※高2→23歳くらい






 昼休み。自販機で買ってきたオレンジジュースのパックにストローを突き刺し、高尾は思い出したように話題を切り出した。
「そういえばさー真ちゃん」
「なんだ」
「昨日さ、おまえオレんち遊びに来たじゃん? んでうちの可愛い妹ちゃんと顔合わせしたじゃん? そしたらおまえが帰った途端に恋する乙女オーラ全開になっちゃってさー。『緑間さんって大人っぽいし、落ち着いててかっこいいねー』だってよ」
「……おまえ、余計なこと言ってないだろうな」
「『外面はそうかもしんねぇけど結構年相応だぜあいつ。部屋にえっぐいエロ本隠してっし』っつった」
「…………」
「すげー冷めた顔されてたぜあっははははははいってえ!」
 『緑間』とマジックで書かれた、薄汚れた上履きによる鋭い蹴りが入った。脛に命中した。急所はやめろ急所はと足を押さえて高尾が騒ぐ。
「ていうか何でおまえはオレの部屋を勝手に漁ってるのだよ!」
「野郎の部屋に入ったらエロ本探すのがセオリーだろうが! 大丈夫、見た内容は話してねぇから! ていうかアレすぎて妹ちゃんになんか話せねえわ! オレも正直あれは付き合えねえから提案しないでね!」
「しねぇのだよ死ね!」
「つかおまえ今読書中です邪魔しないでくださいみたいなインテリ面してっけど読んでんの部で回してる漫画じゃねぇか!」
「デスノートの頭脳戦マジ熱いのだよ」
「……まあ、そこは他にも困る奴いるから言わないでおくけど……」
 納得いかない、という顔で、高尾は机に頭を乗せてむっつりと沈黙する。目の前の緑間はいつもの通り、折り目正しく制服を着こなし、背筋をきっちり伸ばし、無表情で手元の漫画に視線を注いでいる。
 黒を基調とし、真ん中に人物、左右に骸骨や英字や花を散らしたゴシック調の表紙。死神のノートを巡る人間たちの攻防の物語。きっと知らない人間はほとんどいないだろう、少年漫画誌に掲載していたとは思えないシリアスなミステリー漫画である。
 が。
 高尾も緑間の前に読んだので知っているのだが、それはカバーだけだ。サイズが同じなことを利用し、別のコミックスにすり替えられている。
 中身は何か。
 To LOVEるダークネス四巻である。
 この男は天才たちによって繰り広げられる高度な推理合戦漫画のカバーだけ被せ、美少女たちのあんな姿やこんな姿を規制とチキンレースを繰り広げながら描き続ける「月刊誌に移ってからますますエロくなった」と大好評のハーレムラブコメを読んでいるのである。
 ……と言ってもカバーに細工したのは緑間ではない。緑間はそんな小細工を使うようなタマではない、本来のものでも平気で読んでいたはずだ。それを男らしいと取るか空気が読めないと取るかは個人の判断に委ねる。
 同じバスケ部であるこの漫画の持ち主が、さすがにこれは人に(主に女子に)見られると恥ずかしいということで付け替えたのだ。カモフラージュにデスノートを選んだのはせめてもの格好つけだろう。巻頭のカラーイラストページは隠しようがなかった様子だが、よほど運が悪くない限り中身が違うとはまず思われない。
 緑間はそれに無表情で目を通す。
 にやりともしないしにこりともしない。
 面白くないのか、と一度尋ねてみたが、「嫌いではない」と返ってきたし、そもそも四巻まで継続して読んでいるので楽しんではいるのだろう。だがポーカーフェイスすぎる。もしかしてあの本の中身は本当にデスノートであってTo LOVEるダークネスではないんじゃないかとさえ思えてくる。
 ちなみに女の子は九条凛がお気に入りらしい。「誰だっけ?」と聞いたら怒られた。最近出番が増えてきたキャラとはいえ、チョイスがマイナーすぎると思う。そもそもおまえ年上ばっか好きになるからどうしてもちょっとマイナーになんだよ。ちなみにオレはモモちゃんが好きだ。
