初めての他人への性的興奮は無味無臭だった。
 ついでにぐにぐにしていてぬるかった。
「ん……、っ、ぁ……」
 くちゅ、と音をたてて、口の中に捻じ込まれていた舌が離れていく。走ってもいないのに息が荒い。部活のランニングは中盤まで何とか乱さずこなせるようになったのに、三分もしないうちにこの有様とはどういうことなのか。
 はあはあと際限なく漏れる息が変に気恥ずかしく、止めて、吸って、と通常の呼吸を装ったが、真っ赤になった顔と涙の浮いた目はごまかしようがない。
 やばいやばい、と思っていたら、テーピングと素の掌に肩を押されて、体が後ろに傾いだ。影が圧し掛かってくる。被さる、自分より数段大きな上半身。垂れた緑がかった黒髪。下から覗く見慣れた顔は、しかし見慣れない、余裕なさげな色をしていて、
 ――あ、だめだこれやられる。
 一瞬で悟った。
「え、えーと真ちゃ……」
「…………」
「……あの、なんつーか、えっと……」
「…………」
「そだ、オレ達若いからそういう流れになっても不自然ではないけどほら若気の至りとかいう言葉もあるからさあそういう悔恨はお互い残したくないじゃんオレらまだ人生これからだし? でももし仮に真ちゃんが絶対後悔しないって言いきれるんなら……まあ……あれ、てかオレが下なの? それ決定?」
「…………」
「おい、ちょっと真ちゃん? 話聞いてる? もしもーし現場の緑間さーん? 応答してくださーい?」
「……………………駄目だ」
「え」
 低く唸って、自分を床に押し付けていた大男が退いた。手も外されて完全に自由になる。押さえつけていた手の熱が唐突に消えて、触れていた箇所がどんどん冷えていく。
 あまりにあっさりした幕引きに面食らった。
 いそいそと体を起こして見れば、緑間は傍に胡坐を掻き、眼鏡の位置を人差し指で直している。らしくなく背中が丸まっていた。何故だか項垂れるジャイアントパンダを連想する。
「――えーと、真ちゃん、駄目と言いますと?」
 後ろからおそるおそる声を掛ける。
 ――男相手じゃやっぱ無理とか、だろうか。
 もしそうだったら、少しだけ、へこむかもしれない。
 いや、男が男に欲情できないなんて当然のことなんだけど。
「こんな突発的に事に及ぶのはなしだと言ったんだ」
 緑間の背中はそう返事をした。
 いつもの、偉そうで横柄な口調だった。
「ていうかオレは同性でどうやるか知らないのだよ」
「あー……突っ込むんじゃないの。尻に」
「痛くないのか」
「いや痛いだろ普通に考えて。無理ではないだろうけど」
「避妊具も持っていないし」
「どーやっても妊娠はしないけどな」
「感染症なんかの問題だ。それにオレはな」
 頭が動いて、真剣な顔がこちらを向く。
「そういうのは高校を卒業してからと決めている」
「…………」
「まだ早い! 以上!」
 はいこの話終わり! と言わんばかりに両手が打たれ、実に景気のいい音が鳴った。
 高尾は口を開け、呆けきった間抜け面を晒していたが、緑間の方は頑なに前を見つめている。
「……いーの?」
「何がだ」
「……下の元気になってるそれ、どうすんの?」
「……内々で処理する」
 彼は後ろを向いたまま、だから今日は帰れ、と、手をしっしと振った。無駄にキレが良い。
「あー……」
 緑間がどれだけ頑固かは、いつも見ているから知っている。それにこんな風に寸止めで終わって、つっけんどんにあしらわれてしまっては、気まずいことこの上ない。
「じゃあオレ、帰るわ……」
「ああ。また明日」
 高尾が鞄を拾い上げ、コートを着て帰り支度を始めても、緑間は振り向きもしなかった。
 部屋を出る。よその家の廊下は、一人で歩くと妙に心細い。
「お邪魔しましたー……」
 靴を履き、気が抜けているながら一応挨拶をして、玄関のドアを開ける。敷居を跨ぐ。空に上った夕日は、もう街の中に沈みかけていた。
