※緑間と高尾は二年生です






 開け放された廊下の窓からは温かな光が差し込み、時折桜の花びらが風に乗ってひらひらと入ってきては、床に小さな足跡を残していた。
 四月に入ったばかりで愛想よく、イメージを良くしておこうと思っているのか、すれ違った同じ部の一年生が元気よく挨拶してくる。こちらも連れの分まで明るくおう、ちっす、なんて返事をして――それから朝仕込んでいた悪戯を思いついて、健気な後輩をスルーする仏頂面を指でちょいちょいとさした。
「あ、……えーと。真ちゃん先輩、こんにちは」
 ばさばさばさ、と教科書が床に雪崩を打った。
「アホかおまえ! 本気でやる奴があるか!」
「え!? でも高尾先輩がやれって……」
 今もジェスチャー送ってきてたし、という一言で緑間が後ろを向いた。視界には多分、口に手を当て、笑い声を必死で殺している自分が映っていることだろう。本当にこいつはからかい甲斐がある。
「……おい、高尾」
「ぶ……ふ……もうげんか……っはははははは!」
 そのまま床を転がり回りそうな勢いで、腹を抱えて高尾が笑う。後輩達は「すいませんこいつ天然で……」と申し訳なさそうにしているが、謝るところはそこではないような。
 緑間の背後からふつふつと怒気が立ち上ってくる。それを察した高尾はすぐに涙を拭った。
 三十六計、逃げるに如かず。
「待て高尾ぉぉお!」
「ぶわっはっはっは! 真ちゃん先輩怒った!ー」
「ちょっ……緑間先輩教科書! 落としてますよー!」
 季節は春。この校舎で過ごした時間は実に一年、年齢も学年も一つ繰り上がった。
 しかし授業開始数分前にも関わらず、男子高校生たちは大きな足音をたてながら全力で追いかけっこを始めている。その内面はまだまだ、この高校の中で成長する途中なのだろう。

 しかし変わったこともある。
 教室、教科書、校舎にいる生徒の顔ぶれ、部活のレギュラーメンバー。
 わざわざ動かして二つくっつけていた食卓が、一つになったこと。
「デザートいただきっ」
「意地汚いのだよ」
 弁当箱に伸ばした箸が、相手の箸に遮られる。双方キレのいい動きと力強さと気迫だった。一瞬ながら生まれたのはさながらチャンバラのそれである。
 ……いや、高尾が緑間の弁当のエビフライ(ちなみに緑間母お手製、おかずヒエラルキー最頂点をゆく代物である)を掠め取ろうとしただけなのだが。
「ちぇー。けちんぼ」
 高尾が軽く唇を尖らせると、緑間は呆れたように顔をしかめた。早速狙われたものを摘みに掛かる。
「人の物を勝手に食うなと何度言えばわかる」
「年頃の男は栄養が必要なんだよー」
「オレもその年頃の男なのだが」
「ていうか真ちゃん、すっかり弁当のディフェンスもうまくなっちゃってオレ寂しいわ」
「そう何度もやられたらどんなバカでも覚えるのだよ」
 一年の夏頃までは百発百中だったのに。
 速弁のせいで一足先に空になった弁当箱の蓋を閉じ、包みを括る。椅子の背もたれに体を預ける。
 窓際の席はよく日が当たる。ほんわりと甘い春の空気の匂いと共に、眠気と倦怠感を誘ってくる。白いカーテン。緑間は行儀がいいので、物を食べている途中は自発的に喋らない。なので話を振る高尾が黙ると、必然的に場は沈黙で満たされる。
 ――……あー。
 しばらくぼんやりしていたら、お腹いっぱいになったせいか、意識がうつら、と温かさに溶けそうになった。
 ――……やべ、ねむ……。
 慌てて復帰するがまた視界がぼやけて、こくりと首が明後日の方向に振れる。瞼が重いし頭も回らない。
 この誘惑はやばい。さすが三大欲求はすげえぜ……悪魔、いや……魔王級の強さだ……あ、でも別に……昼休みだし……むしろ……寝てても……いい……い……
 ぽん、と。
 頭に何か置かれた。
 なんだか温かくて大きい。棒みたいな形状のものが、前髪の辺りをぎこちなく掻き回す。掻き分けて地肌に触れてくる。
 ――……なんだろ。
 よくわからないけど。
 ――なんか、きもちいい、かも……
 しかし瞬間、チャイムの音が鳴り響いて。
 同時にぶん、バシッといい音がして、額のど真ん中に鋭い痛みが走った。
「いっ……てぇえ!」
 一気に目が覚めて、額を手で覆って悶絶する。
 正面には左手をぱたぱた振っている緑間の姿。
「……我ながらいい指のしなり具合だったのだよ、中身が空っぽなせいもあって実にいい音がした」
「おまえの仕業か緑間ぁ!」
 どうやら緑間懇親のデコピンを食らわされたらしい。
「ほら予鈴は鳴ったぞ、とっととホームルームの準備をするのだよ」
「何もデコピンすることねぇだろ!」
「半目で不細工な寝顔を晒していたので、見るに耐えかねて起こしてやったのだろうが」
 そこで手をどけて、高尾は緑間を拗ね半分、睨み半分の視線で射抜いた。
――その不細工が好きなのはどこの誰よ。
 そう言ってやりたくなったが、再考して、その後非常に気恥ずかしくなった。大人しく弁当の包みを持って席に戻る。顔が赤くなっていたとしても後ろの席の緑間には見えるまい。奴はすごい選手ではあるが、自分のように目に纏わる特殊スキルを持っているわけではないのだった。

 さて、高尾と緑間がなんとなくながらそういう間柄になったのは、冬休み明けの始業式からであった。
 ウィンターカップも終わり部活の練習はしばし休み、顔を合わせるのは久しぶりだった。式が終わった帰り道、緑間に相談を持ちかけられたのだ。
「要するに、冬休みになったら顔を見なくなって? 部屋でピアノ弾いてても本読んでてもその子が何をしているのか無性に気になってしまうと。ていうか上品なシュミしてんね真ちゃん」
「そうなのだよ」
「で、声が聴きたくなって携帯のアドレスを呼び出してみるも、どうにも癪だし堅物の真ちゃんは照れくさくてそんなこと死んでもできない、いややるくらいならむしろ恥ずか死ぬと、そういう勢いだと」
「脚色が混じっているが概ねその通りなのだよ」
 神妙な顔を作って、高いところにある肩をぽんと叩いた。
 心の中でハードボイルドな笑顔を作ってサムズアップする。グッバイオレの儚い恋心よ地獄で会おうぜベイビー!