「……そういえば、昨日は珍しく、ミョーに気ィ使ってたよな。オレに対してはどーなのってくらいあけすけなくせに」
 高尾は飲みかけのでっかいパックのストローを咥え、頬杖を突いて、むう、と緑間を睨む。百パーセントオレンジジュースが白い筒を伝って、目立たないながらも喉に落ちてくる。
 高尾宅にて妹と初対面した緑間の愛想の良さと言えばそりゃあ気色悪いほどで、「初めまして和成くんのクラスメイトで部活仲間の緑間真太郎ですお兄さんには常々お世話になっています」と年下に敬語を使い、相手が恐縮して敬語でなくていいと言われたときには「ありがとうじゃあお言葉に甘えて」とバカ丁寧に返し、菓子を持ってきたときには「良かったら一緒にどうかな」と誘って高尾和成トークで盛り上がっていた。
 高尾は始終開いた口が塞がらず、目の前で和気藹々と話を進める緑間真太郎はもしや偽物なのでは、もしくは自分の知らないところで頭を打ったのでは、と本気で心配したくらいだ。いつもの変な語尾が一度も出なかったので余計そう思ったのかもしれない。
「意外と猫被んのうまくてびっくりしたけどさー、別にそこまでするような相手じゃなかったろ? あ、まさかおまえ妹ちゃんに一目惚れ……!」
 そこで緑間は嫌そうに、軽く眉間に皺を寄せた。
「そんなわけあるか、オレは年下には興味ないのだよ。それより高尾」
「ん、何?」
「攻めの誕生日ネタでよく見られる受けの全裸リボン巻きについてどう思う」
 高尾はジュースを吹き損ねて盛大に噎せた。
「おま……そんなメタメタなネタ話題に出すんじゃねぇよ!」
「別にメタじゃないのだよ、びーえるもの見ればわらわら転がってるだろう」
「真ちゃんBLとか読むの!?」
「なんだかんだで少女漫画のネタを男と男でやってるだけなのだよあれは。受けの方を女と思い込んでしまえば少女漫画だ」
「すげえ暴論だな!」
「母親のを拝借したのだが風と木の詩はいいぞ」
「そんな学校であった怖い話の先輩みたいな言い方されても……てか今の子知ってんのそのタイトル……」
 ぺらりと緑間がページをめくる。こんな会話をしていてもちゃんと読んでいたらしい。
「まあ話を戻すとだな。オレは結論から言えばあれにはあまり萌えられないのだよ」
 続けるのかよこの話題、と言いたげな顔で、高尾がはぁと投げやりな相槌を打つ。緑間は無表情のままだ。
「女だったらまあ、胸や下腹部が細い帯でギリギリ隠れているのがいいのかもしれんがな。そもそも男だぞ。むしろ体は隠れていた方が良くないか。おまえはただでさえ腕を鍛えているんだし」
「そりゃパサーだからなあ」
 確かに男と女で肩と腕は差が出る。主に逞しさで。
「あー……着衣好き?」
「引退したらユニフォームを着せて一回と思っている」
 一瞬考えて、「着せて」に掛かるのが自分だということを理解した。恥ずかしいやら退くやら呆れるやらで脳内が突然忙しくなった。頭から湯気を吹きそうな気になって黙り込む。
「……真ちゃん…………オレらの神聖な戦闘服をそんな目で見てたのかよ……」
「引退したらと言っただろうが、使っている間は汚す気はない。今流行りの進撃のナントカの戦闘服なんてフェティシズムを刺激すると評判だぞ」
「よそはよそ、うちはうちだから……」
 あんな全身ベルトで拘束してるような衣装と橙色のゆったりタンクトップアンドハーフパンツを一緒にしないでいただきたい。
「具体的に言うとまくって腹にぶっかけたい」
「……露骨な下ネタはやめてくれよなー、これ全年齢で投稿してんだから」
「何を掛けるかは言ってないのだよ。おしるこかもしれないぞ」
