※モブ後輩視点、緑間と高尾は二年生です






 自分の進学する学校だしな、と、偶然テレビで、秀徳と洛山の試合を見た。
 すごい人がいた。
 パスを貰って速攻、それも半面以上離れたコートからのスリーポイントシュート。おいおいおい入るわけねぇだろ、なんて思っていたら、その弾は綺麗にゴールネットを揺らし、通過して、歓声を爆発させた。気付いたら目は液晶に釘付けで、一緒に昼ご飯を食べていた母親から「あんた、そんなにほっぽってたら冷めるわよ」と咎められたくらいだ。
 ――人間ってあんなことできるのか。
 すげえ。かっこいい。純粋にそう思って、解説のおっさんの「まだ高校一年生なのにすごい選手ですよねえ」なんて呑気な声に「嘘だぁ!?」と思わず返してしまった。
 結局、秀徳は負けたけど。なんだか洛山の選手がすごいらしく転んでも、何度も何度も立ち上がって、最後には堂々と胸を張って、応援ありがとうございました、と頭を下げていて。
 そのひょんな出会いは、中学ではだらだら陸上を続けていたオレの進路を変えるには、十分な出来事だった。

 だが先輩たちは変だ。
 はっきり言って変だ。

「おー今井ちゃん! はよー」
「お、おはようございます高尾先輩……」
 校門を潜ったオレの脇を、自転車が追いついてきて並走する。運転席には黒髪三白眼の、朗らかな笑みを浮かべた学ラン姿。後部の荷台には縄が括りつけられていて、その先は今時珍しいリヤカーが繋がっている。
「今日も来るのはえーなー。去年はオレらより先に来てる奴なんていなかったんだけど」
「そうなんですか?」
「おう、感心感心。あ、後で頼みたいことあんだけど、ちょっと時間取ってもいいかね?」
「え。あ、はい、大丈夫ですよ」
「悪りいな! じゃー先行ってんなー」
「はいー」
 先に行くな、と言っても、二メートル近い――初めて見たときはオーラも相まって迫力ありまくりでびっくりした――人間が乗っているリヤカーを引っ張っていてはそう速く走れるわけもなく、自転車はオレが軽く走れば追い抜けてしまうくらいの低速走行だ。しかし高尾先輩の顔を立てるべく、ここは気付かれない程度に歩くペースを緩めることにする。
 後部座席には、左手の指をテーピングでガチガチに固めた、長身の男子生徒が無言で鎮座している。
「緑間先輩もおはようございますー」
 内心びくびくしながら、挨拶。顔がこちらを向く。
「ああ、おはよう。今井」
 えっちらおっちら、自転車は校舎に近付いていって、だんだん姿が小さくなる。
 気付いたら肩に思いっきり力が入っていた。二人が行ってしまうと緊張の糸が緩んで楽になる。
 大きな溜め息を吐く。
 オレはどうにも、緑間先輩が苦手なのだった。

 同級生のバスケ部仲間にもそういう奴は多い。
「何考えてるかさっぱりわからん」
「練習中超こえーよな」
「先輩の我儘でいきなりコート空けろとか言われるときあるしよー。スリーすげーしディフェンスうめーし、うちの部で一番うまいのはわかってるけどさあ、なんでその言い分通るわけ? オレらだって練習したいっつーの」
「ジコチューだよなー。高尾先輩もよく合わせてると思うぜ」
「あの人面倒見いいからなー。ノリいいしオレらにも優しいし」
「あ、でも緑間先輩って、我儘言いすぎてキレられたら高尾先輩にはちゃんと謝るらしいぞ」
「あの人謝ることあんの?」
「ぜんっぜん想像つかねえ……」
「ていうかおは朝の占いのラッキーアイテム持ち歩いてるって時点で意味わかんねえ!」
「あ、でも二組の女子が試してみたら、お告げ通りに失くしてたもん見つけたらしいぜ」
「マジで!? オレ明日見てみよっかな」
「おまえ……単純だな……」
 緑間先輩の話題を振ると大抵こんな感じになる。
 まだ入部して一か月なのに、緑間先輩は唯我独尊の変わり者、という共通認識がすっかり定着してしまっているのである。ある意味強者だ。

 そして今日も部室のドアを開ければ、油臭い匂いと共に、ベンチに向かい合って座る先輩二人が五感に飛び込んできた。
 二人とも、紙ナプキンに包んだ何かを手にしている。