 もう見慣れた風景だ。それほどこの家に通っている、ということになる。
 ぺたぺたと間抜けな足音がする。ポケットに手を突っ込む。心拍数は乱れに乱れている。らしくもなく火照った頬と、未だ生々しく残る唇の感触を持て余しながら、ふらふらと家路につく。
「……明日どんな顔して会えば……」
 正直頭を抱えたい。何度も何度も、さっきのシーンがリフレインしている。
 そういうことは高校卒業してから。堅物の緑間らしい発言だと思った。男男という不純な関係なのに、今時男女カップルでも珍しいかもしれない健全なお付き合いなのが笑えるが。
 別に、すぐやりたいというわけではないけれど。
 ――卒業っつーと、あと二年ちょっと、か。
 随分と気の長い、先の話だ。自分達はまだ中学を卒業して、ようやく高校に慣れてきたばかりの一年生なのに。もう学ランも着なくなって、クラスメイトとも別れて、大学を決める頃の自分なんて、輪郭すら掴めなくてうまく思い描けない。
 ――ああ、そっか、その頃には――。
 部活も、引退しているんだよなと。
 今更気付いた。そんな、当たり前のことに。
「…………」
 溜め息も吐いていないのに、呼気が白く煙った。空にクラゲのように浮かんだそれは、できそこないの繭のようにも見える。
 ぼんやりと理由を察しながら。
 『そんな当たり前のこと』が、妙に胸にわだかまった。

 しかし翌朝、電車に乗って学校の最寄り駅に着き、人込みから突き出ている学ランの肩をいつものように叩けば、
「真ちゃん、はよ」
「……おはよう」
 常と全く変わらない緑間真太郎がそこにはいた。
 物言いは皮肉っぽくて偉そうで、時々眼鏡のブリッジを押し上げて、おは朝のお姉さんが提示したラッキーアイテムを手にしている。今日はわざわざ押し入れから引っ張り出してきたらしい、小学生の頃に流行ったハイパーヨーヨーだった。懐かしいと笑って、緑間の手さばきが意外と拙いことが判明して爆笑した。
 駅の駐輪場に停めた、リヤカー付きの自転車を引っ張り出す。
「さーいしょーはぐー!」
 じゃんけん、
「ぽん!」
 沈黙。
「……っかしーなー……何でオレ勝てねぇんだ……?」
「日頃の行いの差というやつだろう」
 それなら緑間より自分の方がだいぶ良いはずだと、高尾は内心思う。
 しかし文句を言ってもしょうがない。
「高尾、遅い」
「あんまスピード出したくねぇの!」
 手袋、マフラー、コートというフル装備でも、風が冷たくてかなり寒い。あーだこーだと言っている間にサイレンが聞こえてきて、前方にあった踏切の遮断機が、通せんぼするようにゆっくりと降下した。
 ブレーキを掛けて一端止まる。
 リヤカーは場所を取る上に目立つので、待っている間にスーツ姿の社会人や、同じ秀徳生の視線が突き刺さる。が、もう半年以上もこんな移動方法を続けているのだ。もう慣れた。涼しい顔でスルーする。
 ――カン、カン、カン、カン。
 けたたましい警告音。
 レールの軋む音。重い車体の滑る音。
 ――ざ、と。
 空気を切り裂いて、あちら側の風景を遮って、髪や服を弄びながら、白い機体が通過する。
「……さっみ!」
 もっと通行人に配慮して走ってほしい。この季節にこの風は最悪だ。
 そんな他愛のない感想を漏らしながら、再び爪先に力を込めて、ペダルをこぐ。

 朝練が終われば授業が始まって、昼休み、あっという間に部活動の時間になる。
「ダッシュ行くぞー!」
「うーす!」
 バッシュの底が床に擦れて音をたてる。冬なのに半袖で、それでも汗びっしょりになる。夏のように水道に頭を突っ込んで、豪快に冷やしたいくらいだ。
 終わって部員が下校して行って、ついには二人になっても、練習は続く。いや、続けている。背中合わせになるように、端と端のゴールを使って。ほとんど空っぽになっただだっ広いコートに、ボールが跳ねる音とバッシュのスチール音が響き渡る。