「どんな性癖だよ……どっかに落ちてそうだけどそんなネタ。どうせオレが腹舐められるんだろ」
「ていうかTo LOVEるが全年齢でいけるなら、そこそこなんでもいける気がしないか?」
「する!」
 全力で言ってしまった。
 ――いやだってあの漫画、下さえ直接描いてなけりゃ全部おっけーみたいな感じなんだもん。
「棒アイスを咥えさせて出し入れするのもおっけー、ペッティングもおっけー、胸の谷間のきわどい位置に石鹸を置いて寄せて擦るアレっぽく見せるのも全年齢でおっけーなのだよ!」
「いーえいTo LOVEるダークネス最高―!」
 ノリがバカになってきた。
 緑間もそう思ったのか、眼鏡を押し上げて一つ咳をした。こほん。
「とにかくな、オレは全裸リボン巻きは勘弁なのだよ」
「なんで二度言ったの真ちゃん。大事なことなの?」
「大事なことだ。そもそもあの、誕生日プレゼントは自分、なんて厚かましさが気に入らん。おまえにそこまでの価値があるのかと問い詰めたくなる」
 ひどい言いようである。何か恨みでもあるのか。受けの全裸リボン巻きに。
「どうせならワイシャツ姿で両手をリボン拘束の方が好みなのだよ」
「……へえ」
 気の抜けた声で呟いて、ストローに口を付けて、こいつは性癖を自分にカミングアウトしてどうするのだろうと今更に思った。
「…………」
 ……やれってか。オレにやれってかそれ。前フリなのこれ。
 緑間はまた眼鏡を押し上げる。
「まあ」
「…………」
 いやでもそれは見た目というか自分が精神的に結構きついんじゃあ、
「おまえがオレの誕生日にそれをやったらオレは爆笑するがな」
「……………………………………………………は?」
 なんて考えを膨らませていたら、いきなり飛んできた声で現実に引き戻された。
「腹抱えて爆笑するのだよ、本当に」
「…………」
 目を丸くして見た、正面を陣取る男はやはり仏頂面である。顎を少しだけ上げてこちらを見やり、
「何だその顔、前フリかとでも思ったのか」
 高尾はそのスカした顔を思いっきり殴ってやりたくなった。
「……いや、それよりおまえの性癖にちょっとヒいたわオレは。ていうか爆笑する真ちゃんってどんなだよ。逆に見たいっつの」
「じゃあやってみればどうだ」
「謹んでお断りしますー」
 ずそそそそそ、と音をたててジュースを啜る。緑間はまたコミックスの紙面に目を落とし、完全に読書モードに戻る様子だった。
 が、それを見て、ふと思った。
「――あれ、真ちゃんって、誕生日いつだっけ?」
 去年おめでとうを言った覚えがない。少なくともそんなに盛大には祝ってやっていないはずだ。まあ、去年は恋愛的な意味で好きとか嫌いとかいう仲になっていなかったからかもしれないが。
 相手は即答した。
「七月七日だが」
 へー、と感心した声を挙げる。
「近いなー、七夕じゃん。あー、確かに真ちゃんぽいわ」
「どういう意味だ」
「なんとなく縁起いいし、どことなく爽やかだし、それに星だから」
 完全に顔を上げて浮上して、「星?」と尋ね返してくる。
 高尾は小さく笑った。
「すたーと書いてほし。……オレにとって真ちゃんはさ。遠くでぴかぴか眩しく光ってて、追いかけてつい手を伸ばしたくなる、星みたいなもんだから」
 緑間は。
 沈黙した。
 それに気付かず、高尾は空になったパックを机の上に置いて、大きく伸びをする。
「あ、そういえばはぐらかされたけどさー、オレの妹ちゃんにバカ丁寧だったのはなにゆえ?」
「…………ただでさえ初対面なのだから、年下の女子を怖がらせないよう丁寧に接するのは、男として当然のことなのだよ」
「ダウト。まーいいや、いつか言いたくなったら言ってくれれば。それかオレが覚えてたらまた聞くから」