 ……フライドチキンか? よく見れば、緑間先輩の傍らには、バケツ状のでっかい器が置かれている。赤と白が基調の、全国チェーンのファーストフード店のものだ。
「あ、来た! 早速だけど、着替えたらコレ消費すんの手伝ってくんねえ!?」
 高尾先輩が振り向いて、悲鳴のような声を挙げる。拭くのは後でいいとは思うけど口の周りになんか付いてますよ先輩。
「え……っと、すみません、状況が掴めないんですが」
 ロッカーまで行ってバッグを放り込みながら聞くと、高尾先輩がいやー、と困ったような声を出した。
「今日のおは朝見た?」
「いや、見てないっす……」
「真ちゃん蟹座なんだけどさー今日のラッキーアイテムが『髭面の人』だったんだよ」
「ああ……」
 その説明だけで、大体の事情が理解できた。
「……カーネルサンダースですか」
「髭面と言えばカーネルだろう」
「道頓堀に投げられた人形見つかったんだっけか?」
「あー、だいぶ前に見つかったらしいですね」
 もはや乾いた笑いしか出てこない。
 ……まあ、発想自体は悪くないとは思うけど……
「……ケンタって一ピースからのセット無かったですっけ?」
「一つのは袋だからおっさん描いてないんだよ。だからせめて四つのにしとけって言ったんだけどさあ、こいつどうしてもバケツがいいって、一番多いやつ買ったんだよ」
 バカじゃね? と高尾先輩が目で尋ねてくる。さすがに先輩にバカですね、なんて言えないので、心中お察しします、という神妙な顔をしておいた。
「人事を尽くして、できるだけ大きいのを手に入れたまでだ」
 緑間先輩が真面目な顔と口調で言い張るが、忘れてはいけない、この人が「人事を尽くして」手に入れたのはただの、ケンタッキーのパッケージに描いてある髭面のおっさんである。本人に罪はないが、あの爽やかな微笑が小憎たらしく見えてきた。ていうかラッキーアイテムって大きい方が効くんだろうか。
「朝からこんな重いもん食いたくねえっつーの……」
「こういうものは冷めたら味が半減するのだよ」
「とか言っておまえ、オレが言うまで自分で食う気なかったじゃねえか! 今持ってるのも一番小さいやつだろ!」
「当然だろう。朝からフライドチキンなど胃もたれする」
「それは! オレの台詞!」
 最後まで聞いていたら夕方になる。学ランを脱いで練習着に着替えることにする。半袖のシャツとズボンになった後で、「じゃあ一ついただきます」とパックからチキンを一つ、なるべく大きめのを取って、高尾先輩の隣に座った。
「昼まで置いとけたら喜んで食うのによー」
「匂いしますし、先生に見つかったら面倒くさいですからね」
「学校にケンタ持ち込みなんて絶対前例無いだろうけどな」
 確かに、と半笑いで返事をした。
「後で部室もファブっとかねぇとなあ。真ちゃん持ってたよな?」
「ああ」
「あ、無理そうだったら全部食わなくていいからな?」
「はい」
 小さく笑いながら肉をむしった。うまかったが油がきつい。多分走ったら横腹痛くなるだろうなー、とは思うが口にはしない。今日の朝練が自由参加のフリーメニューで本当によかった。
「おまえたちは背丈が足りないから、もっと食べた方がいいと思うが」
「真ちゃんごめん黙って? あとオレおまえより食ってるから絶対」
 そして繰り広げられる漫才。
 うん、やっぱり、この先輩たち変だ。

 しかしバスケの腕はすごいもんで。
「真ちゃん!」
 ぱし、といい音がして、構えた腕の中に綺麗にボールが収まる。投げる。高く高く放り上げられた茶色の球は、まっすぐな軌道を描いてゴールに入る。
「ないっしゅー!」
 片方は無言かつ無表情だが、それでもハイタッチが交わされる。
「ウィンターカップのときに比べりゃ、もう左側からならだいぶ入るようになったよな。やっぱ問題は右かー、今の右でのシュート成功率ってどれくらい?」
「スリーポイントラインぎりぎりでなら百」
「おまえほんとに人間なの? バケモンなんじゃないの?」
 緑間先輩は左利きなので、あのパスからの空中シュートは高尾先輩が左にいないと成功しないという欠点がある。だから今は右手でのシュートを特訓中らしい。将来的には、右からでも空中シュートが撃てるようになることが目標なんだそうだ。
