※ほんのり赤緑要素あり
だあん、と体育館の床が変な音をたてたとき、驚いて振り向いた先に見慣れたあいつがいたとき、真っ先に駆け寄ったのは間違いなく自分だったと思う。
だいじょーぶだって平気平気。そう笑って返事をされたが、何かまずいことがあったのか、なんて尋ねていない。立ち上がろうと相手が突いた足が、歪められた顔と一緒に瞬時に崩れ落ちた。それで何があったか理解できてしまった。
「何が大丈夫だこのバカが!」
なんともないちょっと捻っただけだからとまだ抵抗するバカをおぶり、人垣を跳ね除けて保健室へ向かった。
最近、無茶な練習の仕方をしているとは思っていたのだ。遅くまで残って、朝早く学校へ行って、走って、楽しくなさそうに必死でバスケをやって。焦っていると感じていた。
理由なんて明白だ――ウィンターカップでの準決勝。この男が足手まとい扱いされて、自分でもそれを実感してしまって、黙って大人しくしているわけがないのだ。
背中に被さった体は、思ったより軽かった。
しばらくすれば諦めたのか、そいつは体育館を出た頃には大人しくなっていた。
「……高尾。気持ちはわかるが」
焦って空回りしてもどうにもならない、と言った。
挙句の果てに怪我までして、春の新人戦に出られなくなったらどうするんだ、と咎めた。
すると耳元で笑い声がした。――いつもの快活なものでない、卑屈めいた、こちらをからかうような響きを孕んでいた。
「気持ちはわかる? おまえが? オレの? へえそう」
鋭利なナイフで心臓でも刺された気分だった。
「………………………おい、たか、」
「真ちゃんはいっつも人事人事って、すげーことあっさりこなして、一人で先頭突っ走ってさあ。完璧でキレーだよなあ。かっけーと思うよほんと。誰にでもできることじゃねぇしな」
――でも、そんな奴にさあ。
「後ろから、みっともなく追いかけるしかない奴の気持ちなんて、わかんないと思うよ」
首に回されていた腕に、力が籠る。
「……焦るなっておまえ言うけど、練習しなきゃうまくならねーじゃん。おまえどんどん先に行っちゃうじゃん。……背中が見えなくなるまで離されるのが怖くて、追いつきたいなら走り続けるしかなくて、でもだんだん、小さくなってって、……そんなの嫌だ、オレ勝ちてぇし役に立ちてぇよ、秀徳に、おまえの隣に、ここにいたい、だけど、……今のままじゃ、ただの足手まといなんだよ」
ねえ、真ちゃん。
なんでオレは、たったこれだけの力しかないんだろう。
「……おまえ、なんでそんなに、遠いんだよ…………」
シャツの肩口に、晒された首筋に、冷たい粒がぽた、と落ちた。
何も言えなかった。振り向きもせず、ただ足を動かすしかなかった。
ただ、声を殺して小さくしゃくりあげるその泣き方が、ひどく胸に詰まって、――きっと一生、その温度を、重さを、感じたものを、忘れることはないだろう。
この状況はなんだ。緑間は体育館のドアを開けるなりそう思った。
まず部員が全員体育館の端と端に集まっているので、今が休憩中らしいということはわかる。しかし空っぽのコートの中では二つの人影が動き回っていた。一人は半袖にハーフパンツ、もう一人はグレーのブレザーという見慣れない制服姿。ちょうどジャージ姿の方が後ろに手と尻もちをついて、ブレザーの方が綺麗なレイアップを決めたところだ。ばん、ばん、とボールが跳ねる音。ブレザーがくるりと振り向く。
「すまない、切り替えしを使うつもりはなかったんだが、つい力が入ってしまった」
「いーっていーって。むしろそこまで気合い入れてくれて光栄なくらいだよ」
歩み寄って、手を差し伸べて。ジャージの方が腰を上げる。
「……しっかしやっぱ強えーなー、完敗だわ。オレもまだまだだなー」
赤司、と。
その一言で我に返った。全てが音をたてて繋がった気がした。
それから息を吸って、吐き出した名前は、
「――――高尾!」
笑顔で話をしていた、ジャージの男子生徒がくるりとこちらを向いた。