 緑間は返事をしなかった。だが別に気にしない。よくあることだ。
 ふふん、と小さく笑って、机に突っ伏す。
「じゃあオレ寝る。おやすー」
「おい、もう授業始まるぞ」
「次自習だろー体力充電すっか」
 最後まで言う前に、『緑間』とマジックで書かれた、薄汚れた上履きによる鋭い蹴りが入った。
 高尾の脛、具体的に言うと、先ほどめり込んだ箇所に見事に命中した。
「急所はやめろ急所は!」


 数か月後。
 緑間の誕生日はちょうどテスト期間と重なり、「あーそういえば誕生日だっけ、なんか奢ってやるけどー?」と隙を見せた高尾はコンビニでおしることケーキと店舗で作っている夕張メロンソフトを買わされた。どうせ奴はこれから厄介になる緑間宅でそれをおいしそうに食べるに決まっているので、自分用にティラミスを買ってしまい、思わぬ出費が重なった。
 そして到着した緑間宅。
 クーラーの冷風を浴び、緑間の部屋のテーブルにスイーツを広げ、全部なくなったところで、高尾は正座した。
「改めまして」
「何だいきなり気持ち悪い」
「えーっと………まあ、その、なんすか。お誕生日おめでとうございます」
 深々。
 こいつ何かよからぬことを考えているんじゃなかろうな、と言わんばかりに睨んでくるバカはスルー。
「というわけで……まあ、プレゼントじゃないけど、あくまで! プレゼントじゃあねぇけど! これどぞ」
 そう念を押して、鞄からレジ袋を引っ張り出して、手元に押し付けた。
 見ていられなくて俯くポーズを決め込むが、正面でがさがさと音がするのがこっぱずかしくて仕方がない。腹は括ったつもりだったのだがまだ緩みがあったらしい。
 そうして、袋から中身が取り出されて。
「……おい高尾、これ」
 多分奴が持っているのは、封も切っていない、芯付きのリボンだと思う。
 濃い緑色の。
「……えーっと。まあそのあれだ、別にオレをプレゼントとかクソ寒いことは言う気ねぇかんな! 今日くらいは好きなシチュだろうとおまえの持ってる本のマニアックなプレイだろうと付き合ってやろうかと思っただけ! ついでにそれ買うのむちゃくちゃ恥ずかしかったけどってオレの決意もご了承しとけ! もう笑いたきゃ! 笑え!」
 持ちえる酸素を全て使って言いきった。終わったらぜーぜーと荒い呼吸をしていた。
 緑間は一度高尾に目を向け、次にしげしげと手元のリボンを見下ろし、それからいつものように眼鏡を押し上げた。
「……おまえは一つ誤解しているようだが」
 ナイロンの封が開く。ばりっ、と実にいい音がする。
「おまえ陵辱系は見るか」
「見たことはある、けど」
「好きか?」
 一番端のセロハンテープを剥がして、帯を手に取る。細い緑色がしゅるりとほどける。
「好きか嫌いかどっちか、って言われたら、……好きかもしれねぇな、まあ」
「でも現実の女を襲おうとは思わないだろう」
「か弱い婦女子を手籠めにするような奴はクズだと思う、まじめに」
「オレのアレも一緒だ。実際人間に試そうという気は一切湧かない。高尾、万歳」
「……は?」
「いいから早くするのだよ。はいエース様に」
「ば、ばんざーい……」
 戸惑いながら両腕を上げた。
 手首の辺りでリボンが一周して、縛ったのか、腕が引っ張られて一つに纏められた。どこから取り出したのやら、軽快な音をたてて鋏で布が切られる。
 その手を掴んで、後ろに押された。背中がころんと着地する。天井。と、洋画の怪人のように現れる逆光しまくりの緑間の顔。
「えーと、緑間さんこの状況は……てか爆笑するとか言ってなかった? あれは?」
「激しく似合わないがオレの好みに合わせようとしたことだけは評価してやる」
「……ん?」
 ――なんかいつものキャラとちがくね?
