高尾くんも私より友達が一緒の方がいいだろう。
 踵を返してカウンターに戻る。バーコードを読み取って、パソコンを操作。期限を告げれば作業終了、簡単なものだ。
 そして椅子に腰かけて、カウンターからでも見える二人の後ろ姿を密かに観察する。さすがに話し声は聞こえないが、サイレント映画みたいで風情があってこれはこれで良い。……さすがに盗み聞きは気が引けるのもある。
 高尾くんがカートから一冊取って、緑間くんの肩を指でつついて呼んで、何か二言三言告げる。高尾くんが笑って、緑間くんがむきになって何か言い返している。
 その顔がやっぱり、いつもより子どもっぽく見えた。
 でも引っ張り出された本を奪い取って、高尾くんが腕を伸ばしてぎりぎりくらいの一番上の段に収めているのはいつもの彼だなという印象だ。
 高尾くんが、緑間くんの年相応な部分を引き出しているのかなというか。あんな隙だらけの顔ができるのは高尾くんといるから、なんだろうなあ。
「……やっぱり良いコンビだなー」
 ふふふ、と小さく笑う。背の高さも性格も全然違う、むしろ正反対だけど、だからこそうまくやっていそうだ。
 しばらく度々やってくる利用者の相手をして、カウンターの傍にある新刊希望のアンケートの集計が半分ほど終わったところで、二人が帰ってきた。カートは勿論からっぽ。
「お疲れ様―。ありがとう」
「いえいえ。お役に立てて嬉しいっす」
 なんてにこにこしている高尾くんに、
「――ね、高尾くんもバスケ部なんだっけ?」
 と好奇心丸出しの質問を投げかけてみる。
「そっすよー、一応レギュラーっす」
「わあ、うちで一年でレギュラーなんてすごいね」
「でしょ!? 今度応援来てくださいよー、お友達も誘って」
 にこにこしながらこの応対だ。物言いもなんとなく不器用な感じのある緑間くんに比べて、高尾くんはそつがない。
「で緑間くんともその縁で?」
「まあ。同じクラスだったしなんとなく一緒にいるようになったっつーか。今じゃ親友かつ相棒って感じっすかね」
 そう上機嫌に告げる高尾くんの後ろで眼鏡を押し上げて、緑間くんは言い放つのだ。
「いや、こいつは下僕です」
「にゃにおう!?」
 ぐるん、と振り向いた。リアクションが早い。
「ちょっとおまえさ! その言い方はひどくね!?」
「じゃあ使いっぱしりです」
「それじゃ大差ねえわ!」
 ……なんかこの二人って、やりとりがコントみたいだ。
「そういえば今日は括ってないんだね」
 おでこ、と自分のを指さすと、誰と言わなくてもわかったらしく、緑間くんにはあと溜め息を吐かれた。
「この間のことは忘れてください……」
「可愛かったのに」
「ですよね? オレがやったんすよあれ、この前髪いかにも暑苦しいし」
「グッジョブ」
 ぐっと親指を立てたらサムズアップを返された。ノリいいな高尾くん。緑間くんがさっきより大きい溜め息ついてるけど。
「そういや写メあるんすけど要ります!?」
「いる!」
「いつの間……おいやめるのだよ高尾! 先輩まで何言ってるんですか!」
「じゃあメールで送るんでアドレス教えてください!」
「おっけー。高尾くんスマホ?」
「いや金ないんでガラケーっす」
「私も携帯だから赤外線でー」
「一瞬! ガラケーばんざーい」
「おい、オレの話を聞け!」
「五分だけでもいいー」
「た! か! お!」
「ぎゃはははははは!」
 高尾くん、お腹抱えて大爆笑だった。
 そして突き刺さる周囲の視線。
 昼休みはあっという間に過ぎて、「また気が向いたら来てね」と笑いながら言うと、先に「もう連れてきません」と緑間くんに突っ返された。
「じゃ先輩、試合の応援の件考えといてくださいよー?」
「うん、前向きに」
 よっしゃー、と嬉しそうにガッツポーズして、高尾くんが一足先に廊下に出て、自分の教室に帰っていく。
 誰も残っていないことを確かめて、図書室のドアを閉めて施錠する。鍵、は私が預かっているはずだ。ポケット。
「あ」
 引っ張り出した途端、手が滑って床に落としてしまった。かしゃーん、と高い金属音。緑間くんがしゃがんで、すぐに拾ってくれる。
 と。
 そのときに見てしまった。
 室内スポーツだからこその白い肌。ポロシャツから覗くしっかりした首の筋、その先に、
「…………」
 わあ。
 意外だ。緑間くん真面目そうだからそういうの無いと思ってた。
 ……いや、虫刺されという可能性もあるけど。そっちの方が大きいけど。緑間くん背高いから気付かなかった。
「……先輩?」
「あ、ごめん、ありがと」
 鍵を受け取って、ドアに刺して回す。
 ……気になるけど聞けないし、そこまで親しくもない私に聞かれたくないだろう。黙っていよう。うん。そう決意した。