「真ちゃん。そりゃ、恋煩いなのだよ」
「……やはりそうか……」
 緑間が観念したように呟く。可笑しくて、声を挙げて笑った。
「ははは、鈍ちんこの上ない真ちゃんにもとうとう春が来たってか! いいことじゃねーの!」
 敢えて無遠慮に、背中をバシバシと叩いてみせる。親友として相棒として、吐くのは泣きごとでは決してない。ヘコむのは緑間がいない家に帰ってからでも遅くはない。だから笑え、どうせ墓場まで持っていこうと思っていたことではないか、むしろこいつ思春期来てんの?前遊びに行ったときこっそりエロ本探したらどこにもなかったんだけどまさか持ってないってことないよな?と同じ男としてちょっと心配すら覚えていた緑間に好きな女子などという浮いた話題ができたのだから喜んでやるべきところだろう。クールになれいや笑え、常の自分を装え高尾和成! そんな自己暗示を掛けて、必死で腹の中から競り上がってくるものを飲み下す。
 ……自分が叶わない恋だと理解していて、傷は浅くて、こんなときでも自分より緑間のことを思える人間で、本当に良かった。
「……応援するよ」
 ほら、こんな言葉も、本心から言える。
 いつになくシリアスな顔を作ってしまっていたことにようやく気付いて、口角をぐいと引き上げた。
「で、コクるの? もうちょい様子見? それともアタック? 無理にとは言わねぇけど付き合うことになったら教えろよなー、祝いにラーメンくらいなら奢ってやっから」
 しかしこんなにも自分は頑張っているというのに、
「……いや、困る。恋煩いでは困るのだよ」
 こんなときに限って、緑間はヘタレみたいなことを言い出した。
「え? なんで? ……相手が結婚してるとか?」
 確か緑間は年上がタイプとか昔ほざいていたような。
「人妻?」
「何故そこまで話が飛躍するのだよ! ……だが既婚よりなお悪い……」
 珍しい、緑間がテンパっている。口元を手で覆って、何やら思考をぐるぐる回している様子だ。目も縁日の金魚さながら泳ぎまくっている。
 ――既婚よりヤバいってどんな奴好きになったんだよこいつは。
「……あのさ、無理にとは言わねぇけど、そんなに障害ありそうならオレに話してみ?」
 七割の心配と三割の興味が口からこぼれ出た。
 ゆるゆると顔を覗き込めば、緑間は手を離して高尾の方をちらと一瞥し、消え入りそうな声で言った。
「………………………………………………………………お、まえのことだから……」
 目が点になった。
「…………は?」
「……だから、……っ、二度も言わせるな!」
 ふいと緑間がそっぽを向く。その頬はほんわりと赤く染まっている。このマイペースを擬人化したような男が赤面する光景など、高尾は今まで見たことがなかったが、緑間は肌が白いのでよく目立つのだろう。
「…………え、ちょ、マジで?」
 正直な感想は。
 嬉しい、より、驚いた、より、拍子抜け、より、
「おま……はあ!? オレがどんな気持ちで今まで隠してきたと思ってんの!?」
 卑怯だ、だった。
「……は?」
 高尾の叫びを聞いた緑間も間抜けな顔をしたが、すぐ意味を理解したらしく「あ!?」と声を挙げ返し、
「待っ……いつ! いつからなのだよ!」
 と尋ねてきた。
 なので再びヤケクソ気味に答えてやる。
「文化祭でメイド喫茶やらされたとき、真ちゃんすぐ着替えに行ってていなかったけど! オレぁ先輩たちに引っ張られて、メイド服のまま女子列並んでフォークダンス踊ってたんだよ! もーヤケクソで夜中のテンションみたいになってるときに、あーどうせなら真ちゃんと踊りたかったなって思って、そっからずるずる気付いたってか……」
「……文化祭か……」
 緑間は急に遠い目をした。
 去年の文化祭、バスケ部主催のメイド喫茶。
 日頃の厳しい練習で鍛えられた部員たちの体は、手芸部お手製の可愛らしいフリル付きエプロンドレスで包まれた。
 「いらっしゃいませご主人様〜お嬢様〜」と野太い声で客を迎える教室の中は、これはひどいとしか言えない状態だった。高尾は暫し爆笑が止まらず、緑間はなんだこれは新手の地獄絵図かとげんなりしたのを今でも覚えている。
 レギュラーであれど一年生だった高尾と緑間も、「これパスしたら三年間全部の我儘没収だぞ」と脅され、勿論女装させられた。高尾の方はセミロングの黒髪ストレートのカツラを被り、カラフルなペンやシールで飾られた「カズミ」という名札を付けて戸口でお出迎え。緑間はウェーブの掛かったロングヘアに同じような「マコ」という名札を付け、でっかい看板を持って、にこりともせずに客引きをやっていた。
「……先輩に羽交い絞めにされて、体の毛剃られたときは死ぬかと思ったよな」
「ああ……まさかあそこまで本気だとは思わなかったのだよ……」
 最初は必死で現実から目を背け、笑って催し物を続けていたが、昼休憩に入る頃には完全に賢者モードに移行していた。三年生で刑を免れた宮地・木村の爆笑と携帯カメラの嵐をかいくぐった後――喫茶店で売っていたものを大坪に渡され、部室に移動しヅラを外し大股開きで「真ちゃんオレら……何やってんだろ……」「……言うな」と一緒に食べた焼きそばはどことなくしょっぱかった。あの味はきっと一生忘れない。