 自分からやっておいて、高尾はひどく困惑した。
 しかし時すでに遅し。いつも律儀に留めている学生服の襟のホックを片手で外し、心なしかいつもより凄みの増した無表情で迫ってくる。
「え、え、ちょっ、待っ」
「高尾、こんなことわざを知っているか」
「知らねえ!」
「据え膳食わぬは男の恥、だ」
 知ってた。
 ぎゃー待って心の準備がお代官様お戯れをー! なんて騒いだがこの男が聞くわけがない。
 最後通告のように。
 にやりと笑って、そいつはぼそりと囁いた。

「いただきます」

 結果は、まあ、御察しである。



「あっははははははは! んなこともあったなあ! なっつう! 何年前だっけそれ!?」
「高二だから六年前だな」
「もうそんな前!? あっほな会話してんなあオレら!」
 爆笑し終わった高尾は、目尻に浮いた涙を指で拭って、それから「はー」と満足げに深呼吸した。
「なんつーか、ガキ丸出しっつーかさ……To LOVEるで盛り上がってるとこが一番ガキだよなあ」
「今でも読んでるだろう、おまえ」
「いや、内容が幼稚って意味じゃなくてさ。エロいのに興味あんのに十八禁が買えねーから、全年齢のTo LOVEるで騒いでんだろ?」
「ああ……」
 言われてみれば、緑間は大層納得した。ギリギリがいいから寸止めにしているのではなくて、その先まではいけないから寸止めになっているのだ。この違いは、確かに大きい。
 それ以外にも、あの頃はいろいろガキだった。制服とか。昼寝とか。黒マジックででっかく名字を書いた上履きとか、教室とか、エロいことに興味津々とかすぐセックスしようとするところとか。まさに思春期真っ盛りだったといえよう。
「結局ユニフォーム着てやったよなあ、後悔してもうやらないって話になったけど。高三の誕生日はでっかいクマのぬいぐるみだっけ? オレがUFOキャッチャーで取ってきたやつ」
「確かそうだった。妹が気に入って、ほとんどあいつのものになっていたがな」
「オレのチョイスが悪かったんだよなー、あれは。年頃の女の子にそんなもん見せたら欲しがるに決まってんのに」
 高尾はつっかけの底をぺたぺた言わせながら、楽しそうに昔を語る。ヘアピンで髪を止めて額を気持ちよく晒して、そういうところは昔と変わらないのに、件のリボン事件のときより少しだけ伸びた背丈や凛々しくなった顔立ちが、年月の経過を目に見える形で伝えてくる。
 でも自分も似たようなものだと思う。
 もう高校どころか四年制の大学まで卒業して、現在社会人二年目だ。学生ですらない。中身も容姿も肩書も全て異なっている。家ですら違う。今はアパートに一人暮らしだ。ガキ丸出しだったあの頃の記憶ももう、印象深かったもの以外は、おぼろげにすら思い出すことができない。
 バスケもやめた。シュートなんて何年も、いや、高校で引退してから打っていないんじゃないだろうか。あの重いボールにもう一度触れてしまったら、いつまでもずるずると縋って、離れられなくなりそうで。怖くて、打てなかった。ずっと抱えているわけにもいかないと、わかっていたのもある。
 そう考えてみれば――本当に、緑間真太郎を構成する全ては、高校のときのそれとほぼ、変わってしまっているのだ。
 ……変わらないのは、未だに高尾和成という男が自分の傍にいることと、
 そいつが毎年七月七日だけは絶対にうちに来て、変なプレゼントとケーキを片手に、嬉しそうに自分の誕生日を祝うことくらい。
 リボン巻きは、あれから一回もやっていないけど。
 というより、高校を卒業してから、性行為すらしていない。
 隣をもう一度見る。薄紫色に染まった雲と、橙色の空。定時で帰ってきたらアパートの前に年甲斐もなくうんこ座りで、「真ちゃん誕生日おめでとー。ケーキ買いに行こうぜ。今日は奢っちゃう」と屈託なく笑いかけてきたそいつ。
 案外細い黒い髪。大きくなったにしても、自分よりは数段小さい体躯。ひだりがわ。軽い口調と笑った顔。変わったけれど変わらないもの。
