二限目の休み時間。移動教室。
「おあ、高尾一人? 珍しーじゃん」
「え、緑間は? 今日学校来てたよな」
「おまえらさー、オレらがいくら仲良しさんでもいっつも一緒ってわけじゃねーから。今日はちょっと諸事情で」

「あれ、緑間一人?」
「どうしたエース様、普段くっついてる元気なのは?」
「……高尾とは別に、四六時中一緒にいるというわけではないのだよ。今日は完全別行動なだけだ」
「なんで? 喧嘩でもしたの?」
「そうでもないが」
「とか言われると余計気になんなー」
「別に大した理由は無い」
「まあモメごとじゃないならいいけどさー」


 三限目の休み時間。移動教室から帰還。
「お? 来たときこんな張り紙あったっけか?」
「あ、それ、隣のクラスの男子がふざけてぶつかって、外しちゃったらしくて。そっちのドア今使用禁止だって」
「そーなん? あぶねーな」

「……遠回りするのが面倒なのだよ……」
「緑間、一番後ろの席だもんね」


 昼休み。
「高尾―学食行かねー?」
「あー、行く行く! 真ちゃんも行……」
「…………」
「……かないっか。じゃオレは失礼、っと」
「…………………………………………」
「緑間ー、一年の緒方さんがおまえのこと呼んでんぞー」
「……………………」


 放課後。普通練習が終わったすぐ後。
「高尾、ちょっと来い」
「? うぃっす」
 手にしていたバスケットボールを相手にパスし、体育館の端まで駆けていく。目的地にいる大坪、宮地、木村のレギュラー三年組は全員深刻な顔で、自分の到着を待ち構えている。
 ――オレ何かしたっけ?
 やましいことは何もないのに不安になりながらその輪に加わると、大坪がいつもの落ち着いた物言いで口火を切った。
「高尾、緑間と何かあったか」
「え?」
 何もない。
 喧嘩もしてないし普段通りだ。
 そう答えると大坪はますます怖い顔をして、
「緑間が我儘三回使って、今日はおまえとの連携は練習しないと言い出したんだが」
 ――ああ、と一発で合点した。
 なのに先輩たちの顔があまりに険しくて、思わず笑い出しそうにすらなってしまった。
「えーと、……先輩たち、おは朝占い見ました?」
「見てるに決まってんだろ。確か今日の蟹座のラッキーアイテムは――」
 宮地の言葉を受け、木村が
「――テレビのリモコン、じゃなかったか?」
 と繋ぐ。大正解。だが。
「ラッキーアイテムじゃなくて、相性の方は?」
 三人は顔を見合わせた。
「あー、そっちは覚えてねぇな」
「今日蟹座と一番相性悪りいのは蠍座、なんすよ」
「……ちなみにおまえの誕生日は?」
「十一月二十一日っす」
 あー、という声と吐息が半々の、見事な満場一致の納得のリアクションであった。
「あいつは……友情とか日頃の感謝とか限度という言葉を知らんのか……?」
「知ってるわけねーだろ。なんかもう轢く気も起きねぇわ……アホらしい……」
「高尾おまえ、どうせ今日は近寄るなとか言われたんだろ? 素直に従ってないでいい加減怒っていいと思うぞ」
 高尾はただただ苦笑いを浮かべるしかない。
「はは、一応朝言われたときはむちゃくちゃ言いましたけどねぇ」
「笑ってる場合かバカ、おまえが甘やかすから緑間が付け上がるんだろうが」
 さすが付き合いの長い先輩方、後輩相手に容赦のない物言いである。まあ緑間の日頃の行いが悪いのがいけないので自業自得だが。
 んー、と言いながら少し言葉を考える。高尾が置かれている状況など露知らず、体育館の端で黙々とシュートを打ち続けている相方が羨ましい。
「――まあ、真ちゃんがバカみてーに忠実におは朝の占い守ってんのは、バスケで勝ちたいからだって知ってますし。訳わかんねー理由で無視られたらさすがにキレますけど、それならしゃーねえってか、オレと距離置くことで緑間が安心するんならまあいいかなーと」
 しかも「本日は蠍座の人と相性最悪! できるだけ近寄らないようにー」なんて言われているのだ。神様のように崇めているおは朝のお告げを破ったままでは、緑間も心安らかなスクールライフを送れまい。
 しかし高尾のフォローを聞いて、宮地は満面の笑みを張り付けて肩をぽんと叩いた。
「もういいぞ高尾、許してやっから木村んちのパイナップルをあいつの顔面に投げつけてこい、今すぐに」
「今すぐにって、宮地サンパイナップル持ってんすか?」
「あ、原付なら配達で使ってるやつ今日乗ってきてっけど」
「それだ、それでもう今日という今日はあいつ轢こうぜ」
「あれ、ちょっ、二人とも目がマ……えっ本気っすか!?」
 焦りで笑顔が半分崩れ始めた高尾を見、溜め息を吐いて、
「まあ高尾本人がこう言ってることだし、今日だけなら目をつむって我儘で手を打つ他ないだろう。聞きたいことは聞いたし、おまえら練習戻れ」
 真面目な口調で放たれた大坪の一言で、宮地と木村は「そーだな」「あー本気でアホらし」とあっさり意見を変え、ボールを取りに走って行ってしまった。高尾一人が呆気に取られ、目を瞬かせて立ちすくむ。それを見て大坪は可笑しそうに笑って、軽く背中を叩いた。
「あれはあれでおまえたちのことを気にしているし、独りよがりな後輩に怒らないほど冷たくもないぞ」
 二歳下の小さなチームメイトは、慌てた様子で口を開く。
「あ、いや、先輩たちが冷たいなんて全然思ってないっすよ! でもバカだアホだって言われると思ってたのに、今日は全面的にオレの味方してくれてちょっとびっくりしたかなー、なーんて」
「問題があるのは全面的に緑間の方だからな。おまえを怒る気にはならんだろうさ」
「でも別に、悪いことだけでもないんすよ?」
「そうなのか?」
 そこで高尾は顔を両手で覆い、大袈裟な悲痛な声で嘆いた。
「緑間と離れてるとっすね、……緑間のフォローとか世話とかしなくていいから、楽で、楽で……」
 大坪は苦笑いと同情を混ぜたような表情を作り、「……ああ……」とだけ返事をした。