 時折足を止めると相手の音が聞こえてきて、ここに居るのは自分だけではないという現状を再認識させる。その度に、負けたくないという対抗意識が沸き起こる。実力で負けているのだから練習量だけは相手より多くする。遥か昔に決めたことだ。
 けれど同時に、自分一人だけじゃないという安堵も広がっていく。後ろに相手がいる。励まし合いなんて絶対にしない、別に寄りかかっているわけではない。だけど、面と向かって意地が張れる。だからきつくてもまだ踏ん張れる。
「あ――――! でもちょっと休憩!」
 しかし高尾がとうとう音を挙げた。
 体育館の床に尻を付け、そのまま後ろに倒れた。
 大の字になって、荒い呼吸をする。冷たいのは嫌だと日中にはあれほどぼやいていたのに、火照った体に今は心地いい。
 そうしている間にもばん、ばん、と、一定の振動が、板を伝わって耳に叩きこまれる。
 億劫ながらも頭を横に倒せば、自分より数段大きい背中が見えた。汗に濡れた首筋。眼鏡のフレームの端が体越しに覗ける。
 両手がボールを受け止める。構え。唇が軽く開いて息を吸う。
 シューズが跳ねる。腕が滑らかに伸びる。指先が弾く。綺麗なシュートフォーム。目は真剣で、ただ、ゴールしか見ていなくて。
 高弾道で放たれたそれは、リングに掠りもせずにネットを通過して、着地した。
 ――ばん、ばん、ばん。
 いつかバウンドする力もなくなり、ただ転がっていくだけのボールの行き先を眺めていたら、
 ――あ。
 我に返った。
 見惚れていた。
「…………」
 体を起こす。いつの間にか、頭の上にあったはずのボールがころころと離れていた。慌てて足を床に着け、取りに行く。
 ボールを手にした、その瞬間。
「こんばんはー。遅くまでお疲れ様―」
 体育館の中に、明るい声が反響した。
 振り向いて見ると、ダッフルコートを着込んだ女子が戸口に立っていた。
 バスケ部の子だ。名前はわからないが名字はわかる。出席番号は大抵一番であろう安達さん。「あれまだいるのー?」なんて時々顔を覗かせて、たまに差し入れでジュースの缶を置いて行ってくれる。
「おー、そっちもお疲れ。今帰り?」
「うん。私も残って練習してたんだけどねー、やっぱり高尾くん達ほどは無理」
「そりゃーそっちは女子だろー? いっつも残って練習してるだけで偉いって。な! 真ちゃん!」
 眼鏡のレンズが、一度だけ出入り口に向いた。
「……そうだな」
 そして緑間は、言葉が終わればまたシュート練習に取り掛かり始める。愛想も小想もない。
 安達の方はスクールバッグを肩に掛け直して、「あはは、ありがとう」なんて少し気まずそうにしている。
 ――あんにゃろう。
「ったく愛想ねーなー、うちのエース様は」
 なので代わりに高尾が、にこにこと笑みを浮かべながら歩み寄っていく羽目になるのだ。
 女バスの安達さんと言ったら、少し大人しめでほんわかした空気を纏ったお嬢さんで、容姿も相まってこちらのクラスでも「いいよな」と時たま噂になるくらいの人気者である。女子からも男子からも好かれるタイプだ。高尾も数回話したが、真面目そうだしはにかんだ顔が可愛いという印象で、悪い感情は抱いていない。そんな彼女なのに、この男は全く興味がないらしい。バスケ馬鹿め。
「うわ、もう外真っ暗だな」
 入口から外を覗くと、既に辺りは紺色ばかりの筆を洗ったバケツの中のようで、見晴らしも最悪になっていた。教室の灯りも全部消えている。
「冬だから、ただでさえ日が落ちるの早いしねえ。それにさっむいよー」
「えー帰りたくねー」
 今は運動した後だから平気が、きっと着替える頃には熱も冷めて、余計寒く感じるのだろうと思うと辟易する。女子は自分よりも大変そうだ。コートを着ていても薄いスカートとソックスは隠れず、膝小僧の辺りが剥き出しのままなんだから。