 ――ああ。
 この人だけは。
 ……このひとだけはと。切に。
「高尾」
 息を吸って、願うように唱えた。
「一緒に暮らさないか?」
「いーよ?」
 早。
 驚いて目を向ければ、高尾もこちらを見上げて、悪戯っぽく笑っていた。
「……もう少し考えても構わないぞ?」
「いや、もうそんな段階とっくに済ませたし。去年内定決まったとき一回提案しようか迷ったんだけど、でもこの件って真ちゃんが言い出したことだからさ。真ちゃんが納得して答え出すまで、オレは待ってようと思ってたんだよ」
 だからオレが早いんじゃなくて真ちゃんが遅いんだぜ、と可笑しそうに言う。
 思わず絶句した。
 こんなでは自分がいつまでもうじうじと一歩進めないチキン野郎のようではないか。高尾のくせに生意気である。
「五年掛かったんだなー、長かったな」
「……いや、オレは、言い出すなら自分で金を稼いで、自立できるようになってからだと思っていたから」
 しかし怒るのは逆ギレだとわかっていたので、しみじみとそうこぼす高尾に、緑間は本心なのに言い訳に聞こえてしまう言葉を返す他なかった。

 秀徳の卒業式。緑間は高尾にこう切り出した。
 別れよう、と。
 ……相手が嫌いになったわけじゃない。むしろ逆だった。だけれど、高校を卒業するということは、大人になるということと同義だと思ったから。今のままでは、きっといつか破綻すると思った。
 ガキすぎて。
「――うまく言えないが。オレたちの仲は、バスケでの相棒関係や親愛に、性欲やら混ぜ込んで、べたべた擦り付けあっていただけなんじゃないのか。大真面目で、遊びではなかった、それは自信を持って言える。だけど、……覚悟が足りないと思う。この先も一緒にいようと思ったら、多分、好きだけじゃ無理だと思う」
 体は形があるから繋げるのは簡単だ。
 だけど、心を繋げるのは、形がないから難しい。
 それに。
「高尾、おまえ、おまえは、……バスケをやめたオレでも好きでいられるのか?」
 一番強い媒介が、跡形もなく消えてしまって。
 おまえは自分にとって星なのだと、何の悪気もなく、誇らしげに語るその人を見て。思ってしまったから。
 少し距離を置こう、と言った。
 高尾は言い訳も泣きごとも一つも漏らさず、「わかった」と即決した。
 それから二人とも進学のために実家を離れ、物理的にも距離は遠くなって、お互い触れなくなって、今に至る。

「――思いの外、臆病なのかもしれないな、オレは」
 呟いた途端、下からものすごい勢いで動揺している誰かの視線が突き刺さった。確かにらしくはないと納得し、それでもオレも人間なんだぞ、と内心ツッコみつつ、眉間に軽く皺を寄せる。
「別におかしなことでもないだろう。感情で突っ走ることも十分できたのに、そうしなかった。というか、できなかった」
 補足すれば高尾のそれが僅かに緩んで、
「オレは真ちゃん人事尽くしてんなーと思っただけだったけど? 慎重だとは思っても、ビビリって感じたことはねぇな」
「おまえは昔から少しオレを買いかぶりすぎだ」
 そっかなー、と相手はぼやくが、絶対そうだと緑間は思う。
 まあ、他の奴はそれよりもっと、自分を人間扱いしていなかったような気もするが。
「高校卒業した時点でそう言い出したのもな。きっと、見たくなかっただけだ」
「ん? 何を?」
「……喧嘩して、幻滅されて別れるところを」
 バスケをやっていた時代。緑間の周りの人間は、その目の前からいなくなることが多かった。
 輝かしい才能を妬んでだったり、自分と比較して絶望したり、諦めてしまったりといった自滅がほとんどで、緑間本人はどうしようもない。だからその姿を見て、何か思うことはあっても、いつか気にはしなくなった。前だけ見ていて、気にする暇もなくなった。
 踏みつけられても立ち上がって追いかけてくる奴なんて、隣にいるこいつくらいのものだった。