「……待て、文化祭だったらそんなに前の話じゃないだろう」
「三か月だぜ!? 前だわ!」
 なんだかもう、テニスのラリーのような会話だった。
 その言葉を最後に、二人とも完全に沈黙した。
 緑間は言葉が出ないらしく、テーピングを巻いた指で髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。この育ちの良さそうな同級生はそんな乱暴な動作も滅多にやらないが、高尾の方はそれを認識する余裕がない。予想外の現実を次から次へ突きつけられて、恥ずかしさやらを飲み込むので精いっぱいだ。
 しかしやがて。
「――いちにちだけ」
 緑間がこちらに掌を突き出してくる。どこからどう見ても待った、だった。そこで顔を見て、ようやくああこいつもやっぱ人間だな、と高尾は思った。
 焦っている。いつも澄ました顔で、へんてこなラッキーアイテムなんか抱えて、誰にでも物おじせず好き勝手なことを言う傍若無人キャラのくせに。
「いろいろ考えさせろ」
 懇願のくせに命令形だった。
 しかし高尾はイエス、としか言えなかった。
 そして次の日、緑間は「おまえとは付き合えない」と言ってきた。
「――まあ、とは言ったものの、オレはそもそも『付き合う』という概念がよくわからないのだよ」
「と言いますと?」
「そもそもオレとおまえが『付き合う』ことになったとして、どうなるんだ。何か変わるのか」
「……多分変わらないんじゃね?」
「なら別に、明確な型に嵌めてしまわなくても構わないだろう。それに自分達のせいで部の空気を変な風にしたくない。既成事実などいっそない方がいいのだよ」
「それは同感、オレだって自分の色恋より部の方が大事だし。ていうか真ちゃん空気とか気にしてたんだな」
「さすがに同性でカップルになったらまずいことくらいオレにもわかるのだよ。……ただし、まあ、」
「?」
「自覚した以上、きっとオレは、これからおまえをそういう対象として見るぞ」
「そういう?」
「せ…………………………………………性的な……?」
「……あー……」
「勿論おまえが男だということは承知している。女扱いしてやる気は毛頭ない。だけど、そういう風に接するし、そういう風に触る」
「…………」
「……それだけ承知しろ」
「…………あ。はい。わかりました」
「わかればよろしい、なのだよ」
「……ん……」
「…………」
 今思い返せばなんと間抜けな馴れ初めだろう、と笑うしかない。

 しかし言葉の通り九割は今まで通りの態度であり、無論バスケでお互いを甘やかすなどあるわけもなく、
「高尾! タイミングがズレた、もう一回!」
「わり! 次行くぞ!」
 部での全体練習が終わった後も、居残って連携の調整をする。
 少し失敗しただけでも鋭い叱咤が飛んでくる。だがそれが高尾には心地いい。きつい走り込みの後で足がだるくても疲れていても、汗だくでも、その声さえあればまだ動ける。冷たい水を浴びせられるような感じだ。爽快感とやる気が得られる。
 自分がどんぴしゃの位置とタイミングでパスを決めて、相手がネットにボールを叩きこんだときは、そりゃあもう最高の気分で。
「――――っ」
 ざ、どん、どん、とんとん、とバスケットボールが床に落ちて、明後日の方向に跳ねていく様を見ては、浮かれてしまう。
 新しいボールをストッカーに取りに席を外し、戻ってくると、緑間の姿が消えていた。辺りを見回してみると、見慣れた長身は反対側のゴールポストの前にいて、自分より数段小さい下級生と話をしていた。というか、険しい顔で説教をしていた。
「……真ちゃんまーたあいつに構ってら」
 ボールをバウンドさせて、一人ごちる。四月からちょくちょく見る光景だ。後輩は完全にびびっている様子だが、緑間は気にも留めない。
 そんな様子を、ボールを人差し指一本で支えて回して、ぼんやり見ていた高尾だが、
「よっ」
 と不意打ちで肩を叩かれて、思わず飛び跳ねそうになるほど驚いた。
「うわびっくりしたあ!」
「なんだよ、おまえホークアイで後ろ見えるじゃん」
「ぼーっとしてるときもありますって! 四六時中三百六十度見えてるわけじゃないっす!」
 振り返ると、新年度でめでたくキャプテンに就任した三年の先輩が、悪い悪いと片手を立てて謝ってくる。
「驚かせるつもりはなかったんだって。ちょっと礼言いたくて」
「礼?」
「オレの後輩が練習厳しいし緑間にきっついこと言われた、もうやめたいって相談してきてたんだけどよ、おまえが声掛けてくれたおかげで持ち直したんだわ」
「あー……」
 それなら心当たりがないこともない。練習が終わった後呼び出して、ぬるくなったスポドリをちびちびやりながらこっぱずかしいことを話した。だが。
 ――キャプテンの後輩ならでしゃばらなきゃよかった。
「……恥ずかしーことバレちゃいましたね」
 思わず照れ笑いが漏れる。新キャプテンもははは、と笑った。
「しっかしおまえもよくやるよな、そんな面倒」
「自分でも物好きだなーとは思ってます」
「ほどほどにしとけよー?」
 それから彼は、ゴールポストの下で後輩を指導する緑間に目を止める。