 そのときふと気が付いた。
「……あれ。もしかして、帰り一人?」
 いつもは少し話した後、友達が呼びに来て帰るのが定番なのだが。そういえば今日は、いつもより来るのが遅かったかもしれない。
「うん。友達、風邪で休んじゃって」
「マジで? じゃあ危ないし、今日は送ってくわ」
 「えっ」と彼女が驚いている隙に、
「おーい、話聞いてたー?」
「聞いていた。異存はない」
「おっけ、これ頼んだ!」
 腕を振りかぶってボールをパスする。ノーバウンドで受け止めた緑間が、自分が使っていたものと一緒に片付けに向かった。高尾も体育館の隅に置いていたタオル類を拾いに行く。
「え、そんな、悪いよ! 私は大丈夫だから練習して――」
「別にたまにはいいじゃんな?」
「むしろ一人で帰らせたらオレ達の不手際というか気が済まないというか心情的に気色悪いのだよ」
「よっ、紳士だねぇ真ちゃん!」
「言い出したのはおまえだろう」
「ん? それ褒めてくれてんの?」
「馬鹿な。おまえは当然のことを言っただけなのだよ」
「だよなー。だから全っ然気にしなくていいぜ?」
 タオルを首に掛けて、笑ってひらひらと手を振る。
 緑間は既に、照明のスイッチがある場所に到着している。
 そんな二人の姿を見て、彼女はやはり恐縮した様子だったが。
 最後には「じゃあよろしくお願いします……」と小さく頭を下げた。

「リヤカーはー……っと……」
「さすがに無理だろう」
「取られることはまずねーしな。置いてくか」
「す、すいません……」
 マフラーに顔を埋めるようにして、一番小さいのを真ん中に据えて、三人並んで校門を通過する。
 雪が降るような季節になった街は、やっぱり非常に寒い。分厚いコートを着ていても、布地のどこかに穴が開いているのではないかと思うほど、空気は鋭く冷たかった。
「さっっっみい!」
「冬が寒いのは当たり前なのだよ」
「んな屁理屈はどうでもいいの! とにかくさみい! 外出たくねー!」
「おまえ、夏にも同じようなことを言っていただろう」
 そっちは暑い暑いだったが、と喋る端から、緑間の吐息が白く曇っていく。それを見て高尾はやっぱり寒いじゃん、と喚きたくなったが、なんとか堪えた。隣で安達がくすくすと笑っていた。
 歩道を歩いていると、自動車が空気を煽ってきて、余計に寒い。ポケットに両手を突っ込む。コートの中は自分の体温で温もってきている。まだ着たばかりなので僅かだが、今は涙が出るほど有り難い。
「でも、もうすぐウィンターカップだよね。私なんか今から緊張してきちゃって……」
「あーわかる。先輩も監督も最近ピリピリしてっしさあ。俺らも戦いたい奴いるし、大変」
「なんか居ても立ってもいられないというか、練習してもし足りないよね」
 会話は盛り上がるまではいかないものの、弾んでいる。ただし二人の間でだけ、というのが余りの一名のマイペースさを物語っているが。
 途中で緑間がタンマを掛けて自販機でしるこを買い、それにつられるように高尾がコーンスープを、安達がココアを買った。
 スチール缶で暖を取る。まったりした空気が流れ出す中、
「――あ、の、そういえば緑間くん」
 不意に放たれた彼女の声は、少し先ほどと色が違っているように聞こえた。
「何だ?」
「緑間くんってすごくシュート上手だよね。コートのどこからでも入るって、何かコツでもあるの?」
 私もシューターだから気になって、と彼女は言う。
 緑間は考え込むように黙り、間を稼ぐようにまた缶に口を付ける。
「……コツ……何だろうな。腕を鍛える?」
「ギャハハ! なんだよそれ!」
「黙れ高尾。……まあ、とにかく練習あるのみだろうか?」
「んー、やっぱりそうかぁ……」