 ……いや本当、化物である。オレなんか端っこでだむだむドリブルの練習やってるくらいだし、そもそも基礎練しかやらせてもらっていない。居残りしてこっそりやっているシュートも、スリーのラインぎりぎりで利き手でやっても四割くらいしか入らない。バスケ始めたばかりだとか、そういう言い訳は通用しない。
 こんなことはあまり言いたくないけれど、緑間先輩は他と才能が違う。大きくて恵まれた体格とか。センスとか。スター性とか。そういうものが。中学時代はものすごく強い学校でレギュラーを取って「キセキの世代」とか呼ばれていたらしいが、納得だ。
 うまく言えないけれど、むちゃくちゃ眩しい。
 ――だからこそオレも、一目見てかっこいいと思ったんだろう。
 後から来た先輩や同級生たちはケンタッキーと格闘していて、今はコートが空いている。なんとか完食した油ものが重い腹を引きずり、スリーポイントラインの上に立って、ボールを一度突いて、シュートを放ってみた。
 円を描いて向かったそれは、がこん、とリングに当たって、見事に外れた。
「今井!」
 後ろから鋭い声が飛んできた。緑間先輩の方だ。
「フォームが乱れてる、リリースが早い腕の伸びが悪い膝も硬い! やり直し!」
「は、はい!」
 ああ、オレがシュート成功率百パーセントだ、なんて言える日はいつ来るのだろう。

 ていうか正直。オレは緑間先輩に嫌われているのではないかとものすごく不安に思っている。
 同級生にぽつりと暴露したら、「あー緑間先輩、確かにおまえにはちょっと風当たり強いかもな」とものすごく言いにくそうに返されてしまった。
 心当たりもないことはないのだ。
 新入部員の顔合わせのときである。
 新入生はいかつい先輩方の前に一列に並び、でかい声で名前と所属クラスと出身中学と希望ポジションを言わなくてはならない。あとオレは初心者なので、それも伝えなくてはならない。オレはとりあえず本を読んだり調べたりして得た知識でポジションを決め、緊張でガチガチになりながら、一生懸命声を張った。
 その後で緑間先輩に呼び止められて、言われたのだ。
「おまえ、やる気はあるのか?」
 心臓を鷲掴みにされた気分だった。
 自分の宣言がどう取られたのかわからなかった。強豪の秀徳で今から始めるなんて、と思われたのかもしれなかった。
 オレより二十センチほど高い視点で、鉄面皮で見下ろされるのも、声が冷ややかだったのも、足が震えるくらい怖かった。
 しかしぐっと唇に力を入れて、まっすぐ目を見て、答えた。完全に虚勢だったが。
「あります!」
 どこまでいけるかわからないが、うまくなりたい。テレビで見たあの日から練習して、楽しかったし、少しながら上達したなと思ったときはすごく嬉しかった。いつかこの人みたいにシュートを打ってみたい。練習はきついかも、いや絶対きついだろうが、付いて行く覚悟も心積もりもある。
 緑間先輩は一瞬間を置いて、「ならいい」と行ってしまった。
 未だに忘れられないエピソードである。
 ――オレがバスケ始めるきっかけになった人だし、同じチームなんだし、できれば嫌われたくないんだけどなあ。
 などと思うが、他人の感情など自分がどうこうできるものではない。しかしひと月経った今でもやる気が無いと思われているのだろうか。先輩は基本的に表情が変わらないので、全然読めない。やっぱり不安だ。

 なんて、昼休み、飲み物を買いに食堂横の自販機へ足を運んだら、
「あ。ちーっす」
 高尾先輩がいた。
 学ランのポケットに左手を突っ込み、パックの自販機の前に立って、牛乳のボタンを押している。がこん、と音がする。
 大抵緑間先輩と一緒なのに、今日は一人らしい。
「こんにちは。……あの、今オレの方……」
 見てなかったような、気がしたんだが。
「ふっふっふ。実はオレなー、千里眼持ってんの。すげーだろ」
 しゃがんでパックを取り出し、こちらを見て不敵に笑って、高尾先輩は茶化すように言った。
 はあ、と曖昧な相槌を打った。
「なーんてな、オレ俯瞰で物が見えるだけだから。知らなかった?」
「はい……」
 俯瞰、ということは空から見下ろすように風景が見えるのか。どんな感じなんだろう。