「おわ! 真ちゃん!」
「真太郎?」
続いて赤司が顔を上げる。当の緑間は足音高く高尾の方へ歩み寄った。
「おまえ足の具合が良くないんだろうが! 赤司とワンオンワンなど一週間早い!」
「だだだ大丈夫だって! もうあんま痛くねーし余裕で全力全か」
「オレが全力で踏んでも同じことが言えるのか? あ?」
「言えませんすいませんー!」
「このバカが! さっさとアイシングしてこい!」
「え!? ちょっと動いただけだしそんなもん要らな」
「四の五の言ってるとお姫様だっこの刑に処するのだよ」
「行ってきます!」
悪いな赤司相手してくれてありがとなー! と叫びながら、駆け足と同スピードの早歩きで高尾が体育館のあちら側へ去っていく。
全く、と緑間が眼鏡を押し上げてその背中を見送っていると、隣から上品な忍び笑いが聞こえてきた。
「……真太郎、お姫様だっこの刑とは?」
「男のプライドぶち壊しとむさい絵面で抱えられている奴に大ダメージを与える強力な精神攻撃なのだよ」
「面白いことを考えつくな。洛山でもペナルティに提案してみようか」
多分おまえがおかしくなったんじゃないかと思われるぞ、と意見したくなったが、結局黙った。赤司は言い出したら緑間の意見などきっと聞かないだろうし、この少年が凛々しい顔で大真面目にそんなことを提案したらどうなるのか、面白そうでもあったのだ。
それから赤司は、高尾の背中から緑間の顔に視線を移動させて、優しげに微笑みかける。鮮やかな緋色と、べっこうのような瞳が柔らかく細まる。
「――ウィンターカップ以来かな? 真太郎」
「そうだな。もう三か月か」
ウィンターカップが十二月、今が春休み真っ最中の三月だからそれくらいだ。
ああそういえばバッシュを借りていたんだった、と、赤司はいそいそとスペースの端に引っ込む。高尾とは反対側だ。よく見るときちんと揃えられたスリッパが置いてあり、バスケットシューズを脱いで穿き替えていた。
正面を見ると、高尾はマネージャーと談笑しながら、タオルに足を乗せて氷嚢を押し当てている。
ホイッスルが鳴った。春休みを利用して指導に来ている大坪のものだ。ちなみに宮地と木村も遊びに来ている。三人とも受験が終わり、めいめいの志望校に合格していたが、引っ越しは大丈夫なのだろうか。そう思うも当人は楽しそうだし、緑間としても、きっと高尾も先輩達が顔を見せに来てくれると嬉しいので、一度も尋ねたことはない。良いか悪いかはわからないが、本当にまずいなら節制できる人たちだと信じているので、ご厚意に甘えさせていただいている。
大坪の方にゆっくりと歩み寄る。
「練習再開するぞ!」
「キャプテン、今日は見学させてください。我儘三回で」
「あーいいぞ。赤司を一人ほっとくわけにもいかんしな。あとオレはもうキャプテンじゃないぞ」
「まだ部活に出てるのにそれを言いますか。……ていうか、どうして高尾を止めなかったんですか」
「そこまでひどい怪我じゃないんだろ? それにあいつなら、本当にひどいなら自分でストップを掛けるだろう」
ちなみに先輩方は高尾が怪我をしたときはその場にいなかったので、状況を知らない。確かにいつもなら止めるだろう。いつもなら。
緑間は何も言わずに、赤司の方へ歩いて行った。赤司はその「バッシュを借りていた」らしい部員と二言三言話して、別れて、こちらに近付いてくる、
新キャプテンが読み上げる練習メニュー、今日は紅白戦、返事、バスケットボールが跳ねる音。スキール音、喧嘩腰のような指示や応援の声。にわかに騒がしくなった体育館の壁に背中を付けて、その光景を、ぼんやりと眺める。
「……そういえばおまえは何故ここにいるんだ。帰省か?」
のわりには制服のようだが、と、自分より頭一つ小さい背を見て、緑間が言う。
今更だな真太郎、と呟いて、赤司は返事をする。
「親戚やら関係者やら一同で集会でね」
「へえ……」