 体育館を出、練習着から制服に着替えて、校舎に入り自分の教室に向かう。秀徳のバスケ部は大所帯で、個人のロッカーは服と少々の荷物が入る程度のサイズしかない。スクールバッグは教室の自分の机の上に置いてあり、いつも着替えてから取りに行くことになっていた。面倒だが仕方ないし、もう慣れたことだ。
 夕焼けが透明な窓ガラスを、人気も素っ気もない廊下を、空っぽの教室を見事な朱色に染め上げている。音楽室と外から響いてくる楽器のメロディは、ジャズ研の「ムーンライト・セレナーデ」とブラスバンド部の「必殺仕事人」。それに野球部の「いち!」「ハイ!」「に!」「ハイ!」「さん!」のランニングの掛け声が重なって、音響面はかなりカオスである。喧嘩しているわけではないが非常にミスマッチ。
「……こんな早く帰んの久しぶりかもなあ」
 一人呟いた。
 今日も遅くまで居残って練習しようと思ったのだが、シュートを打ち続ける緑間の背中を見ているとなんだか気が乗らず、まだ日が落ちきらないうちに切り上げてしまったのだ。
 結局今日緑間と話したのは、朝、事情を説明されて、いろいろ文句を垂れたときだけだった。
 そして自分は今、らしくもなく少し落ち込んでいる、らしい。
 別に、突き放されたことに思うことはあっても、怒ってはいないのだ。先輩たちに説明した通り。確かに薄情だし我儘だしそりゃねーよと言いたくなるが、……そういうあいつのことが好きになってしまったのだから、もうしょうがないではないか。
 わだかまりの根源は別のところ。
 普段、本当に、高尾は緑間とずっと一緒というわけではない。移動教室も体育もバラバラのときがほとんどだし、毎日リヤカーで登校しているわけでもない。しかしこうはっきり突き放されれば嫌でも意識する。
 高尾和成が隣にいない、緑間真太郎の風景を見た。きっと一日限定でなく、いつか当たり前と化すだろう風景を。
 大坪はギャグ交じりに誤魔化した。だが緑間のフォローをしなくていいから楽なんて、
 ――フォローなんて、オレが勝手にやってるだけなんだよな。
 自分が放っておいても、緑間は誰が何を思っていようと気にしない奴だし、周囲に内面が認知されれば、ちゃんとうまくやれるのだろう。今日のように。隣には他に誰かいて、話して笑って、女子に告白とかされちゃったりして。
 当たり前のことだ。
 喜ばしいことでもある。
 だけど。
「……あーあ、オレかっこわる……」
 乙女かっつーの絶対真ちゃんには言えねぇ、と内心苦笑いした。
 マイナーだったインディーズバンドが、いきなり有名になったあの感じに似ている。
 置いて行かれた気分というか、取り残された気分というか。そう思うのはこちらの勝手だというのに。ずっと一緒にいられると、一緒に連れて行ってもらえるとでも思っていたのか。我儘で厚かましいにも程がある。
 ……そして本当にらしくない。離れているなら自力で追いつくまで、というのが高尾和成の意向だろうに。
 全く。
 自分で自分が嫌になる。
 ああ要するに、今の自分は――
「……………………」
 教室のドアの前で足を止めた。ポケットから携帯を取り出して、短縮の一を呼び出す。
 賭けだった。
 ――出たら八つ当たりしてやる。
 それくらいのへっぴり腰の特攻である。
 ワンコール、ツーコール、スリーコール。
『もしもし』
 うわ。
 練習どうしたのこの子。
「あ、もしもし……真ちゃん?」
『おまえは誰宛てのつもりで掛けたのだよ』
 うるせえよおまえだよ。という言葉をぐっと飲み込む。
「えっと、練習お疲れさんでーす」
『切るぞ』
「おわちょっと待って!」
 まさか本当に出るとは思わなかったので、出鼻をくじかれた。
「あー……今日接触すんなって言われたけど、……電話はおっけー?」
『……まあ』
 ものすごく歯切れの悪いお返事どうもである。
 ――どんだけおは朝信者なんだかこの子は。
『で、何だ用件は』
「えー――っとさ、まあとりあえず、オレら今日相性悪かったじゃん? それでなんか悪いことなかった?」