 緑間はまっすぐ後輩の方を見ていて、こちらの様子には気付かない。両腕を上げて大袈裟に動かしていて、どうやらフォームを修正しているらしい。その顔はいつもの通りくそ真面目だ。一年坊主は一生懸命、その動きをトレースしている。
「で、真ちゃん先輩は後輩指導か」
「ぶっ……その呼び方やめたげてくださいって」
 昼の騒動は瞬く間にバスケ部員に広がり、同級生はおろか三年生まで「真ちゃん先輩」と呼んで、緑間を煽りまくっている。おかげで本人は今大層機嫌が悪い。
 だが先輩は、その後で眼差しを僅かに柔らかくし、
「――でも緑間さ、変わったよな。あんな風に誰かに物教えるようなキャラじゃなかったろ」
 しみじみとした声を唇から漏らした。
 少し置いて、回るボールを外して手元に移動させて、そっすね、と返事をした。
「昔は、自分一人強ければいい、周りはボールさえ回してくれればそれでいいって、本気で思ってたと思います」
 思い出す。
 去年の今頃。誠凛に負ける前の、キセキの世代から脱出できていなかった、スポーツ漫画でよく謳われるワンフォアオールのスラングなんて鼻で笑い飛ばしていただろう緑間真太郎。
 前なら、他人の面倒を見る暇があったら一人で淡々と、黙々とシュートの練習をしていた。そんな後ろ姿を、高尾は何度も見てきた。
 誰かに物を教えるということは、その相手に期待しているということだ。相手ならできると信じている、ということだ。
「……きっと、きっかけをくれたのは誠凛のあいつらで。動かしてくれたのは、大坪さんや宮地さんや、木村さんなんでしょうね」
 一人強いだけでは勝てないと知った。一歩、いや半歩だけ、こちらに歩み寄ってきた。そうしたら、視界が開けた。
 先輩たちは厳しくて一生懸命で頼もしくて。そんな選手たちで構成されたチームの中でプレイして、点を取ってみんなで喜びあって勝つのは、こんなにも楽しくて嬉しいことなのだということを、知った。
「今は自分だけじゃなくて、秀徳全体が強くなるように動いてる。もしかしたら本人無意識かもしれねぇけど、オレらのこと、信じてくれてると思いますよ」
 高尾はそう言ってから、口元に苦笑いを浮かべた。
「――でもあいつ、嫌われるリスク無視してズバズバ物言いますから。今まで他人を顧みたことねーから、気遣ったり言って良い範囲見極めんのもすっげえ下手で――何より、基本的に言葉が足りねぇんすよね。タッパあるし表情コワイから、後輩からしたら余計きつく見えるし。
 せっかく、ようやく真ちゃんが歩み寄ってきたのに、そんなんで後輩ちゃんたちとすれ違っちゃったら勿体ねぇなあって、つい思っちゃって。それが、オレがちょいちょい緑間のフォローに回ってる理由っすね」
 明らかに間違えているものを見つけてしまうと、そうじゃないと訂正したくなるだけ。完全に自己満足だ。
 キャプテンは目を丸くしてこちらを見ている。ああきっと呆れたとか言われるんだろうなと思ったら、
「……おまえほんと緑間好きだな」
 少し斜め上の、予想内の言葉を掛けられた。
 ははは、と力無く笑ってごまかしておいた。
「まあ、口べたな真ちゃんの翻訳機ってか……真ちゃんが口にできなかったものを形にしてやるのもオレの仕事かなー、とは思ってるかもっすねえ……」
「確かに、おまえいないと緑間がとっつきづらい、何考えてるかわからん奴ではあるけどもだな……ていうかその『動かしてくれた』メンツにどうしておまえ入ってねぇんだよ」
「え? いや、オレは除外でしょー」
 掌をひらひら振って答える。
「真ちゃんにも相棒って認めてもらってねぇし。ていうかオレが現状に満足してねぇから認められたら逆に困るし! オレなんかまだまだっすよ、まだまだ」
「……いやちょっと待て高尾、緑間がオレら信用してるとしたらだな?」
「っておわ!?」
 と、その瞬間、高尾が勢いよく両腕を上げ、ボールを間一髪のところでキャッチした。
 天高く舞い上がっていたバスケットボールが、突如隕石のような勢いで降下してきたのだ。
 犯人、というかこんなことができるのは、二人の後ろにいた天才スリーポイントシューターくらいしかいない。
 高尾が振り向く。
「おい、脳天直撃コースでボール放んじゃねぇよ! てかさっきも言ったけどオレが四六時中三百六十度見えてると思ったら大間違いだかんな!?」
「練習をサボってくっちゃべっているおまえが悪いのだよ! さっさとパスをよこせ!」
「真ちゃんの横暴野郎! ムッツリメガネ!」
「何だと!?」
「ということですんません、オレ練習行ってきます……」
「あ、おい!」
 高尾は向き直り、小さく頭を下げた後、緑間と言い合いを続けながらそちらの方に走って行ってしまう。
 それを話し相手は唖然とした様子で見て。『緑間が秀徳の人間を信頼しているとしたら』、一番は間違いなく高尾だろうという続きの言葉を、どうしたらいいものか迷って、
「――あー、もしかして……」
 まだまだ頑張るし今よりもっと伸びてみせる、なんて高尾が言い張るから、緑間はあれを認めづらくなっているのではないかと。
 思って、息が合っているように見えてたまに滑りが悪くなる自分の後輩たちを見て――どうしたものかと頭を悩ませた。

「あー、今日もつっかれたー……」
