いつもより覇気のない、形の崩れたありがとうございました、を号令に、張り詰めていた体育館の空気が一気に弛緩した。
誰かがだぁー、と間抜けな悲鳴を挙げて床に寝転がった。皆一様に疲れた顔をしていて、汗だくだ。へたり込んで休憩したり、のろのろと帰り支度を始めたり、思い思いに動き始める。
体育館の端まで行って、タオルを拾い上げた。首に掛ける。一緒に置いていたスポーツドリンクのボトルのキャップを開けて、口を付ける。
「緑間」
後ろから声がした。
体を反転させると、正面に大坪が立っていた。
「今日のことなら気にしなくていいから、さっさと風呂入ってゆっくり休めって伝えといてくれ」
「誰にですか」
「様子見に行くんだろ?」
渾身の抵抗がスルーされた。
たっぷり間を置いて、まあ、と小さな声で返事をした。
「オレも気にはなるが、仲のいい奴に任せた方がいいかと思ってな。オレが行ったらあいつも気を使うだろう」
そう言って大坪は微笑む。
自分とあれは仲が良いというのだろうか。緑間は内心そう思いながらも口には出さない。
気を使う。確かに、あいつの性格を考えればそうだろうが。
「――オレでもあまり変わらないと思いますけどね」
ぼそりと呟いた。
すると大坪は声を挙げて、快活に笑った。
「ははは、あいつ、おまえには意固地になるからな」
「…………」
「まあ、なんとかうまくやれ」
からかうように肩を叩かれる。さすがに、先輩相手に睨みつけるのはやめておいた。
しかしキャプテンは、自分が駆け寄りもせずに今のんびりとドリンクを啜っているこの状況が在る事情とか、後輩たちの性格やらを全て把握しているようで、
――関係もバレてるんじゃないだろうな。
なんて、少しだけ背筋が寒くなった。
少し時間が経てば自分以外の部員は部屋に戻ってしまい、体育館の中はすっかり閑散とした。
荷物は財布と上ジャージだけ持って、最寄りのトイレへ向かう。蛍光灯のスイッチが入っていて、夜の群青に真っ白な光が浸食している。これではどっちが光でどっちが影かわからない。目に眩しくて、とかくよく目立つ。
ドアを開けた。
喉を潰された蛙の鳴き声みたいな音がした。
しばらく置いて、はーはーと荒い呼吸。
どうやらもう昼食やら、つまんでいた菓子やらは出しきった後らしい。正直、少し待ってから来て良かったと思う。
名前を呼んだ。
「高尾」
喘ぐように息をする音。その後、大きく吸って、しゃがれ気味の意味の塊が、
「……っ、しんちゃ、悪いけど、出、」
「落ち着いたら体育館に戻ってこい」
途中で遮ってやった。
返事は来なかったが、ドアを雑に閉めて踵を返す。
バカめ、と、口の端で呟いた。
夜の風に吹かれていると、汗で濡れたTシャツがどんどん冷えていく。ジャージを羽織って、ポケットに手を突っ込んで進む。
自動販売機も淡い光を放っていた。
「…………」
迷って、ミネラルウォーターと青い缶の清涼飲料水を買って、体育館に戻る。
するとちょうど戸口に、待っていた相手が立っていた。
「あ」
振り向いた高尾は少し青い顔をしていた。一瞬思考が止まり声が出ず、話しかけるタイミングを逃して一気に気まずくなる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……飲むか」
持っていたのを二つどっちも差し出したら、高尾はうん、と小さく頷いて、缶の方を手に取った。
体育館に入り、ステージの淵に、足を投げ出して並んで腰かける。ぼんやりと前だけ見て、冷たい飲み物をちびちびと口に含む。
「……そういえば、キャプテンが」
「ん」
「今日のことは気にしなくていいから、さっさと風呂に入ってゆっくり休め、と」
「……それ遠回しに謝れって言われてんのかね?」
「邪推しすぎなのだよ」
「ならいいけど……」
すいませんちょっと、と高尾がトイレに駆け込んで練習を抜けたのは終了十分前のことだが、大坪が怒った様子も気にした様子も特になかった。
そもそも今回の合宿で、中座して吐きに行く奴は珍しくない。自力で歩けなくなり、担架で医務室まで運ばれる者までいるのだ。むしろその場でなく、数メートル離れた施設まで歩いて行った高尾は健闘した方だといえよう。
「……いや、そう言ってもらえるのはありがてーけど……やっぱちょっと気にすんなあ、オレレギュラーだし……フガイないっつーか……」
「…………」
「あー、ほんと練習キツすぎ。毎日毎日死ぬかと思うっつーの、本気で」
いつもの軽い口調。
いつものへらへらした笑顔。
――その後ろは、きっと。
「……高尾」
唸ると、自分より少し低い位置にあった頭が、こちらを向いた。
「――別に今日のようなときくらい、手でも背でも腕でも肩でも胸でも膝でも貸してやる。だからあまり自分を追い詰めるな」