 少々間があった。
 今日一日を振り返っているのか、電話を持ち替えでもしたのだろうか。
『これと言った災難は無かったのだよ。シュートの調子もいつも通りだった』
「そっか。良かった」
 思わず胸を撫で下ろす。そうでないと一日苦労した意味がない。
 沈黙。
 隙を狙って飛び込んでくる、トランペットと「いちにさんし!」の野太い声。
「……だけどさ、こっちはちょっと物足りなかったかな」
手持ち無沙汰なので少し心持ちが悪く、空いている方の手を、裾をたくし上げたスラックスのポケットに突っ込んだ。
『――どういう意味だ?』
 低い声が返事をする。きっと訝しげな顔をしているんだろうなと思い、それが簡単に想像できてつい笑ってしまった。
「バスケ部の奴らといても勿論楽しいけどさ。やーっぱ、真ちゃんよりぶっ飛んだことを天然でやってくれる奴って、そうそういないわけよ。まあ、いたらいたで困るけどさ」
 それからちょっと言葉を切って、
「……うん。多分今日のオレ、いつもよりは全然笑ってないと思う」
 苦笑い混じりにそう付け加える。
 相手は何も言わない。
 廊下の窓から、紫がかった大きな雲と、橙色と透明のグラデーションが覗いている。学校の校舎の二階となれば、近くに遮る建物もないので実に見晴らしがいい。ちょっと暑いのが玉にキズだが絶景だ。
「真ちゃんの我儘にはらはらしたり怒ったりするのも、奇行を茶化して腹抱えて笑うのも、きっと嫌いじゃないんだな。ちょっと真ちゃん、オレいつの間にかおまえ抜きじゃ満足できないエロい体になっちゃってるんだけどー? どう責任取ってくれんだよ」
 ははは、と明るく笑う。
 相手は何も答えない。
「だからオレわりと、明日おまえと会うのが楽しみなわけよ。連携も練習したいしさ。なんで今日はオレ抜きでも、怪我しないように、気を付けて帰ってください」
『…………』
 と言いきっておいて最後、自分の胸の内の底にあるその感情を、出すか出さないか迷った。
 本当は吐き出してしまいたい。……ずるいし卑怯だとだとわかっているが唾を付けておきたい、気付いてほしいけど気付いてほしくない、ちょっとかわい子ぶりたい、そんなエゴと罪悪感と支配欲のチラリズム。
 ――それにこいつ、おまえなんていなくても平気ですみたいな澄ました顔してんだもん。
 悔しいではないか。
 こっちばっかり好きみたいで。
「……ぶっちゃけると今日一日ちょっと寂しかったから声が聞きたくなったのが一番の用件。そんだけ。じゃな」
 早口で言った。
 返事を聞く前に通話を切った。
 料金を表示してから待ち受けに戻った携帯の画面を見ていたら、一気に頬がかっかと熱くなった。
「………………………………あー……、」
 悶絶して座りこもうとした、
「やっぱ言わなきゃ、」
 その瞬間、
「よかっ、」
 た。
 どん。
 背中に何かが衝突して、前に倒れる前に腹に巻きついた何かに引っ張られて難を逃れた。
 驚いて反射的に振り向こうとしたが、目を隠すように手を額に回され、頭を完全に固定された。鷹の目も使用不可。状況がさっぱりわからない。
 背中に触れているものが弾力があって熱くて、少し息を荒げていて、微かに洗剤のような爽やかな匂いがすることだけはわかる。
 ――てかこれもしかしなくても、
「…………この、」
 左の腹に回された腕の力が強まる。ぎゅう、ときつく抱き寄せられてちょっと痛い。
「バカ、くそ、……死ね、バカめ」
「……え、えーと」
 正直こちらにとっても不測の事態である。近くにいるなら絶対あんなこと言わなかった。ていうか残って練習してたんじゃなかったのかよこいつ。頭がパニックになりかかる。ダメだダメだ冷静になれ切り替えろオレ、バスケのときはできてるんだそれくらい簡単、
「………………オレだって、」
 ――あ。
 やっぱ駄目だ。
 なんだかそんな恥ずかしそうな小さな低い声で想像つくかつ内心ほんのちょっぴり期待しちゃってること言われたら完全に、
 負け、