 隣を歩く異性はココアを両手で支え、真面目に考え込んでいる。
 高尾は思わずずっこけそうになった。
「そんな答えでいいのかよ?」
「え!? でもなんか、緑間くんが努力って言ったらすごく信憑性あるというか」
「その気持ちはわからなくもねぇけど……」
 踏切に差し掛かる。いつものやかましい警報音は鳴らなかった。鉄のレールを跨いで、止まることなく前へ進む。
「つか安達さんシューターだったんだ? 知らなかった」
「うん。……実は、中学のときから緑間くんのフォーム綺麗だなって思ってて、こっそり参考にさせてもらってたんだよ」
 照れくさそうな彼女の横顔を見ながら、おーと感嘆を漏らした。さすがキセキの世代ナンバーワンシューター。女子への影響力も凄まじかったようだ。
 ――ていうかこの流れ。
 あれだ。
 完全に安達さん、緑間の方と話したがっている。
 しかし避雷針のように話を全部高尾が受けてしまっていて、緑間は黙りっぱなしだ。
 ――お邪魔虫ってやつだなーオレ。
 本人はそうは思っていないかもしれないけれど。
 コーンスープを煽りながら、ぼんやりと思案を始める。
 正直かつ失礼な話だが、自分がいなくなると会話が途切れそうな気がしなくもない。彼女の根気に掛かっている。しかし今のこの調子なら、意外ともつかもしれない。
 ――そんな憧れの元帝光生だし、いろいろ聞きたいこともあんだろ。
 だが自分がいれば確実に緑間は話さない。
 ――ここは強硬手段で行くか。
 駅に着き、プラットフォームに立つ。幸い、三人とも乗る電車は同じだった。電光掲示の赤いデジタル文字によれば、到着まであと三分。空になった缶はそこで捨てた。
 間もなく電車が参ります、なんてアナウンス。
 通勤ラッシュより少し遅いくらいの車内。しかし三人並んで座れるほどのスペースは空いていない。
 乗り込んだ瞬間、緑間の眼鏡のレンズが一気に曇り、高尾が大爆笑してはたかれた。
 女子を手すりに掴まらせてから、ドアの近くに適当に立つ。時折がたん、と乱暴に振動しながら、電車は夜の街を突っきっていく。暖房が効きすぎていて、マフラーをしていたら暑いくらいになってきた。
 三駅ほど過ぎ、車掌が次の到着地の名前を流し始めた辺りでスイッチを切り替える。
「安達さんってあと何駅くらい?」
「ん、次の駅でもう降りるかなー」
「あ、じゃあ真ちゃんと一緒じゃん」
「えっ」
「は?」
 二人同時に反応があった。
 嘘だ。緑間の最寄りは確かあと二駅ほど行って乗り換えて、三駅ほど先。
 ちょうどいいタイミングでドアが開いた。
 彼女が降りる。パスをするときのように、自分より数段でかい方の背中を全力で押す。長身はよろけながら、うまいこと電車の外に追い出された。
「つーことで真ちゃん頼むわ! ごゆっくりー」
 手を振っているうちに、ぷしゅー、と音をたてて扉が閉まった。緑間が何か捲し立てているが、分厚いガラス越しには全く聞こえないので笑顔でいなす。明日事情を説明しておしるこを奢ってやるから、それで勘弁してくれ相棒よ。健闘を祈る。敬礼でもしてやりたい気分である。
 発車。
 同級生たちの姿はあっという間に遠ざかっていく。
「はー、よっこいしょっと」
 空いていたシートに腰かけて、マフラーを外した。ふかふかした座席はもったりと気だるい熱を持っていて、車体は子どもをあやすように微かに揺れていて、気を抜くと疲れた体では寝てしまいそうだ。
 正面を見てみれば、見慣れた風景と、建物の灯りが流れていく。ガラスに映った自分は一人だった。そういえば昨日緑間の家に行った帰りも一人だったな、なんて思い出して、
 ――真ちゃん、昨日のことは何も言ってこなかったな。
「…………」
 目を閉じた。
 思い浮かべたのは何故か、数十分前に見た、緑間の後ろ姿だった。