赤司の家は財閥だ。一介の高校生である緑間にはよくわからない世界だが、いろいろあるのだろう。
「昨日帰って今日食事して、明日からまた部活だ。ここへは帰る前に、おまえの顔を見に寄ってみただけだよ。服はまあ、場所が場所だから、私服よりは制服のままの方がいいかと思ってね。真太郎は何故途中からの参加なんだ?」
「離任式での校歌の伴奏に選ばれた。その練習だ」
「おまえ、中学のときも毎回文化祭で駆り出されて、もうピアノが弾けることは口外しないと決意していなかったか?」
「高尾にバラされたのだよ……」
「高尾和成――か」
左右色の違う瞳が小さく細まり、正面で練習に合わせて声を出している男子の姿を射止める。
「……あいつに付き合って、他人にバッシュまで借りて、よくワンオンワンなんて受けたな。おまえらしくもないのだよ」
その目が値踏みするようというか、冷たいというか、なんだか嫌な感じがして、声を掛けた。赤司の目がすっと練習風景の方に向いて高尾から逸れ、何故か少しほっとする。
「僕とワンオンワンできる機会なんて滅多にないし、どうしてもと彼が言うものでね」
「おまえの眼なら、高尾が怪我をしていることくらいわかったんじゃないのか」
「えらく過保護だな。そんなに彼が大事なのか」
赤司はただ、口元に静かな笑みを湛えている。
緑間は苦いものでも食べたように顔を顰めて、左へ右へ走り回るチームメイトの姿を眺めている。
ばん、ばん、ばん、とボールの音。
「――あいつは、自分の現状に焦って怪我をしたのだよ」
言って良いのか迷って、それだけ言った。
楽になりたかったのかもしれない。自分ではどうにもできないのに、先輩方やチームメイトには言えなかったから。関係ない赤司に吐き出してしまったのかも。
すると相手は涼しげな目をしたまま、
「少し話をしただけだが――なんというか、彼は器用だな。そつがない。演技がうまい、と言った方がしっくりくるだろうか。にこにこしながら近付いてきて饒舌で、少し馴れ馴れしいくらいなのに、特定の人間にしか心を開いていない。だが大切なものにはひたむきで不器用で、その仮面もあっさり外れてしまう」
瞬間、いきなり胸ぐらを掴まれた。
引っ張られて、上体が前に曲がる。赤司の顔がいきなり近付く。目に飛び込んでくる薄い唇。あか、なんて言う前に、
「――ほら」
止まった。
赤司が見ているのは自分でなく正面で。視線の先を追うと、目を丸くしてこちらを凝視している、高尾の姿があった。
しかしそれも一瞬で、すぐにゴールの方に顔が向いて、「木村さんナイッシュー」と何事もなかったかのように笑っている。
「やはり簡単に剥がれた」
そしてラブシーンのお相手は、全てを見届けてくすくすとサディスティックな笑い声を漏らしている。
解放された緑間はシャツを直し、再度高尾を一瞥してから元のポジションに戻った。あいつ以外誰にも見られてないだろうな、なんて思いながら。
「嫉妬もするし弱いところもあるけれど、格好つけたいし、相手に迷惑を掛けたくなくて隠してしまうタイプか。いじらしいじゃないか」
逆に隠されるとそれが心労になる。とは言わなかった。
「今も、おまえが僕と話し込んでいるのは面白くないだろうに、不満そうな顔など一つも見せない」
「……おまえは相変わらず、何でも知っているような口を利くのだよ」
「何でもは知らないさ。知っていることだけ」
なんて返しは小説の受け売りだけれど。
赤司は少し寂しそうに呟く。
それからそっと。
「彼は、綺麗な目をしているね」
「ああ、……なんだか、変わった色をしてはいるな」
澄んだ鮮やかな色。それが鋭く強い光を湛えて、まっすぐ前を射抜くのだ。
「琥珀のようだ」
「あいつは宝石という柄ではないだろう」
目を表現するとき宝石に例えるのはよくあることだし、確かにそんな色ではある。だが高尾が対象だと、少し気取りすぎではないかと思ってしまう。
「僕がここに到着したとき、一番最初に会ったのは彼でね」
――真太郎いるかい?