「そっちも飲みもん買いに来たのか?」
「はい。えっと、牛乳を」
「珍しいな、買うなら普通ジュースじゃね?」
「背伸ばしたいんで、とりあえず牛乳取っとこうかと思って」
 ちなみにオレの身長は一七〇ジャストである。
「ぶっ、なんだよ、それも一緒じゃん」
 高尾先輩はパック背面のストローを指で押し出し、上面の穴にぷつりと突き立てる。
「先輩もやっぱり背、足りないですか?」
「足りない足りない! 去年だってスタメンの中で一番ちっさかったしよー。あ、緑間って背ェでけえじゃん? こないださー『よく考えてみればそんなに視点が低いとゴールが狙いにくくないのか? オレとおまえでは二十センチの差があるだろう、二十センチは結構大きいぞ』なんてマジ顔で言われてさー、あんときは本気でぶん殴ってやろうかと思った」
「あはは。ていうか、緑間先輩のものまね似てますね」
「だろ?」
 牛乳を吸いながら、嬉しそうな声。
 高尾先輩、ほんと緑間先輩のこと好きだよな。三年の先輩と衝突したら宥め役に回ったり、我儘言われたり、自転車こがされたりしてんのに、嫌にならないんだろうか。
「大体二十センチじゃねーし! 十九センチだし、まだ!」
「そこ重要ですよね。二十代か十代かっていうの」
「わかる!? 例え一センチでも気持ちの問題だよな!」
 そして目をきらきらさせて、「おまえはわかってる」と頷きながら肩を叩いてくる。
 オレも一六九から一七〇に上がったときは飛び上がるほど嬉しかったから、気持ちはよくわかる。たかが一センチ、されど一センチだ。
「そのくせあいつまだ伸びてっからむかつくぜ……オレもう成長止まりかけてんのに……」
「えっ、緑間先輩まだ伸びるんですか」
 二メートルいくんじゃないか。
 はあ、と高尾先輩は溜め息を吐いて、空を見上げる。黒い髪がはらはら揺れながら、後ろに流れる。
「体格は自分じゃどうにもなんねーかんなー」
 こうやって、効くかもわかんねーもんを、願掛けみたいにやってる。
「真ちゃん風に言うと人事を尽くす、ってやつだな」
 小さく笑う。その顔は、オレには少し自嘲的にも見えた。
「これ真ちゃんには内緒な。悔しいから」
「あ、はい……それは勿論」
 高尾先輩だって一年から秀徳でレギュラーで、スタメンにも入ってあんなにすごいパスができて、オレからすれば雲の上の人なのに、どうにもできない悩みがあるのか。いや同じ人間だからそりゃあるだろうけど、思い至らなかった。
「……高尾先輩、緑間先輩と仲いいのに、悔しいから内緒とか、そういう意地張ることあるんですね」
「んー、友達でも相棒でも、腹に抱えてること全部曝け出す義務はないだろ。オレ緑間には意地張りまくりだぜ?」
「え、そうなんですか?」
「あっちも察してくれてんのか信じてくれてんのか、こっちに興味ないのかしんねーけど、ほっといてくれるから丁度いいけどな」
 先輩はははは、と声を挙げて笑った。
 緑間先輩と高尾先輩。ただ仲がいい、というわけでもないらしい。

 その日の練習もキツかった。
 中学では陸上部、長距離を走っていたのでシャトルランはまだ付いていけたのだが、逆にそのせいでグループが上がってしまった。目標回数が増えたのである。
「おい一年! 遅れてんぞ! 根性見せろや!」
 先輩からの檄が飛ぶ。最初の三倍速ほどになったドレミファソラシドに間に合うように、もはや全力で線まで駆け込む。
 床をタッチするために屈む体力さえ惜しい。汗がだらだら流れてきてシャツを濡らす。顔が熱い。多分真っ赤だ。足取りも全然軽やかじゃない。
 ついには足が棒になって、息が途切れ途切れにしかつけなくなって、へろへろの走りしかできなくなった。
「一年ー! まだいけるって!」
「もうちょっともうちょっと!」
 あ、だめだ、このままじゃ間に合わない、ファ鳴った、オレ今どこ走ってんだよ、ライン、くっそ何でしゃがんで触らなきゃいけないんだよ走り抜けた方が楽なのに、ああだからタッチ有りなのか、くそ、隣もういねぇじゃん、二年三分の二くらい脱落してんじゃんもういいかな、もうゴールしてもいいよね? オレよくやったよな?