 ――緑間くんのシュートフォームが綺麗だと思ってた、か。
 そんなの、自分だって昔から思っていた。寸分違わず思い出せるくらいに。本気で見惚れてしまうほどに。
 きっと自分が一番、近いところで見ている。
 なんて、そんな風に張り合っても何も意味がないのだけれど。
 ――ほんっと、なんというか。
 マフラーの上で唇が苦笑いする。
 あの緑間真太郎がこんなに近くにいるなんて。
 半年経った今でも、現実味がないというより。
「夢みたいだよ、なぁ――」



 翌朝。
 緑間真太郎は自分を怒らなかった。
「おっはよー、真ちゃん」
「……おはよう」
 昨日と同じく、レンズの奥からやや不機嫌そうな目を向けてくるだけである。
 烈火のごとく怒られると思ったのに、こうも自分の身に帰ってこないと逆に怖い。嵐の前の静けさなのではないかと邪推してしまう。
「あれ? チャリ……」
「昨夜学校に置いて行っただろう」
「あ、そうだったな! ははは!」
 しかし通学路でもいつも通り。
「二人ともはよー。緑間ー、いい加減黄瀬くんのメアド教えてよー」
「断る」
「ケチ!」
 下駄箱で女子と会ってもいつも通り。
「……おい高尾、オレの顔に何か付いているのか」
「え? ……いや、……別に?」
 朝練が終わってもいつも通り。
「緑間ー、おまえ前だと黒板見えねぇから先に後ろの二列から好きなとこ選べ」
「…………」
 ホームルームの後、席替えタイムに突入してもいつも通り。
 ついには昼休みまで火山は爆発しなかった。
 ――安達さんとうまいこと話が弾んで、有意義な時間が過ごせたんだと解釈していいのか……?
 気まずさに耐え切れなくなり、いつも一緒に昼食を取っている緑間に「飲み物買ってくる」と言って席を抜けた。今は購買でパックの牛乳を買い、教室に戻る途中である。
 ――だったらそう、気に病むこともないのかもしれねぇけど……
 面と向かっては聞きづらい。昨日は嘘ついて送らせてごめんな、なんてさっさと謝ってしまえば楽になるだろうか。落ち着かない。
 ――んーでも、謝り逃げじゃ自分がすっきりするだけで、全部解決したことにはならねぇよなあ。
 牛乳パックを弄ぶように空へ放り投げる。
 隣のクラスの教室を通りかかる。
 すると窓越しに見た生徒たちがやたら、ヒートアップしているように見えたので、
「おーい、何騒いで」
「うわ高尾! おまえタイミング良すぎだって!」
 覗いてみたら、同じバスケ部員の――名前なんだっけ、顔は覚えているし話もするのだが思い出せない――に、小声と身振り手振りで「しゃがめしゃがめ」と怒られた。
 釈然としないながらも大人しく両膝を折って、窓の枠組みの影に隠れる。頭上を通り抜けていくのは九割が女子の声だ。それも「有り得ない」とか「ていうかあんな奴のどこがいいの!?」とか、どうも殺気立っている様子である。手持ち無沙汰に廊下でふらふらしている生徒はのどかな昼休みを満喫しているのに、温度差が天と地ほどもある。
「……なんかあったの?」
 隠れろと言われても、自分は身に覚えがないのだが。
 名称不明の彼は、中の様子を一度伺ってから、声のボリュームを押さえて尋ね返してくる。
「安達ってわかるか?」
「あー知ってる知ってる。女バスの子だろ?」
「そうそう」
 それからさらに神妙な顔を作り、厳かに、
「……なんか、緑間に告ってフラれたらしいわ」
 一瞬頭が真っ白になった。
 一拍置いて、自分はどうしようもなく酷い奴だと思った。
「……あ、え!? 嘘、マジで!?」
「バカ声でけえよ!」
「も、もしかして泣いてる?」
「いや、泣いてない。本人はむしろすっきりしたって笑ってんだけど、ほら、女子って村社会だろ? 他の奴がいきり立ってんだよ。ありゃ放課後辺り、緑間相手に百姓一揆でも起こす気だぜ」