「…………」
「……と、一応言っておくから、覚えておくのだよ」
将来への保険だ。いつか本気で、誰かの助けが必要になったときの。
ちらりと見た高尾は、目を丸くして大層間抜けな顔を晒していた。しかしやがてへらっと破顔して、
「どしたの真ちゃんー、珍しくデレ全開? いつになく男らしいじゃん? かっこいー!」
「おい、茶化すな、オレは真剣な話を」
「あはは……なーんて、な」
静かな声で言って、少し離れた位置に缶を置いた。カン、と底が当たるその音は、二人しかいない体育館ではやけに大きく響いた。
高尾は薄く、なんだか呆れたような、それでいて嬉しそうな顔で、笑っていた。
しかしそれは一瞬で、口角がいつもの軌道で吊り上がる。
「じゃあさー、今だけ膝貸してー。ちょっとだけ寝かしてよ、充電したら部屋帰るから」
「…………」
おじゃましまーすと、高尾はステージの上に、緑間の膝に頭が来る位置で寝転んだ。バスケットボールと同じような形と重みと、ふわふわした髪が足に圧し掛かる。近い。
「お!? もーちょいゴツゴツしてるかと思ったら意外にいい感じだなこれ!?」
「……バカめ」
掌を目の上に押し当てた。ニヤけ顔がテーピングを巻いた指に隠される。
「オレまで帰れなくなる、さっさと寝るのだよ」
「はーい。三十分経ったら起こしてー」
おやすみ。
しんと、体育館が静まり返る。
緑間が水を数口飲んで、あちら側の壁にある時計を見、二分ほど経ったと思った辺りで、左手の下にある口が寝息を立て始めた。胸が上下して、規則正しくなってきたところで手を離す。高尾はちゃんと目を閉じていたが、唇の方は半開きになっていた。本当に疲れていたのだろう。
顔色はもう戻っていた。吐くだけ吐いてすっきりしたらしい。
一つ、溜め息を吐く。
意外と人の頭は重い。あと三十分も保つだろうか、いや意地でも保たせるが、と考える。
トイレでの高尾の台詞を、脳内で巻き戻して再生した。
「……悪いけど、」
自分が遮ったその先は、間違いなく。
――出てって、だろうな。
つまりは拒絶だ。
背中をさすったり、声を掛けたり、気休めかもしれないが何かを手伝うことはできたのに、高尾はそれを要らないと突っぱねた。こういう関係になっても、高尾は絶対に緑間を頼らない。本当に弱いところは見せないし、助けを求めようとしない。
春、まだ知り合って間もない頃に言われた。昔負けたことがある。それが悔しかったから、おまえより練習して、絶対プレーでおまえを認めさせてやるから、待ってろ、と。
その意志は今も変わってはいないだろう。
そして、高尾は緑間の相棒を自負している。
要するに。キセキの世代――天才と並び立てるような選手であろうと、人間であろうと、意地を張って自分の力だけで立とうとしているのだ、こいつは。
強い力を持っているからと言って頼る側でなく、むしろ頼ってくれるような自分になりたいと、一生懸命なのだろう。
確かに、あまりべたべたされるのは煩わしい。人事を尽くさずあいつは天才だから、とか頼むよ、なんて言われて寄りかかられるなんて、想像しただけでイライラする。
――だけど別に、少しくらい、
こいつなら少しくらい、いいのに。
――結局、今回も丸め込まれた形だからな。
今後、高尾が貸して、とねだってくることは、恐らく無いだろう。
ミネラルウォーターを煽る。舌に広がる鉱物っぽい味。
階下を見る。人の気も知らず、無防備に安らかな寝顔を晒している高尾がいる。
眺めているとなんだか腹が立ってきた。デコピンでも喰らわせてやろうか。丸めた人差し指を額に近付けてみる。すー、すー、と小さく聞こえてくる。
「…………」
本当にバカだ。進んで楽な道に逃げないのだから大バカだ。
でも。
「……そういうところが気に入っているから、始末に負えない」
ぼそりと呟いて、目に掛かっていた髪を指先で払った。
自分でも、不貞腐れたような声色だな、と思った。
人への気遣い方なんて今まで悩んだことがなかったから、この状況をどう打破できるかなんて検討もつかない。大坪はうまくやれ、なんて笑っていたが、ならば打開策を教えてくれはしないだろうか。
――まあ、今回は本気は伝わっただろうから。
それだけで良しとしておくべき、なのだろうか。
――とりあえず。
やはり起こすときにデコピンしてやろう。
そう固く決心して、ジャージを脱いで高尾の体に被せてやった。
寝息と混じって、かち、かち、と、静かな体育館に機械的な音が響く。
眼鏡越しに見た時計の針は、睡眠時間がもう十二分を経過したことを示していた。
/君が額を押さえて飛び起きるまであと十八分
タイトル思いつかなかったのが明白