「今井ー!」
 ……あ、これ、朝の、
「おまえは走りしか能がないのだからここで踏ん張らないでどうするのだよ! やる気がないならさっさとやめてしまえ!」
 みどりま、せんぱいの、
 ――くそ。
 開いていた口に力が入る。背中がまっすぐになる。最後の体力を振り絞って足を動かす。
 ――だから、
 やる気ならあるって、絶対やめないって、あのとき言ったでしょうが。
 うがあああ、なんて変な声を出した、気がする。
 ド、の音と一緒に床にタッチした。そのまま体を反転させて、ダッシュして、途中で転んだ。耳の浅いところでド、の音が聞こえた。終了。
「おーい、生きてるかー」
 同級生の知ってる奴の声。
「……、……る」
「ちょっと動かすぞー」
 両脇から腕を取られて、無理に立ち上がらされる。体育館の隅に連れていかれる。
 大の字で床に寝転ぶ。口を開けて、はあはあ喘いでいる自分はものすごくみっともないだろうが、もう一ミリも動く気がわかない。
 声が遠くで聞こえる。
「おまえすごかったなー、最後の粘り。お疲れ」
「ほらタオル。……しっかし緑間先輩なにあれ、シャトルラン止めそうになったくらいで部活やめろかよ」
「なー。厳しすぎね?」
「いや、でもさあ」
「何よ」
「先輩ら、一年一年って、オレらのこと名字ですら呼ばねぇけどさ。緑間先輩は今井のことちゃんと名前で呼ぶよな」
「えー、そうだっけ」
「あ、でもさっき確か……」
 …………。
 …………。
 ……ああもう、なにもわからない。

「お、今日も頑張ってんなー。お疲れ」
「オレ残らないとシュート練できないので……先輩方もお疲れ様です」
 部活終了二十分後には、顔を洗ったりトイレに行ったり着替えたりで席を外していた、居残り組がぽつぽつと体育館に現れる。笑って声を掛けてくれたのは高尾先輩で――後ろには緑間先輩もいた。相変わらず無表情で、眼鏡のブリッジを押し上げて、きびきび歩いている。
 一番小さいボールストッカーを貸りて、端っこのコートの、スリーポイントラインの上に立つ。
 ゴールを睨みつける。ボールを両手に挟んで、緑間先輩のシュートフォームを思い出して、イメージして、打ってみる。
 ボールは橙の軌道を描いて、空へ飛んで行って、しかしやはりリングに当たって、弾かれた。
「あー……」
「体が硬い」
 後ろから声が掛かる。
 反射的に振り向くと、腕を組んで、緑間先輩が立っていた。
「肩の力を抜けと何度言えばわかる。あとラインを踏んでいたら三点にならないのだよ」
「え、あ!?」
「バカめ。ルールを一から覚え直してこい」
 言うだけ言って、先輩はさっさと踵を返して行ってしまう。
 いつもながら高圧的で嫌味っぽい言い方だ。
 やっぱり嫌われてるんだろうか。
 ――いや、けど、先輩の言ってることって全部、正しいこと、だよな。
 そう考えた瞬間、シャトルランでへばっていたときの会話を思い出した。
 ――確かに、呼んでもらってる。
 覚えてもらっているのだ。名字。……高尾先輩もだけど。
「…………」
 どうなんだろう。緑間先輩は本当に何を考えているかわからないから、見当もつかないんだが。
 もう一度ボールを取る。構える。息を吸って、吐いて、体の力を抜いてリラックス。リリースのタイミングと腕の使い方に気をつける、膝は柔らかく。
 放る。
 まっすぐ飛んで行ったボールは、緩やかな軌道を描いて輪の中心に吸い込まれた。
「うわ、入った!」
 その感覚を掴もうと打ちまくっていたら、「いーまいちゃんっ」という軽薄な声と同時に、いきなり肩を引かれた。
「わっ!?」
 顔を向けると、高尾先輩が肩を組んでいた。
「もうオレら帰るけどーおまえ鍵の始末とかわかんねぇだろ? 調子よさそうなとこ悪いけど、そろそろお開きにしねえ?」