 そして一週間後、やってきた緑間くんは一人だった。
 すると図書室の運営は、いつものように静かなものとなる。
 図書室は寒いほどクーラーが効いていて、今は天国だけれど外に出た瞬間地獄と化すのだろうな、と先のことを考えると少しうんざりする。利用者が少ないし、太陽がガンガンに照っているので、照明は付けていなかった。棚や本の背表紙も薄暗いフィルターが掛けられている。白いカーテンに縁取られた窓の外は青い空と入道雲。どこかで蝉が鳴いていた。
 テーピングを巻いた指先が白の上を滑る。ぺら、と小さく紙が繰られる音。
 彼との会話は大抵本を読みながらだ。二人とも下ろさないので、失礼にも当たらない。カウンターの奥で並んで椅子に腰かけている。
「高尾くん、元気な子だね」
 そう切り出すと、緑間くんはあっさりと、
「やかましい奴と言って構いませんよ」
 と言い放った。この子高尾くんには歯に衣着せないなあ。いや、私が遠慮されてるだけでこれが通常運転なのかもしれないけど。
「でも緑間くんとはタイプが違う子だよね。緑間くん、中学のときは鏡花読んでるような子と友達だったみたいだし。デコボコというか」
「まあ、そうですね」
「ボコ側の高尾くんはおでこキャラっぽいけどね」
 前髪を分けてカチューシャで上げて、額をぱかっと晒していたし。
 すると緑間くんが少し難しそうな顔を作った。
「――あいつとつるむようになったのはバスケがきっかけですけれど。あれでいて、外科室の伯爵夫人のような奴で」
「え? そのこころは?」
「そのままです。本心をずっと胸にしまって、『おまえだから痛くない』『でも、おまえは自分を知らないだろう』と叫んで、刃物を握ったオレの手を掴んで、自分の胸を抉って嬉しそうに死ぬような奴です」
「……バスケの話だよね?」
「ただ、オレは過去に会ったことを覚えていなくて、本当にあいつのことを知りませんでしたが」
「緑間くん……」
 それ最後の高峰の台詞の深みが一気に消えるよ。ていうかどんな付き合いしてるの君たち。
「だけど、……どこかを深く抉られたというか。きっと、一生忘れられないと思います」
 そういう奴です。オレにとってのあいつは。
 淡々と緑間くんは語る。
 そのある種異様な雰囲気に一瞬驚いて。
「……そういえばおでこアップの緑間くんの写真、高尾くんが悪戯描きして送ってくれたよ」
 話を逸らすと緑間くんはぴく、と一瞬だけ肩を震わせて、「あのバカ……」と悪態を吐いた。
「可愛かったよー、またやればいいのに」
「男にとって可愛いは褒め言葉じゃありません」
「でも、誰かを可愛いと思うこと、あるでしょ?」
 無言。……あ。あるんだな?
「――不思議なんですよ。胸がほわっとするというか、不意にああいいなと思う瞬間があって。でもどうしてそう思うのかは自分でもわからない」
「そういうほわっとした気持ち、多分世間一般じゃ萌えって言うと思う」
「……萌え、ですか……」
 心底複雑そうな声だ。思い当たる誰かがいるのか。
「まあ、特に理由なんてないんじゃないかな。もう自分に元々擦り込まれてるものが、表面に現れてるだけというか。私の場合は、ああこれが好きだったんだなあって気付くだけって感じだし。変なものでも良いと感じることってあるし」
「…………」
「ていうかそれ、特定の子の話?」
 緑間くんがちらりとこちらを見たのがわかった。
 沈黙。
「…………内緒ですよ」
「ほう」
 ぺらり、とまた紙の音。
「――でも、恋愛って難しいですね。自分の気持ちもわからないのに、相手の気持ちも汲まなきゃならない」
 静かな口調だった。
 しみじみと感想を口にするような。
「事情もある。今が楽しくても数年後どうなっているかを考えると恐ろしくなる。好きだから離れたくないのに、好きだからこそ離れた方が良いんじゃないかと思うときもある」