 いつもの通り制限時間いっぱいまで練習をして外に出れば、もう辺りは薄暗くなっている。日が長くなった、なんて季節の移り変わりを感じる暇もない。
 着替えた後で鍵を返し、靴を穿きかえて外に出る。
 と、校門の前の電灯の下に、男子生徒が一人入り込んだ。
 あ、と高尾が思ったときには、相方の方が先に動き出していて、
「今井――!」
 肩を小さく跳ねさせて、後輩がこちらを振り向いた。
「利き手で鞄を持つな――!」
「すいません――!」
 その応酬を聞いていた高尾が、耐え切れず思いきり吹きだした。
「や、野球部じゃねーんだから、そんなに気ィ使わなくてもよくね……?」
 高尾だってポケットに両手を突っ込んで、右腕に鞄を掛けているくらいだ。
 しかしトイレに行くときに面倒だろうに、毎朝毎朝利き手の指にテーピングを巻いているような男である。それくらいの用心はするのかもしれない。
 緑間は非常に真面目な顔で眼鏡を押し上げる。
「腕を大切にしようという意識が大事なのだよ。これくらいが丁度いい」
「だからさあ、そういうのちゃんと説明してやんないとわかんないんだってば……」
 一しきり笑い涙を拭ったところで、
「真ちゃん多分あれだな。将来波平さんみたいなお父さんになるな」
「波平さんって誰なのだよ」
「ほら、サザエさんの」
 一瞬緑間が固まった。
「……それはおまえ」
「ん?」
「将来ハゲそうとかそういう……」
 そこでまたツボった。
「ぎゃはははははは! だいじょぶだいじょぶそういう意味じゃねぇから! 真ちゃんの髪質なら平気じゃね多分」
 緑間は少しむくれた顔をしたが、何も反論しなかった。高尾だけ一人、まだ笑いが止まらず声を漏らし続けている。
「……しかしサザエさんなんて何年も見ていないな」
「はー……ああ、オレ、妹が見てたからな。誰が次回予告のアナウンスするか予想して、じゃんけんやって、サザエさんが手振るの見て、もう日曜終わっちまうんだなあと寂しさに浸るわけよ」
「へえ……」
「オレいっつもじゃんけん負けるんだよなー。真ちゃんなら勝ちそうだけど。毎朝ああだし何気に超運強いしさ。あ、そだ、今めざましで毎日じゃんけんやって、一番勝ち星の多かった人にハワイ旅行プレゼントする企画やってんの! 真ちゃんやったら当たるんじゃね!?」
「やらない」
「なんで!」
「おは朝と同時刻だろう? オレは占いを見なければならないのだよ」
「その時間だけめざましに変えりゃいいじゃん!」
「第一当たったところでどうするのだよ、練習もあるのに」
「たまにゃー息抜きも必要だぜ? 家族で行ってこいよ家族で。……あ、でもペアチケットだったか、あれ」
「おまえが行くならやってもいいが」
「マジで!? 行く行く! 海外とか行ったことねぇ!」
「……そうか」
「……え、なんで今テンション下げた?」
「別に下げてないのだよ」
「あ、そう……」
 それで緑間が黙ってしまい、会話が途切れた。
 まだ少し冷たさを乗せて、ふわり、と風が顔を撫でた。
 校門を出て曲がって少し歩けば、桜並木が広がっている。今見頃の桃色が微かに揺れて、雪のような小さな花びらを通学路に降らせている。さらさらと小さな音が聞こえてくる。
 ぼんやりと見上げてみた。
 怪しげというより儚げな印象を受けた。
 淡い色をしているせいか、夜の闇の中では僅かに浮いて見える。
 ――きれいだなあ。
「おい、高尾」
「へ?」
「ポケットから手を出せ。転んだとき危ないのだよ」
 そういえば両手とも突っ込んだままだった。
 ――何気によく見てんなこいつ。
「だーいじょうぶだよ、ちっさい子じゃねぇんだから」
 へらりと笑った。
 しかし緑間は仏頂面を崩さない。
「そーいえば妹ちゃん、昔はよく全力でダッシュして、全力で地球にダイブして、膝やら手やら擦りむいて泣いてたなー。なんでちびっこっていっつもあんな全力なんだろうな」
「……ああ……うちの妹も、小さいときはそうだったな」
「……てか、オレ的に真ちゃんに妹いるってのがまだ信じらんないんだけど……けどこの目で見ちゃったもんなぁ……」
 先ほどから実に中身のない話しかしていない。
 でも、楽しい。
 一つ一つは短いし愛想はないが、緑間は根気よく返事をしてくれる。
 桜の花がひらひら舞う。だがまだ夜は少し肌寒くて、いつものリヤカーは学校の自転車置き場でスリープモードの真っ最中だ。
 なので、いつも家まで送っていくのが、今日は途中で別れることになる。
「じゃーまた明日!」
 大きく手を振ると、向こうも小さいながら振り返してくれる。
 それを見てオレほんと安いよなー、と思いながら、口元に滲み出る嬉しさを隠せないでいるのだった。

 風呂に入り、レンジでチンで温めた夕飯をつつきながら携帯をチェックすると、大坪からメールが入っていた。内容は部の様子はどうか、インターハイ予選は大丈夫そうか、緑間は後輩や新レギュラー陣とうまくやっているか、おまえも体調管理には気を付けろよ、とそんな感じ。
 昨日は宮地、一昨日は木村からも、そっくり同じことを言われている。
 ――愛されてんなオレら。
 温かい気持ちでかちかちと返事を打ちながら、ふと、冬休みの始業式のことを思い出した。