「え、もうそんな時間すか!?」
 時計を見てみたらそんな時間だった。外も真っ暗になっている。オレたちの後ろになんだか機嫌が悪そうな緑間先輩が立っている以外は、誰もいない。
「す、すいません夢中で!」
「オレらは自分のタイミングで切り上げただけだからいい、いい。でも鍵返す場所教えてやっから、今日だけちょっと付き合って切り上げてくれたら助かる」
「勿論です!」
 先輩の一声で慌てて、タオルや飲み物類を取りに行く。ボールを片付けライトを消し、体育館を出て、でっかい南京錠で施錠。
「じゃあ職員室ゴー! あ、真ちゃんは先着替えてリヤカー出してきて。その方が効率いいし」
「…………」
 緑間先輩が無言のまま、オレや高尾先輩とは違う進路に逸れる。
 そうして、職員室へ続く真っ暗な廊下を、二人で歩くことになる。
 教室にどこも明かりが入っていなかった。今日は満月らしく、白銀の光が窓から射しているが、通りかかる教室のネームプレートがうっすらと見える程度だ。これは一人で歩いていたら、まだ教室の位置を全部覚えていないから迷子になったかもしれない。あと絶対怖かったと思う。高尾先輩がいて本当に良かった。
 かつ、かつ、と上履きの音が、何も空間に響いていく。
 高尾先輩の飄々とした声。
「なー、今井ちゃん」
「なんですか?」
「緑間怖い?」
 単刀直入に聞かれて、正直びっくりした。
 思考停止。少々間を置いて再稼働。
「……怖い、ですね、はい」
「おまえにはあれこれ言うもんなーあいつ」
「はい……」
 白状すると、高尾先輩は声を挙げて笑った。
 やべえバレてる。もうこの際聞いてみた方がいいんだろうか。こんな機会多分もう来ないぞ。……ええい!
「あの、高尾先輩」
「なーに?」
「オレ緑間先輩に嫌われてるんでしょうか」
 言った瞬間、高尾先輩はぶふぉお、と盛大に吹き出して、腹を抱えて笑いだした。
「ちょ、あの、オレとしては結構切実な悩みだったんですが……」
「わ、わり、あいつあんまりわかりやすい誤解のされかたしてるから、つい……」
 そう言いながらも、先輩は可笑しそうに喉を鳴らしている。涙まで流して、それを指先で拭っていた。
「はー……大丈夫だって、あいつバスケに私情持ち込む奴じゃないから。逆にそういうの一番嫌うタイプ。おまえが嫌いだからとやかく言ってるわけじゃねぇと思うわ。むしろ好きだろ、あれは」
 絶対それはない、と心の中で思う。
「……でも、新入生との顔合わせのときにオレ、やる気あるのかって言われて。その、オレが初心者だから、秀徳みたいな強豪でスペース取ってたり教えてもらってるせいで先輩たちの時間取ってるの、邪魔とか思われてるんじゃないかって」
「真ちゃん初心者蔑ろにするようなバカな奴じゃねぇって、オレらだって皆最初はそうだったんだぜー? てか、やる気あるのか発言は知らなかったけど、歓迎会のときはオレも覚えてるわ」
「え?」
 どういう意味だろう。横を見ると、高尾先輩は屈託なく笑っていて、
「気付かなかったかもしんねーけど、一年でシューティングガード希望したのおまえだけだったんだぜ? 真ちゃん相手じゃスタメン取れないと思って避けてんのが丸わかりで、吹き出しそうになってたらおまえの番が来て、初心者なのにシューティングガード! って堂々と言うからびっくりしたっつの」
「え!」
 知らなかった。だってあのときはガチガチになって、周りの自己紹介なんて聞いている余裕なくて、ポジションもシューターは基本的にそこだからで、オレはシューターになりたいだけで、そもそもレギュラーなんて取る気さえなかったから、
「だから、自分が相手だと初心者のおまえはほぼ間違いなく二年間スタメン張れないけど、それでもシューター目指すの? って聞きたかったんじゃねぇの? 真ちゃんは」