 時が経つにつれて、高尾がどんどん大事になっていって。
 他に良い人ができて、高尾も幸せそうで、自然に切れるならまだいい。笑って祝福して送り出してやれる。バスケでコンビを組んでいたあの頃を美化して、思い出を後生大事に胸にしまってやる。だけど嫌われていなくなられるのは、絶対に嫌だった。
 赤信号でいったん停止した。左から右へ車が通過していく。ぺたぺたいう音も止まる。
「……おまえはそういう風に言うけどさ。卒業式の真ちゃんの言葉、すげー拙かったけど、オレも納得はしたんだよ」
 同意もした。
 だって間違いなく、自分たちの一番輝かしい時代はバスケをやっていたときだった。そこからは落ちるだけだ。嫌な言い方だが。そう思うと不安が湧いた。それほどバスケは大事で、バスケでの自分たちの関係も、また強固だった。
 青信号。進む。
 街並みが、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。
「嫌われたわけじゃないっぽいことはわかったから、離れたらすげー会いたくなって、でも距離置こうって言われた以上ほいほい会うわけにもいかねーし。勇気も出ないし、ちょっと見栄もあって、なっかなか言い出せなかったんだよな」
 高尾が卒業後に初めて連絡してきたのは、七月に入ってすぐだっただろうか。
 ――やっほー真ちゃん久しぶりー元気ー? 生きてるー?
 ――高尾か。どうした?
 ――いきなり用件聞くなよ、相変わらず野暮だなー。何も無いのに電話しちゃダメなのかよ?
 ――……いや。
 ――まーいいけど。どうせ用事だし。……あのさ、七夕空いてる?
 誕生日、祝いたいんだけど、と。
 珍しくためらいの滲んだ声で、提案してきた。
 その年は確か緑間のアパートでケーキとピザを食べて、映画をだらだら見て、泊まりもせずに帰った。
 だけれど、そのとき緑間も言い出した。
 ――次はオレが行くから、住所を教えろ。
 まあ、それで一か月ほど後に行った高尾の部屋はあまりに散らかっていて、緑間が激怒し大掃除に発展するという事態が起こったのだが、ともかく交流は繋がった。
 それから合間を縫って、ちょこちょこと遊びに行くようになって。
 その表情に、仕草に、話し方に、声色に、笑顔に――もう一度。
「まあ、内容が違うとはいえ、また認めさせてやる! って気になって楽しかったけどな」
 笑って、高尾は後ろで手を組んで、小走りで前に出て、緑間の方をくるりと振り向いた。
「だから、……オレもう、腕の筋肉も体力もだいぶ落ちて、うまいパスもできなくなってると思う。あんだけ頑張ってできるようになって、おまえとの絆の証みたいに思ってて誇らしかった連携も、もうできない」
 そんな陰らないオレだけど、それでもいいなら、と。
 胸に手を当てて、厳かに。
「それでも欲しいって言ってくれるなら。今年の誕生日はオレを贈呈しましょう」
 言い終わった後で照れくさそうに、声を挙げてひっひと笑う。
 そんな高尾の姿を見たら、自分も照れくさくなった。
「……おまえ、自分をプレゼント、って恥ずかしくないのか」
「普通にむずがゆいけど、まあ、真ちゃんオレのこと好きっしょ?」
 それを言われてしまっては完敗である。恋愛は惚れた方が負けとはよく言ったものだ。
「…………」
 ――これは、自分もちゃんと言わなければならないと思った。
 この状況を作り出した側として。一人の人間として。不器用でも拙くてもいい、高尾和成という存在に思いを寄せて、寄せられる人間として。この気持ちを伝えようと、思った。
「……オレも」
 夕方の朱色の空に、静かな声が溶けていく。
「スリーポイントラインからなら、まだ何とかなるかもしれない。だけれどオールコートはもう無理だろう。ディフェンスもオフェンスもうまくはできないと思う」
 当然だ。そうでなければ、毎日毎日あれだけ必死で練習していた意味がない。