 『声が聴きたくなって携帯のアドレスを呼び出してみるも、どうにも癪だし照れくさくてそんなこと死んでもできない』。
 ――ていうかその相手、今思うとオレだったってことだよなあ。
 想像してみる。
 部屋着で胡坐を掻いて腕組みして、携帯を前に険しい顔をしている緑間真太郎。
「ぶ……」
 ニヤけと可笑しさが入り混じった笑みが零れる。
 テレビを見ていた母親がこちらを向いて、訝しげな目で高尾を見てくる。
「何ニヤニヤしてんの?」
「んー、思い出し笑い?」
「あらスケベ」
 その一言で手が止まった。
「……いや、男なんて皆スケベなんだって。なんだけど触れねぇんだって……」
「てかあんた、彼女でもできたの?」
「できねぇよ、部活でんな暇ねーよ……」
 母親は訳がわからない、と言いたげに肩を竦めて、再びドラマの方に集中を戻した。

 そう、始業式の一件から、高尾は以前より気軽に緑間に触れなくなった。
 よく腕を組んだり叩いたり肩を揉んだり、試合のたびにハイタッチを求めたり抱きついたりしていたと思うのだが、最近では一切やっていない。
 反射的に手が出ることもあるが、触れる一瞬前にはたと両想いだということを思い出して、気恥ずかしかったり周囲にバレたら困るよなあと考えてしまって――人間に見つかったネズミのごとく穴倉に戻ってしまう。
 衝動より自制の方が勝ってしまう。
 こんなでは、自分に相談してきたときの緑間と同じではないか。
 ――笑って悪かった真ちゃん、今ならおまえの気持ちわかるわ……
 なんて、別れてきた同級生に思いを馳せる。
 らしくないとは思うが、実際、体はそういう風に動いてしまう。
 ――触りたくないってことはねーんだけど。
 むしろ触りたい。せめて手とか繋いでみたい。
 それが下心あっての行為でも、相手に許してもらえる環境ができてしまったのだから尚更だ。
 ――でもできねーのよなあ、これが。
 呼吸に似ている。普段は自然にできているのに、意識してしまったら最後、やりにくくて仕方がなくなる。
「真ちゃんは、態度全然変わんねーよなー……」
 告白する前も告白した後も。思いっきりポーカーフェイスで毒舌である。普段の姿を見るに、元々話しているだけで満足なタイプなのかもしれないとも思うし。
「はあ……」
 溜め息を吐いた後で、いかんいかんオレは乙女か、とますます恥ずかしくなった。

 翌朝。
 携帯の電源を入れると、着信が一件入っていた。
 緑間からだった。
 驚きのあまり眠気が吹っ飛んだ。そして飛び起きた。
 電話しようかと思ったが朝の忙しい時間だ、やめておいた方がいいと結論を出して、最高スピードで制服に着替えて、準備をして家を飛び出す。
 半分走って学校へ向かうと、丁度桜並木のところを、見慣れたでかいのが歩いていた。桃色に届きそうな、緑みの掛かった髪が揺れている。
「おーい真ちゃん!」
「高尾」
「昨日電話した!?」
 振り向いた緑間は目を瞬かせる。
「わり! 寝てた!」
「……ああ、遅かったしそうだと思ったのだよ。まあ別に大した用事じゃない」
「マジで!? うわー惜しいことしたー!」
「おまえオレの話を聞いていたか?」
 大した用事じゃない、と言ったんだが、とぼやかれ、今度は高尾が目をぱちくりさせる。
「大した用事もないのに電話してきてくれたんだろ?」
 しかも多分、部屋着で胡坐を掻いて腕組みして、携帯を前に険しい顔をして。
 ひひひ、と声を挙げて笑ってやった。
「さんきゅ、嬉しい」
 緑間は何も言わないし、表情も変えない。ただ眼鏡を押し上げて、再び足を踏み出すだけだ。
 しかし。
 ――うむ、照れてるな。
 一年も見ていればなんとなくわかる。
「てか真ちゃん、肩に桜付いてんよ?」
 散ったものが学ランにちらほらと。
 笑って手を伸ばす。が。
「………………………………………………………………あ」
 指先が硬直した。
「……………えーと」
 人差し指を数回、ぎこちなく曲げ伸ばししてから。
「……そ、そこ、そこ」
「物凄いアバウトな説明なのだよ!?」
 緑間の肩をその指でさした。
 いっそのこと自分の肩で実演した方が正確だと高尾本人も思う。
 またやってしまった。
 ――いやだって……なあ。
 全く、なんて呆れたように言いながら、緑間は自分で肩を叩いた。小さな花びらが落とされて、雪のようにはらはらと宙を舞う。
「…………」
 なんとなく気まずい。
 唇を結んで俯いていたら、相手が僅かに動く気配がした。それにも敏感に反応してしまって、思わず体を強張らせる。
 朝の爽やかさ、春の空気、どこからともなく漂う何かの花の甘い匂い、温かい日差し、桜の下。
 そんな少女漫画で使い古されていそうないい感じのシチュエーションは、
「あ、先輩方ー、おはよーございまーす」
 しゃー、と軽快に走ってきた自転車と、通りすがりの後輩に瞬く間にぶち壊しにされるのであった。

 朝練疲れは、座って体が休まったときにやってくる。
 特に昼、腹が膨れた後は最高にしんどい。なので昼休みは大抵、高尾は寝ている。
 机に突っ伏して目を閉じると、どこからかピアノの音が聞こえてくる。多分音楽室だ。緑間が弾いているのだろう。