「……二律背反ってやつだね」
「幸せ幸せって言うけど、幸せって何だと言いたくなるときがあります。何が正しいのか、いくら考えてもわからない」
 いつになく赤裸々だ。私にそんなこと言っていいのかな彼は。そりゃ頼ってくれるのは嬉しいけれど、高尾くんに相談した方がいいんじゃないかな。
「…………」
 さて。どう答えたものか。
 考えていたら、がらがらと戸が開いて、思わずそちらに目が行った。
 噂をすればの高尾くんだった。
「こんちはー」
「高尾?」
 前回は非常に愛想よかったが、今日はなんだか疲れたような顔をしていた。後ろ頭を掻いてこちらに歩いてくる。
 私より緑間くんの方が早かった。
「どうかしたか」
「いや、……すっげねみーんだけどさ、今教室うるさくて起きちゃって。避難してきた」
 それから私の方に向き直って、
「すんません寝させしてもらっていいすか……」
 と申し訳なさそうに尋ねてくる。
「いいよいいよ、今日も席空いてるし。正直、ここで寝てる子いっぱいいるしね」
「ほんとすいません」
 ゆるゆると歩みを進めて、高尾くんは奥の方の席に移動していく。
 その背中を見送っていた緑間くんが、文庫本を手に堰切ったように口を開いた。
「高尾」
 呼び止める。
 振り向く。
「……調子が悪いのか?」
 聞かれると、高尾くんの口角が薄く吊り上がった。
「……いや、全然。いつも通り元気だぜ」
「本当だな」
「真ちゃん、オレが嘘ついたことあったー?」
「有り余るほどあったのだよ」
 すると彼は自嘲気味に笑みを深める。
「だいじょーぶだよ。マジで眠いだけだから」
「…………」
 がた、と隣で大きな物音がした。
「すみません、少し様子を見てきていいですか」
「うん。どうぞ」
「何かあったら呼んでください」
 立ち上がった緑間くんが、高尾くんの後に続いて奥の席に消えていく。……ほんとに大丈夫かな。でもまあ、緑間くんなら本当に具合悪そうなら保健室連れてくだろうし。
 三分くらい経っただろうか。緑間くんだけが帰ってきた。
「少し抜けます。すぐ戻りますので」
 そして本当にすぐ帰ってきた。が、そのとき貸出手続きをしていたので、先輩戻りました、という声だけ聞いて姿は確認しなかった。
 手続きに応じて、あまり集中できないながら本を読んで、としていると、手元のものが終わってしまった。返却手続きをして、少し迷ったが、席を立って本を棚に戻しに行った。作者名からして、二人がいる席がちらっと覗ける位置に棚があるのだった。心配があったが少し気が引けもした。具合が悪くてグロッキーになった自分なんて、私なら誰かに見られたくない。
 上履きの底がぺたぺたいう音。薄暗い教室。静寂を煮詰めたような空間に、紙の黴たのとほんのり甘い匂い。
 本を所定の位置にしまう。
 一瞬躊躇った。
 思考数秒。
 ――でもやっぱり。
 気になる、と。
 肩を捻って、振り向いた。
 視界に風景が映る。
 青い空が映った窓。テーブルとイス。光らしい光のない場所に。
 目の覚めるような橙色のジャージと、
 向かい合って座っている二人の姿があった。
 高尾くんは机に突っ伏して眠っている。背中に、明らかにサイズの大きいジャージが掛けられている。顔はあっちを向いていた。時折もぞ、と黒髪が身じろぐ。
 緑間くんはと言えば相変わらずの無表情で、文庫本をただ読み耽っていた。ポロシャツから覗く腕はごつごつしていてたくましいのに、整った顔立ちと長い睫毛、眼鏡と、どことなく容姿が耽美系だ。
 音もなく視線を上げて、眠っている正面の男の子の様子を窺って。
 目を開ければ声を掛ける。不機嫌そうに、或いは拗ねたように、或いは呆れたように、
 或いは。
 ――楽しそうに。
 相手も目を柔らかく細めて、応対している。
 その貌は、淡くて大人びて。
 愛おしげに綺麗でどこか儚げ。
 首筋の赤い痕。