「あれだけ必死で練習して、やっとできるようになって、おまえとの絆の証のように思っていて誇らしかった連携も、もうできない」
 その時間は今でも大事だ。未だに色あせない。
 だけれど、過去の物。もう通り過ぎ去ったもので。
「オレは光らなくなったが、……それでも、傍にいてほしい」
 この人だけは。……このひとだけは変わらないでほしいと、切に願ってしまった。祈ってしまった。叶ってほしいと、思った。
「構わないか」
 彼は。
 夕焼けと同じ色の瞳を輝かせて、それはそれは嬉しそうに、

「――――喜んで」

 とびっきりの笑顔を、自分に見せてくれた。
 夕日を背負っているせいか、それが緑間には、妙に眩しく見えた。
「じゃー今日は前祝いでケーキ一ホールにしようぜー、映画見ながら半分ずつ。スプーンで掘ってまるまる食うの一回やってみたかったんだよ」
「却下。胸やけしそうだ」
「おまえ甘いもん好きじゃねーのかよ」
「好きだが度を越した食べ方は好きじゃない」
「あ、そういえば、おまえがうちの妹ちゃんに最初は愛想良くしてた理由、まだ聞いてなかったよな。あれなんで?」
「よく覚えてるな」
「いいから答えろよー」
 ふと、正面の店の先に、短冊や飾りが吊るされた、大きな笹が設置されているのを見つけた。黒いマジックで諸々の願いを綴った折り紙が、風で時折ひらひらと揺れる。
 そういえば七月七日は七夕だ。願いが叶う日。年に一度、織姫と彦星が再会できる日。
「おまえの家族だろう、長い付き合いになるかもしれないから、第一印象はとりあえず良くしておこうと思っただけだ。肩が凝って仕方がなかった」
「ぎゃっははははは! ああ、まあでもいいじゃん、それ無駄にならなかったんだから」
 ――べたべたしすぎて一緒にいたらダメになるから離れようなんて、まるで自分達みたいだなんてのは詩的すぎるか。
 なんて思いながら、笹の下を素通りした。
「高尾、今日は泊まっていけ」
「えーどうしよっかなー、服ねぇし」
「シャツも下着も、おまえが前に置いていったものがあるぞ」
「真ちゃん、もう一押し」
「……………………今夜は一緒にいたい、から、……」
「四十点。まーいっか、じゃあ今日は泊まる」
 からから声を挙げる影を見て、こいついつか張り倒す、好きだろうと殴ると、内心で決意した。
「……全く」
 眼鏡を押し上げる。レンズが少しだけずり上がる。
「いくつになってもバカ丸出し、なのだよ」
 瞬間、高尾が勢いよくこちらを向いた。
「真ちゃん今なのだよって言った?」
「は?」
「いや、大学行ったら言わなくなってたから、てっきりもう封印したもんだと……」
 そういうつもりはなかったのだが、どうだろう。そう指摘されてみれば言わなくなったような気もする。
「懐かしいなー、真ちゃんもっかい!」
「……嫌だ」
「アンコール! アンコール!」
「しつこい。言わないと言ったら言わない」
「言わないのだよ、だろー」
「……っ」
 引っかけてきた、緑間のクロックスの爪先が飛んだ。
 風切り音をたてて、高尾の脛に、見事吸い込まれた。
 ぼす。
 ――なんだかどこかで覚えがある、懐かしい光景だった。
 そして高尾は、電線で切り取られた町の中で、大袈裟に声を荒げて叫ぶのだ。
「急所はやめろ急所は!」

 この後帰ったら、毎年のように配達ピザを食べて、ホールケーキをスプーンで掘りながら映画を見て、風呂に入って、こいつを抱き枕にしてベッドに入ろう。アウトとかセーフとか考えるまでもなく全年齢な夜を過ごしてやろう。狭いし暑いだろうがまあ、今日くらいは我慢だ。高尾は知らん。据え膳に拒否権はない。
 その後はどうしよう。
 ……いや、そんなに焦らなくてもいいか。前と違って、時間はたっぷりある。そのうち決めればいい。
 だから、では。まず手始めに、目標のケーキ屋まで二人でゆっくりと、



/スターダスト、ならんで歩く。
緑間誕2013