――みど……真ちゃんなら! ちょっと外してるけど!
というやりとりの後で。
「他の部員は体育館をカーテンで隠して、僕を入れるか入れないかでモメているし、待っている間は練習が見学だった彼しか話し相手がいなくて。真太郎の悪口で盛り上がって」
「おい、何をやっているのだよおまえら」
「そのときの彼はとても楽しそうだったよ。目がいきいきしていた」
無視か。まあこいつがマイペースなのはいつものことだが。
「仲が良いんだな」
赤司は淡々と言う。しかし緑間にはどことなく、それが突き放したように聞こえた。えらく他人行儀な物言いだ。おまえとオレも仲が良かったんじゃないのか、と言ってやりたかった。
――だが自分に、そう言う資格があるのかとも思った。赤司が変わってしまったとき。在学中も卒業した後の今も、自分には何もできなかったのだ。
なので眼鏡を押し上げて、
「あいつは蠍座のO型だからな」
とだけ答えた。
すると赤司は少し驚いた顔をして、やがて納得したように唇を動かす。
「……ではあの瞳の色は琥珀ではなくて、」
蠍の火か。
そう紡ぐ。
「……銀河鉄道の夜か?」
しばらく考え込んで緑間は答えた。あの物語を読んだのは中学の頃だったが、確かそんなエピソードがあった。
小さな虫を殺して食べていた蠍が、自分がいたちに食べられそうになったとき、死ぬのが怖くなって逃げて、井戸に落ちて溺れてしまう。何故あのときいたちに捕まってやらなかったのか、そうすればいたちも一日生き延びれただろうにと、自分の死に後悔を抱いた蠍は神様にお祈りする。
――どうかこの次には、まことのみんなのさいわいのために、私のからだをおつかい下さい。
すると蠍は美しい炎となり、自分が闇を照らしているのが見えたのだという。
今でもその炎は燃え続けて、空に煌々と輝きを放っているのだとか。
「宝石の次は星か」
「真太郎、知っているか? 銀河鉄道の夜の第一稿では、ジョバンニとカムパネルラが二人きりになる最後のシーンで、ジョバンニはこう言っている」
――僕はもうあのさそりのように、ほんたうにみんなの幸のためならば、そしておまへのさいはひのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。
「彼は――みんなやおまえのさいわいのためならば、自分の体を焼いてしまえる人間なのだろうね」
赤司のそんな呑気な一言を聞いて。
言葉に。
詰まった。
「事実、準決勝で見せたあの連携は、彼のポイントガードとしての伸びしろを犠牲にして収得したものだろう」
高尾が全体練習後、チームメイト全員を想定したパス回しのトレーニングに充てていた時間。それを緑間との連携に回した。
しかしあんまりな言いぐさに反論したくて、なんとか答えを絞り出した。
「……あいつがバスケをやっているのは、自分のためだぞ」
楽しいから、バスケが好きだから。
それはそうだろうが、と相手は苦笑する。
「自分のため『だけ』ということはないだろう。そう言いきってしまうのは、彼がチームに何も愛着を抱いていないと言っていることと同義じゃないのか?」
高尾が怪我をしたとき、懺悔のように吐き出した言葉を思い出した。
勝ちたい、秀徳のために役に立ちたい、だけど今のままではただの足手まといなのだと。
コートの中で、宮地が気合いの入った声を挙げてダンクシュートを決め、嬉しそうにチームメイトとハイタッチを交わした。
「きっとその火は、献身的で、悲劇的で、破滅的で、自己犠牲であるからこそ美しいのだろうな」