 絶対自分が勝つと思ってるとこがあいつらしいけどな――と高尾先輩は上機嫌に言う。
「強いのがいるから違う形でチームに貢献したいとか、レギュラー取りたいとか、それはそれで立派な選択だけど。試合に出られなくても、好きだからシューターやめたくない。スリーばんばん打ちたい。あいつ二点より三点、ってスリーになんか妙な執着あるし、そういうとこ気に入ったんじゃね?」
 まあ、あくまでもオレの想像だけど。
「真ちゃん、一見するとツンばっかりだけど、悪い奴じゃないから。後輩ちゃんたちも嫌わないでやってほしいなーなんて、相棒としては思っちゃったりしちゃってたりして」
「…………」
 少し、黙った。
 高尾先輩も何も言わなくなって、上履きの音だけが聞こえてくる。
「……高尾先輩、ほんとに緑間先輩のこと好きですよね」
「え!? ……あー、まあ、一年一緒に修羅場潜ってきた戦友だからな。お互いが唯一の同級生レギュラーだったし」
 珍しく先輩が慌てていた。照れているのだろうか。なんだか微笑ましくて、思わず笑ってしまう。
「――実はオレ、去年テレビで洛山との試合見て、バスケ部入るの決めたんです」
「よりにもよって洛山戦かよ……オレら負けてるやつじゃん。おまえ実は物好き?」
「確かに試合は負けでしたけど、差付けられても絶対挫けなくて、一生懸命プレーしてる先輩たち見てて、すげーなって思ったんです。あと、転んでも何度でも立ち上がって、ほいほいスリー決める緑間先輩見て、かっこいいなって」
 先輩が破顔する。まるで向日葵が花開くような、そんな笑顔。
「わかる。バスケやってる真ちゃんかっこいいよな、無駄に」
「入ったら入ったで、才能あるのに努力もしてて、ラッキーアイテムなんて持ち歩いてて正直変な人だけど、多分それだけ勝ちたいんだなってことは感じ取れて。だからできれば嫌われたくなかったし、オレから嫌うことはきっと、これからも無いと思います」
「うん」
 わかる。
「どんだけ我儘でも、嫌いになれないんだよな。あいつ。おかしな奴だよマジで」
 そう。変な人だ。
 変なのにかっこよくて、凡人のこっちは光を見た虫みたいに、引きつけられる。
「でも別に、おまえだってスタメン狙ってもいいんだぜ?」
「今の能力値だと無謀に近いですよそれ!」
「何言ってんだよ、部活やるならレギュラー狙うのは当然だろ。野望はでっかくいかねーと」
「え、えー……」
 そうして緑間先輩の話で地味に盛り上がりながら、職員室のキーストックまで鍵を返しに行き、名簿に名前を書いて外へ出た。
 更衣室に戻って学ランに着替えて、校門まで行く。件の先輩は自転車のサドルに跨って、薄い暗闇の中で不機嫌そうにオレたちを待っていた。前カゴには朝苦労して空にしたケンタッキーのファミリーパックのバケツが、ナイロン袋に入れられて鎮座している。
 だが荷台にいつもくっついているリヤカーが無い。高尾先輩があれ、と目を丸くする。
「リヤカーは? 壊れたから置いてきたとか?」
「いや。……出血大サービスなのだよ、今日はオレがこいで帰ってやる」
 先輩はさらに目の周囲を研磨した。
 オレもあ、緑間先輩ってこんな譲歩とかするんだ、と思ってしまった。
「……やべえぞ今井ちゃん。明日は槍が降る」
「人のせっかくの恩情を槍が降るとは何だ」
「どしたの真ちゃん、悪いもんでも食べたの。朝っぱらからケンタなんて食ったのがいけなかったか?」
「いい加減にしないとこの話は無かったことにするのだよ」
「いや! それはやだ! 乗る乗る乗ります!」
 高尾先輩はぱたぱたと走って行って、自転車の荷台に、普通の二人乗りをする格好で腰を下ろす。
「あ、でもこれだと今井ちゃん……」
「オレお二人とは違う方向なんでお気になさらず。……あの、高尾先輩、今日はほんとにありがとうございました」