「何の曲かわかんねーけーどなー……」
 呟きながら、それを子守唄代わりに自分は寝る。
 そして大抵緑間の声で目が、
「――――高尾」
 あーほら今日も呼んで――
「起きるのだよ、高尾」
「…………ちゃいむ……鳴るまで……」
「もうというかあと一分で鳴るのだよ」
「じゃああと一分……」
「…………」
 間。
 ようやく大人しくなった目覚ましを放置して、もそりと身動きする。
 と。
 耳の上の辺りに、何かが軽く圧し掛かった。
 髪を柔らかく掻き回す。慣れていないのかものすごく弱い力で、そろそろと不器用に撫でられる。かさついたテープの感触。温かい。
「……寝ていたら触れるのにな」
 小さな声が耳をくすぐった。
 しかしその意味を理解するための高尾の思考回路は、完全に停止していた。
「……ん……」
 ただなんとなく、ぼんやりと、気持ちいい、と思うくらいだ。
 微かに捩って、頭を掌に摺り寄せる。
 笑う気配。
「……猫は嫌いだが」
 少し子猫っぽいな。
 指先で髪を弄んで、耳のへりに掛けられる。露わになったそれが外気に晒されて、少しだけすーすーする。
 いきなり、チャイムの音が鳴り響いた。
 同時に滑らかだった手の動きが強張って、離れた瞬間 ぶん、バシッといい音がした。
 額のど真ん中に痺れが走る。
「まっ……たかよ……!」
 意識が覚醒する。顔を上げ、額を手で覆って痛みに震えていたら、棒立ちでこちらを見下ろしている緑間の姿が目に留まる。激しくデジャヴ。
「……あのさあ、ほんと、毎度こんなやり方で起こさなくてもよくねえ……?」
「ていうかおまえは何故毎度オレの席で寝るのだよ。邪魔だ、予鈴が鳴ったらさっさと退け」
「だって真ちゃんの席、日当たりいいんだもんよー……」
 緑間真太郎は身長百九十六センチ、間違えようもなく長身に入る部類である。それはバスケットボールでは有利に働くが、日常生活だといろいろ支障を生む。
 例えば、授業を受ける時の席。前に座ると、他の生徒は完全に黒板が見えなくなってしまう。よって彼は席替え前に、後ろ二列のどこかなら好きに指名できる権利を貰っていた。基本的に緑間が選ぶのは窓際の一番後ろであり、高尾は昼休みに空いたその席を有効活用している、というだけの話だ。
 ……身長差のせいか机や椅子が自分のものより高くて、たまにへこむが。
 ついでに言うと、涎を垂らしたり落書きをしたりするとものすごい剣幕で怒られる。
「あー……」
 しょうがなく立ち上がって、本来の持ち主に席を譲った。
 歩いているうちに右耳に髪の重みを感じて、そっと触れてみる。
「?」
 が、誰がやったのか、そもそもいつの間に引っかけていたのか、本人は全く覚えていなかった。

 そして夕方。
「つぅっ……かれたー!」
 大きく伸びをして、いつものように真っ暗な道を下校。
「でも今日はけっこーあったかいよな! そろそろリヤカー出しちゃう?」
「どちらでも。どうせ漕ぐのはおまえなのだよ」
「ゲッ……てかほんと強気だな真ちゃん……」
 桜がひらひらする空間を潜り抜けて、
「おい、高尾、だからポケットに手を突っ込むな」
「え? あーだから大丈夫だって、コケないコケない」
「……転ばせてやろうか」
「ちょっと真ちゃん今小声で物騒なこと言わなかった!?」
 というかそこまで言われてしまうと、意固地になってますます手が出しづらい。
 ――どーせ使わないし。
 まあ、これはただイジけているだけだが。自分がヘタレなだけだし。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 ――あれ。なんか最近多いなこのパターン。
 沈黙が気まずいなんて、緑間相手では意外と今まで無かったのに。
 聞こえるのは足音だけだ。
「…………」
「…………」
 なんだか、嫌だな、と思う。
 表面上は前通りだ。軽口を叩くのもいつも通り。
 だけど、要所要所ですれ違いが多くなったというか。肩肘を張ってしまうというか。今はこそばゆいし恥ずかしいしぎこちないし、緑間と一緒にいることへのハードルが大幅に上がったような気がする。
 バスケをやっているときは平気なのは、多分プレイに夢中で忘れているからだろう。
 ――これなら、相棒のままでいた方が良かったんじゃ。
 まあ、付き合ってはいないけど。
 長い間の片思いだったのに、相手がこっちを見返してきた。しかも友人じゃなくて性的な目で、という変更点は何気に大きいことを今更に実感する。
 ――ていうか性的な目で見るぞって響き今思うに結構エロいな。
「…………」
 ――やべ、余計恥ずかしくなってきた。
「高尾」
「はいぃ!?」
「……おしるこ買うぞ」
 そこ、と緑間が、前方で青白く光る長細い機械を指さす。
「あ、おう」
「しかし何を素っ頓狂な声を挙げているのだよおまえは」
「や、ちょっとぼーっとしてたから……」
 笑ってごまかす。緑間が訝しげな目で自分を見てくるが、それでも何も言わずに自販機の方に向かっていった。
 びっ、がこん、と音がする。
 ――オレは一人で何勝手に盛り上がって何勝手に恥ずかしがってんだか……