冷たくもなく、熱っぽくもなく、赤司の声は無機質だ。ただ数時間のうちに読み取った、高尾和成についての考察だけを述べている。
それから、自分の意見すらも、あっさりと彼は吐き出す。
「だが、美しいだけだ」
何の感慨も湧かない、意味がない。
「真太郎、僕はウィンターカップでおまえに言ったな。勝ちたいならもっと非情になれ、と」
緑間は目に僅かに剣呑な光を湛えて、界下を睨みつけた。
「――いい加減にしておけよ、赤司」
すると彼は自嘲的に小さく笑った。
「全てに勝つ僕は全て正しい、と今言ったら、怒られるな」
緑間は答えない。
赤司はすっと目を細めて、高尾の影を見つめる。
「ならば彼が自分の火で焼かれないよう、しっかり見張っていなければな」
だけど。
知っているだろう、真太郎。
「ジョバンニとカムパネルラは、ずっと一緒にいられるわけではないということ」
注意するといい。
「焼かれても構わないと誓いを立てるのは、ジョバンニだけではないことも、な」
念を押すように呟いて、赤司は沈黙した。
練習が終わり、充実した倦怠感と暗闇が体育館に充満した頃に、赤司は「迎えが来たからそろそろ帰る」と言い出した。
「え、オレらと一緒に晩飯食いに行かねえ? 近所にいいラーメン屋あんだけど」
高尾は大坪の終了の声でひょこひょことこちらにやってきて合流していた。常と変わらない態度で、緑間は内心少しだけ安心する。赤司はせっかくだが明日までに京都に帰らないといけないから、とやんわりそれを断り、
「今日はなかなか楽しかったよ。お相手ありがとう」
と締めくくって、磨き抜かれた黒塗りの高級車に乗って去って行った。
「……赤司ってもしかして超金持ち?」
「……まあな」
面倒くさいので説明はせず、緑間はそうとだけ答えた。
ジャージから制服に着替え、小屋に向かって、「今日はしょうがないからオレがこいでやる」と緑間がリヤカー付き自転車のハンドルを握った。高尾の歓声を合図に、その珍妙な乗り物はゆっくりゆっくりと、校門を抜けて夜の街へ繰り出す。
今日は星が綺麗だった。白く淡い光が、点々と群青色のキャンバスに散っている。
「なーんか、こんなんやってると、赤司が来てワンオンワンやったってのが昔の話みたいに思えてくんな」
がたがたと揺れるリヤカーの中で、高尾の呑気そうな声が煙のように後ろへ流れていく。
「真ちゃんって中学時代は赤司と仲良かったんだよな?」
「……まあな」
「真ちゃんの連れならきっと悪い奴じゃないんだろうけどさー、オレ苦手だわ、あいつ」
さっきは晩御飯一緒に、と誘っていたくせに。
しかし緑間は苦手な相手とわざわざ関わりを持とうとは思わないが、高尾はそういうタイプではないのだろう。きっと赤司とラーメン屋に行くことになっていたとしても、話題を振って場を盛り上げて、最後まで笑顔で別れるのだろう。いよいよ赤司の説が信憑性を帯びてきて、やはりあいつの何でも知ったような物言いはいけ好かないと心底思う。
「なんか? オレが見てるのわかってて、おまえにキッスとか仕掛けて笑ってたし?」
――こいつぜーんぜん気にしてませんよって顔してちゃっかり根に持っていやがったのだよ。
緑間は思うが反論できない。
やがて自分の背中から、いじけたような声が飛んでくる。
「なーんて冗談だよ。ただのフリで、赤司は真ちゃんにちゅーなんかしないってわかってましたよ」
「……根拠は?」
「あいつの身長じゃ、どんだけ頑張って背伸びしても真ちゃんの口に届かねーもん。オレが普段どんだけ歯がゆい思いしてると思ってんの」
悲しいかな大変納得してしまった。
よく考えれば赤司の身長は高尾のそれより幾分低いのである。高尾で無理なら赤司でも無理だ。