 ――ああ、

 なんとなく、わかってしまった。

 ……こういうのは女のが鋭いだろうしね。

 緑間くんは昼休み終了ぎりぎりに帰ってきた。
「高尾くんの様子どうだった?」
「まだ寝てますが、本当に普通に眠かっただけのようでした」
「そっか。よかった」
 やれやれ全く人騒がせな、とぼやきながら、緑間くんは私の隣に座る。だが安心した様子だ。それを見て小さく笑ってしまった。
 ……さて。
「……ね、緑間くん」
「はい?」
「こないだ首のとこに、痕付いてるの見ちゃった」
 緑間くんは口をあんぐり開けた。珍しく驚いたらしい。そりゃまあ驚くか。
「…………」
「あ、誰にも言ってないから安心して?」
「……はい」
「緑間くんは、その子のこと好き?」
 はい、と。
 即答。
 だよね、と自然に納得する。
「きっと相手も緑間くんのこと、すごく好きだと思うよ」
 緑間くんは静止した。
 何も言わない。
「ごめん、今の私にはそれだけしか言えないけど。何か足しになればいいなと」
「……………………いえ」
 ありがとうございます、と緑間くんは珍しくか細い声ながら、それでもしっかり答えてくれた。
 ――私にできることはこれくらいだろうけれど。
 そりゃ悩みもするだろう。不安になりもするだろう。
 ……だけど。
 あの風景が少しでも長く続けばいいと、そんなことを、密かに願った。
 だから無責任にも私は言うのだ。