 小さく頭を下げる。
 おかげで長年の悩みがようやくすっきりしたし、やる気もだいぶ上がった。
「気にすんなって。オレも去年上の人にいろいろお世話になってさ、ちょっと真似して先輩面してみたかっただけだし」
 ひらひらと手が振られる。この人は他人に気を使わせない台詞がすらっと出てきて、そこがすごいなと思う。
「じゃあ道中気を付けてなー」
「はい。先輩方もお気を付けて」
「今井、風呂上りにはちゃんと柔軟するのだよ」
「わかりましたー」
 高尾先輩の笑顔とばいばいを装飾に、今日限定でチャリだけになった乗り物はスムーズにスタートする。ライトの光を深海のような街に投げかけていたのに、黒い学ラン二つはあっという間に見えなくなった。
 一つ大きく息を吸って。
 腕を伸ばして、めいっぱい伸びをする。
「んー……よっし」
 逆方向に歩き出した。
 シャトルランで疲れた足も、気分も、嘘のように軽やかだった。
「明日も練習頑張っかー」




 キーコ、キーコ、キーコ、

「――で。真ちゃんほんと珍しいな? もしかして、オレが後輩といちゃいちゃしてるから妬いちゃったー?」
「同性と話しているだけでいちいち嫉妬していたらキリがないだろうが」
「まーそれもそうだ。ところで、今井ちゃんどうよ? 専門家から見て伸びしろありそう?」
「まだ始めたばかりだから有り余るほどあるのだよ。アドバイス通りに動けば入れていたし、二か月ほど練習して成功率は四割程度といったところだから、夏までには八割はいけるだろう。体力は平均より上だし、足が大きいからおそらく身長もまだ伸び」
「え、伸びる!?」
「何故そこでおまえが反応した」
「昼に身長欲しい同盟組んだばっ……あ」
「……おまえ、親の背はどれくらいだ」
「親父も母さんももうとっくに越した」
「…………」
「ちょ、何でそこで黙んの!? オレもうダメなの!? なんとか言えよ緑間!」
「……まあ、このまま鍛えれば、二年ごろにオレの控えくらいには入れるかもしれないのだよ」
「おお、それかなり将来有望じゃん」
「夏の合宿を終えても部にいたらの話だがな」
「あー、きっついもんな……あれでオレらの同級も半分くらいやめたっけ……ていうか真ちゃん、合宿終わったらちゃんと褒めてやれよ?」
「? 何故オレが」
「ツンがきつすぎんだよツンが。全員オレみたいに真ちゃんの意図汲んでくれると思ったら大間違いだっつーの」
「……おまえこそ。世話を焼くのはおまえの勝手だが、あまり他人を気に掛けていると身が持たないぞ」
「あ、もしかしてそれで今日は疲れてるんじゃないかって? 気ィ回して? やだ今日の真ちゃん紳士!」
「黙れバカめ。第一、ちょっとやそっと言われたくらいで辞めてしまうような奴なら、どのみち長くは続かないのだよ」
「んー、オレ別に落ち込んでそうなやつ全員に声掛けてるわけじゃねぇし、その通りだと思うけど……やっぱ周囲の環境って大事じゃん? オレだって、ときたまーに真ちゃんのこういうデレがあるから、フォローに走る気になるんだぜ?」
「…………」
「あー、オレが女子だったら背中に胸くっつけてやんのになー。残念でしたねー男で」
「……………………別に」
「ん?」
「男でなかったらおまえがバスケなどやっていなくて、きっと今二人乗りすらしていない。だから別に男のままでいい」
「…………」
「…………」
「……真ちゃん」
「……なんだ」
「ぎゅーってしていい?」
「……好きにしろ」
「……わー、おひさまの香りだー」
「懐かしいのだよそのCM」
「いやーしかし後輩の面倒見るの、疲れるけど楽しいもんだな。明日も頑張ろうなー真ちゃん」
「…………ん」
「そしてオレは寝るから着いたら起こして」
「寝たら落とすのだよ」
「えー」

 キーコ、キーコ、キーコ。



/少年よ大志を抱け