「まあ、真ちゃんが屈んでなかったから、赤司が一方的にやったことだってわかってるからさ。それでなんとか水に流す」
そう言いつつも声の主は僅かにぶすくれている。いつも高尾はそういう感情を全て上手に隠してしまうので、そして鈍感な緑間がそれを見抜くことは稀なので、高尾のそんな表情が嬉しくあった。
いつもこんなでもいいのに。素直にそう思う。
――珍しく出されたマイナスの本音には、未だ答えられないくせに。
「……やっぱ強かったなあ、赤司。三本先取、こっちが一本取ったら天帝の眼使っていいって条件だったんだけど、一本取られて取って、そっからはあっという間に負けたわ」
ぽつりと声が落とされる。
「同じポイントガードで一年なのにさ。さっすがキセキの世代っつーか、なぁ」
今緑間は後ろを振り向けないが。語る相方は、どんな顔をしているのか。その瞳は、何を映しているのか。
「…………」
今日の赤司との会話を思い返す。
――ジョバンニとカムパネルラは、ずっと一緒にいられるわけではない。
ずっと一緒にいようと誓った後で、カムパネルラは乗っていた車両から消えてしまう。そうしてジョバンニは一人取り残されて、元の世界へ戻ってくる。
『ずっと』なんてこの世にはどこにも無い。堅い絆で結ばれていたはずのチームが、あっけなくばらばらになってしまうように、終わりは見えているところで、或いは自分の目の届かないところで、暗い穴のような口をぽっかりと開けて待っている。
非情になれ、と旧友は言う。そんな温い友情ごっこなど捨ててチームメイトを駒としろ、と。
――それは、できない。
もう、そんな自分には戻れない。
こいつと一緒に行きたい。強く強くそう思う。
――でも、歩幅は同じではなくて。
蠍の火の話。それに焼かれてしまう人間。
こいつはおまえがどんどん先に行ってしまうと泣いていたが、こっちだって、
「…………高尾!」
ヤケクソ気味に名前を呼んだ。
うわびっくりした、何、と返事が来る。
「おまえの怪我の件だが!」
「……あー、完治してないのに赤司に勝負持ちかけたのは悪かったって、」
「黙って聞け。
オレは人事を尽くしているかが物差しだ。そいつが自らの持てる全てを注いで、一生懸命やっていればそれでいいと思っている。だからおまえのことは既に認めているのだよ。足手まといなんて思っていない、オレの隣に置いていいと思っている。本当は。……だけどおまえは、昔言っただろう」
いつかおまえが唸るようなすごいパスを披露してやるから、それまで認めるな、と。
「だから、オレはまだ認めない。おまえが追いついてくるまで認めてやらない」
それで本当に正しいのか、迷う時がある。今まさに迷っている。もう楽にしてやった方がいいんじゃないかと。だが。
「おまえはオレがどんどん先に行ってしまうと言っていたが、……それでも、オレは自分の足を止めるなんてできないのだよ。おまえも、そんなことを望んでいるわけではないだろう」
しばらく置いて、うん、と消え入りそうな声。
「オレは、これからもおまえの言う先頭を突っ走ってやる。だが、相手の姿が見えなくなって、不安になるのはおまえだけではないのだよ」
自分だってそうだ。
本当は待っていてやりたい。追いかけてきてくれたこいつと一緒に行きたい。もどかしさも覚える。焦りもする。
「――それでも信じている。おまえがちゃんと追いかけてくると、信じているから」
だから。
燻ってもいい。だけれど焼けるな、その身全てを燃やしてしまうな。そんな大仰な物にならなくていいから、今この一瞬、できれば最後まで、ここにいてくれ。