 そうだ、自分一人で先走りすぎなのが良くないのだ。落ち着け。緑間はこんなに澄ました顔をしているではないか、若干むかつくがこれが大人の対応というものだ。そもそもできないことは高望みするものでない、少々残念な気がするがそれは言い出せない自分が悪いのだから仕方ない、なに、もう少し慣れてからならいけるだろう。経験値を積め、ゲームの主人公よろしく。
 よし。
 今日からその方針でいこう。
「ん」
「え?」
 ごちゃごちゃと考えをこねくり回していたら、いつの間にか緑間が正面に立っていた。
 おしるこの缶を自分に差し出していた。
 一瞬状況が読めなかった。
「…………くれんの?」
「いいから」
 促すように、真顔で左手を突き出してくる。
 よくわからないままポケットから手を出して、おそるおそる、右手で缶を掴んだ。「あったか〜い」の方だったらしく、すべすべしたスチール缶は中身で温まっていて、むしろ熱いくらい。
 が、高尾が受け取っても、緑間は缶を離さなかった。
 どころかくるりと踵を返して、そのまま通学路を直進しだした。
「………ん?」
 なんだこの状況。
 学生服を着た大きな背中が、すぐ近くにある。無言でずかずかと歩みを進める。
 下を見れば、短い缶の端と端にある自分と相手の手。指先がもう少しで触れそう、くらいの距離。
 バトンパスしそこなったリレー走者みたいだ。
 ――えっと……
「……し、真ちゃん?」
「……っ、おまえは」
 緑間の足が止まる。そのままこちらを向かないまま、
「他の心境はこっちが若干退くくらい正確に読んでくるくせに、どうしてオレの好意には気付かないのだよ!」
 叫んだ。
 叫びやがった。
 高尾の頭が一瞬でフリーズした。
 一拍置いて思い出す。
 ハワイ行くっつったり今までそんなことなかったのに夜中に電話してきたりポケットに手突っ込むなとかしつこかったり。
「…………………………………あ?」
 ――ちょ。
 うわ。
「あ――――!!」
 高尾が思いきり赤面した。
「いや、おま……そんなちっちぇえヒントじゃわかんねーよ! おまえ表情変わんねぇし言葉が足らないから何考えてんのかわかりづらいんだっていっつも言ってんだろ! 無茶言うなぁあ!」
「知るかぁ! オレの相棒とか名乗るならさっさと気付け! ていうかくっついた途端何恥ずかしがって触ってこなくなってるのだよおまえは乙女か!」
「うわああああそれ言わないでオレ悶死すんぞ!」
 道の端でぎゃあぎゃあと騒ぎ合う。
 しかしいくら二人が鍛えていても、練習終わりの体力ではそう長くは続かない。数分もしないうちに、お互い顔を真っ赤にしてぜえぜえ喘いでいた。
 ――いや、でも。
 高尾はちらと緑間を一瞥する。
 冷静になって振り返れば、いつも押してくる側の自分が一歩引いていたから、緑間が物足りなくなって、本人ができる精一杯で求めてきていたのかなー、どうもそれっぽいなー、と思うわけで。
 ――可愛い奴だなこいつ。
 でもやっぱり、感情表現下手すぎだ。
「……っ、はははははは」
 ずるずるとその場に座り込んで、左腕で顔を隠しながら笑う。右手は缶を持ったままである。ちなみに緑間の方も離そうとしないので、必然的に左腕が引っ張れて屈みこむ形になる。
「あーおかし……あほらし……」
 緑間は黙ったまま何も言わない。見えないが、多分気取っていつものように眼鏡押し上げたりしているのだろう。
「……なー、もうお互い悪いってことにしとかね? オレ謝んないから謝んなくていいよ」
「……別にオレは謝らなければならないようなことはしていないのだよ」
「はいはい真ちゃん様。でもさー、今度からほんと言ってよ、そういうことはさあ。オレだって自分で勘づくより、言葉にしてくれた方が嬉しいしさ」
「………検討しておく」
 前言撤回、やっぱこいつ可愛くない。
 ――まあ、真ちゃんが口にできなかったものを形にしてやるのがオレの仕事だって、最近言ったばっかだもんな。
 じゃあ今回だけ特別サービスで。
「ねー真ちゃん」
 なんだ、と眼鏡が尋ねてくる。
 見上げて、やや照れくさいながら笑って、言った。
「手、つないでかえろっか」

「あー………そういえば、オレ前に言ったじゃん?」
「何を」
「どうせフォークダンス踊るならおまえとがいいって。でもさ、多分無理だったな。手ぇ繋ぐだけで恥ずか死んでたと思う」
「……今年は踊るか。またおまえが女装して」
「やだよ。オレ今年はかっこいい路線行くから。あ、そうだバンドとかどうよ? オレボーカル、真ちゃんキーボードでギターとドラムとベース揃えてさ。まー真ちゃんが女装してくれんなら考えなくもないけど」
「断固拒否するのだよ。見苦しい」
「ちぇー」
「ていうかさっきから親指こりこりするのやめるのだよ」
「へっへへー。で、ようやく飲めたおしるこおいしい?」
「……まあまあ」
「あ、桜………きれーだな」
「……そうだな」
「春だねぇ」
「……そうだな」
「まあフォークダンスの件はまだ時間あるし。どっちが女装するにしてもしないにしても、いざってとき悶絶しないように慣らしていこーぜ」
「……ん」
「というわけで真ちゃん」

 二年になってもよろしくお願いします。



/白線上の一歩先