「…………………さびし、」

 視界の外で。
 固いものが硬いものと衝突する、がっつん、という実にいい音がした。

「……え?」
 自分を拘束していた手の力がするりと抜けて、夕焼けの色が戻ってくる。 
 なんとなく動いたらまずいという予感があり、鷹の目で背後確認。
 しかし頭上には何故か「使用禁止」と書かれていたはずの外れた引き戸が斜めに被さっており、ついでに高尾は全く痛くなく、緑間はさっきから何も言わない。あれだけ固かった拘束も緩んでいる。何が起きたかは五秒で理解できた。ついでにさっきのでっかい音。
「あ、ちょ、うわ、しんちゃ―――――――――ん!」
 ジャズ研の「ムーンライト・セレナーデ」とブラスバンド部の「必殺仕事人」と野球部の「いち!」「ハイ!」「に!」「ハイ!」「さん!」のランニングの掛け声の他にもう一つ、校舎内のBGMが付け足された瞬間であった。

 救出された緑間はすぐさま保健室に連れて行かれた。
 養護教諭からは頭頂にでっかいたんこぶができただけと診断され、ガーゼに包んだ保冷剤を貰って処置は終了した。「緑間が怪我をしたらしい」と聞いて駆けつけてきた居残り中の先輩方は、高尾から事情を聞くなり大爆笑し、ざまあだのまあお大事にな、など諸々の感想を述べて帰っていった。
 高尾和成は後に事件のことをこう語っている。
「一瞬マジで死んだんじゃないかと思って笑えなかったけど今はVTR欲しい。一カメ二カメ三カメで」

 そして帰り道。
 緑間真太郎は大層不機嫌であった。
「いやー、まさか風もないのにドアが頭の上に落ちてくるとは思わねぇよなあ……ガラス窓の部分はうまいこと避けてて良かったな」
『オレはもう金輪際! 相性の悪い相手には! 近付かない!』
「あ、あんときはつい笑っちゃったけど涙目になってる真ちゃん超可愛かったぜ」
『うるっせえ死ね!』
 訂正する、不機嫌を通り越して大荒れだ。
 前方五メートルほど前。肩を怒らせて長い足で通学路を驀進する背中は、さながら目の前の鬱陶しい布を薙ぎ倒そうと突進する闘牛のようであった。
 それでも律儀に、携帯を耳に押し当てたままなのが可愛らしい。
 くすくすと笑って、高尾は一度携帯を反対の手に持ち直した。
「ところでさ真ちゃん」
『なんなのだよ!』
「あのとき言いかけてた言葉の先、何?」
 すると魔法にでも掛かったかのように、闘牛がぴたりと憤るのをやめた。
「さびし、……までは聞こえたけど?」
『…………』
「教えてほしーなー」
 ぶち。つー、つー。
「あ」
 切られた。
 しかしにやつきが抑えきれない顔で、携帯のボディをぱくんと閉じて、手でメガホンを作り、高尾は叫ぶ。
「しんちゃーん! でも嬉しかったぜー! また明日なー!」
 顔が勢いよくこちらを向いて、うるさい黙れバカ死ねと幼稚な罵詈雑言を浴びせられた。

 夜、からかいすぎたかと思い、その謝罪と、「明日はリヤカーで迎えに行くから。頭の怪我お大事にな、おやすみ」とメールを送っておいた。
 少し遅かったがちゃんと返信はきて、しかしそのメッセージは八文字だけで、素っ気ない文面に高尾はまた笑ってしまって、――だけどなんだか、ほんのりと温かい気分になってしまったのだった。

『待ってる おやすみ』



/本日ハレの日、明日はケの日