「オレやチームのことばかり考えて無茶をして、勝手にいなくなるのだけはやめろ」
ずっと一緒にはいられないかもしれない。
だけど、ずっと一緒にいたいと願って、そのための人事を尽くすことはできる。
それが、自分にできる精一杯。
「……おまえがいなくなったらオレは、この先どうしていいのか、わからないのだよ」
静かに告げた。
自転車の車輪が回る音がした。
沈黙が場を包む。
――やがて、高尾が言ったのは、
「……真ちゃん、さ」
「…………なんだ?」
「洛山戦終わった後、居残りのときのシュートの本数、ちょっと増やしただろ」
図星。
緑間は答えない。高尾がリヤカーの中で薄く笑ったような気がした。
「真ちゃん、赤司に阻止されて、試合の終わりの方一回もボールに触れなかったじゃん? だから、――負けたのは自分のせいだって、そう、思ってねぇ?」
緑間は答えない。
このままでは無言の肯定になるのに、うまい嘘が見つからない。
わかるよ、オレ真ちゃんの相棒だもん、と高尾は嘯く。
「自分の目の前でガンガン点差だけ開いていって、それ見てるしかできないって辛すぎるだろって。だからその増えたシュートが、おまえが自分に課した罰みたいに見えてさ。真ちゃんのせいじゃない、チーム全体の責任だって言ってやりたかったけど、そんなん言ったら慰めみたいで、おまえもっと頑張っちゃうんじゃないかって。オレがもっとしっかりしてればって、ますます思っちゃって。――だけど、オレもう、自分責めるのはやめにするから。真ちゃんもそれやめにしてよ。見てて辛い」
焼けても構わないと言っているのは、ジョバンニだけじゃない。「ああそうだね」と同意するカムパネルラもまた然り。
それからぷは、と高尾はいつものように快活に声を挙げて、
「なーんて真ちゃんがカッコつけるから、ちょっと真面目に言い返してみたりして? あーもう、ほんとボロボロだなオレら。やっぱ強かったなー赤司はさー」
けらけらとおちゃらけた風に笑う。
緑間はそれを聞いてただ、呟く。
「だけど、まだ戦えるだろう」
うん、と高尾が頷いた。
「それにまだまだ強くなれる」
一緒に、行こうぜ。
夜の、澄んだ空気を大きく吸う。頭が冴える。勘違いだろうと思い込みだろうと、なんだか道が開けた気さえしてくる。
「じゃ、ぱぱっと景気づけに乾杯しよーぜ! オレの全快前祝いも含めてさ! ほらそこコンビニ! 真ちゃん寄って!」
「おい、オレに命令するな高尾の分際で」
「え!? ちょおま、さっきまでのシリアスはなんだったんだよ! ひどくね!?」
などと騒ぎつつもコンビニの駐車場に停止して、リヤカーを降りて店内に向かった。
中の灯りが、雑誌スペースと人影を切り取って外へ、地面へ落ちてくる。自分と連れの姿が闇夜に一気に浮かび上がる。
ふと、思い出して、先行していた緑間が立ち止まって、振り向いて高尾の顔を覗きこんだ。
「な、何だよ?」
二つの瞳。燃える蠍の火のようだと形容された色。
赤司は美しいだけだと言った。何の感慨も湧かない、意味がないものだと。
だけれど緑間は違う。
――尊いと思う。
チームのために、緑間のために、そして高尾自身のさいわいのために、燃え続けるその火のことを。
「――おまえ、本当に、」
目だけは綺麗だな。
そう言った。
すると高尾は驚いたように目を見開いて、何か反論するように口をぱくぱくさせたが、やがて、
「……だけはよけーだっつの」
やっとの思い、という様子で唸って、耳まで真っ赤になって俯いて、静かに撃沈していた。
/蠍の火
祈りにも似て。