「頑張ってね」



 図書室を出て渡り廊下に足を向ける。クーラーがガンガンに効いていた室内から外に出てしまえば案の定、襲ってくる熱量は半端ではなかった。冷えた肌は発汗はしないものの、体の内側が火照ってきて、こたつを全身に巻きつけられたような気分だ。
 にも関わらずオレのジャージを羽織ったままのこいつは、皮膚までバカになっているのではないだろうかと思う。見ているこっちが暑い。オレの三歩前を歩く袖がぱたぱたと振れる。
「あーすっきりした! 目覚め爽快だわー」
 なんて、呑気な声でぼやいている。
 それでふと、先ほどの先輩との会話を思い出した。
「……まさか見られていたとは」
 くるり、とこちらを向く影。
「え、何か言った?」
「いや。何も」
 誤魔化した。なんとなく、言わない方がいいだろうと思ったのだ。
 そ? と高尾はちょこんと首を傾げた後、正面に向き直って思いっきり伸びをした。
「あーでもちょっと先輩に迷惑かけたよなー、てかあの人キレーなのにすげーいい人だな」
「……そうだな」
 しかしその言い方だと美人は性格が悪いみたいに聞こえるから言い回しはちゃんと選ぶのだよ高尾。と思ったが言わない。こっちは単純に面倒だった。
 ……あの人は、きっと、何か気付いたのだろう。だけど、深入りしなかった。詮索もせず拒絶もせず、小さな言葉を、オレに渡してくれた。
 少し憂鬱な気分になりながら、さて、と静かに、目と鼻の先にある問題に意識を切り替える。
 外科室の伯爵夫人みたいな奴なのだ、と説明した。刃物を握ったオレの手を掴んで、自分の胸を抉って嬉しそうに死ぬような奴。外れてはいないと思う。
 何故ならほら。本当に何でもないように笑って、いつもの呑気な口調で、
「あの人なら真ちゃんが浮気しても許せるわー」
 とか、言い出すのだから。
「……高尾」
「ん?」
「おまえが急に図書室に来たのは、やはりそれが目的か」
「んん? どーいう意味?」
「とぼけるんじゃないのだよ」
 睨むと、鷹の目で察知したのか、高尾はもう一度こちらを振り向く。だるだるの袖を小さく揺らしながら。少し困ったような顔をして。
「…………真ちゃん、オレさ、前に言ったよな」
「……何を」
 その表情を見て思い出す。
 一文。
「別に浮気してもいいって」

 ――その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿
 伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて――

「浮気が本気に変わってもいって。おまえが良い子見つけられたらそれで、いいってさ」

 時間が静止した気がした。
 それでも蝉の声だけが、サイレンのように辺りに鳴り響いてうるさい。
 喉が詰まったようになって固まっていると、小首を傾げて微笑みながら、正面の阿呆の奴が余計な言葉を追加する。
「……忘れてない、よな?」
 まるで念を押すように。
 ――このバカ、困っているのはこっちの方だ、と言いたくなる。どうしてそんなことを言うのか、なんてわかりきっている。自分で先輩にも言った。先輩にも言われた。
 好きだから離れたくないけれど、好きだから離れた方がいいんじゃないかと思う。
 それでももどかしくて、腹が立つ。
 下唇をぐっと噛みしめた。早足で歩いていって、
「……あのな、高尾」
 ぽかんとしているその腕を掴んだ。
 引き寄せた。
 やけに遅い体感速度。
 慌てた声。
「お、わわ、ちょ、てかここガッコ」
 それでも離してやるつもりはなくて、逆にますます力を込めて拘束する。
 陰っているのに暑い。吹き抜けなのに空気が淀んでいる。橙色のジャージ。同じバスケ部のくせにオレの胸にすっぽり収まってしまう、小さい体。
「安心したか? 満足したか? ……おまえがやっているのはただの自傷じゃないのか」
 相手は答えない。
「刃物を握ったオレの手を掴んで、自分の胸を抉って笑うような行為じゃないのか」
 相手は答えない。
 ――ああ、きっと今自分はひどい顔をしている。
 オレだって迷っている。何もわからないし正解なんて見当もつかない。だけれど、
 この気持ちだけは、確かで。
「オレは、離してやらんぞ」
 その願いだけは、確かで。
「好きだけど、……好きだから」
 ――――情けないことに、これがオレの今の精一杯だ。
 沈黙があった。
 腕の中の熱があった。
 人形のように黙っていたのが、小さな声でぼそぼそとようやく返事をする。
「……真ちゃん、痛てえよ」
 それでも離さなかった。なんだか、離れてしまう気がして。
 すると背中に、ぎこちなく手が伸びてくる。おずおずと触れる。指でぎゅっと、少しだけシャツを掻き寄せて握りしめる。
 か細い声で。
 ああ、そいつは、泣きそうな声でオレに言うのだった。

「………………ごめんな」



/アンバランスアンバー