 神妙な顔で放たれたその一言で――鍬や鎌を手にした女子の大軍が、豪華な着物姿の緑間の屋敷を襲撃するのを想像してしまった。
「ちょ、妙に的確だな、その例え」
「だろ。天下の緑間様も怒り狂った女子相手にゃ一巻の終わり、年貢の納め時だ。その話で行くと緑間が大名なんだけどな。なむなむ」
「あ、はははは……」
 彼は褒め言葉で気を良くしたのか、大袈裟にも目を閉じて両手を合わせてみせる。
 しかし高尾はそれどころではない。
 今日噂になっているということは、告白したのは間違いなく昨日だ。緑間が言いつけ通り律儀に彼女を家まで送って行って、そのときに事が起こったのだと、容易に想像がついた。
 意外だったが――考えてみれば納得は行った。むしろ気付かなかった方が不思議なくらいだ。
「世の中何があるかわかんねぇもんだなぁ……」
 思わずぼやけば、目の前のが神妙な顔で「全くだ」と相槌を打った。
「……ていうか女子ってああいうのがいいもんなのか……?」
「唯我独尊でプライド高くて近寄りがたくて変人でってか? でも確かに、真ちゃんって案外隠れファンが付いてんだよなぁ」
「あーでもなあ……あいつイケメンだし成績もいいし、一年なのにうちでスタメン張ってるしなあ。努力家だし……わかるような気もちょっとするわ……」
「ははは、ちょっとかよ」
「当たり前だろ。オレはあんな我儘な奴ずっとはカンベン」
 それから名称不明くんは高尾の顔を一瞥して、
「おまえも。よくあいつに付き合ってやってるよなぁと思うよ」
 ひどく、ありきたりなことを言った。
 耳にタコができるほど聞いた台詞だった。チームメイトやクラスメイトから何度も何度もぼやかれた。
 なんだか急に、氷水にでも付けられたように、気分が冷めていくのを感じた。
 ――あー、もしかして。
 自分に身を隠せと言ってきたのは、緑間と仲が良いからか。見られたらとばっちりに遭うと思って気を使ってくれたのだろう。
 ――それはありがたい、けど。
「あー……いや、オレは」
 別に付き合って「やってる」わけじゃねぇよ、と言いかけて、だがそれだと相手が気分を悪くするのではないかと思い至って、口を噤んで、だがどう返事をすればいいのかわからなくなって、そして。

「――あの、みんな!」

 未だ女子の声が騒がしい教室の中から鋭く響いてきた、凛とした声に、耳を奪われた。



 結局女子の群れは、部活終了のチャイムを合図に敵を襲撃した。
「ちょっと緑間ァ! 話あんだけど!」
 怒鳴り声と共にコートのドアが勢いよく開けられる。大坪や宮地まで常の態度を忘れ、突然現れた下級生達を目を丸くして見ていた。
 ただ一人、緑間だけが冷静に。眼鏡を指で押し上げながら、戸口の方につかつかと歩いて行って――練習着のポケットから、畳んだルーズリーフを取り出した。開いて、女子たちに掲げて見せる。
 高尾が離れた場所から覗いた限りでは、上の方にちょこちょこと何かが書かれているのみで、ほぼ白紙に近かった。
 唇が動いて、緑間が何か喋ったのがわかる。しかし遠くて聞き取れない。
 次の瞬間、緑間はルーズリーフを女子に渡し、大音量の黄色い声が挙がった。女子の軍はきゃあきゃあ盛り上がりながらどこかへ行ってしまい、すぐに一人残らず消え失せた。
「……なんじゃありゃ」
 訳がわからず現場に駆け寄る。ちょうど近くにいた木村が緑間に話しかけているのが見える。
「……緑間おまえ、女子から何か恨みを買うような真似でもしたのか?」
「いえ。全く」
「し、真ちゃん、今何したんだよ?」
「別に。ただ、たまたま黄瀬のアドレスと電話番号が書いてあった紙がポケットに入っていたから、捨ててきてほしいと渡しただけなのだよ」
 この男は鬼だ。
 そんなことを嘯くチームメイトを見て高尾は、今頃同じように練習しているであろう、モデルの他校生に心から同情した。
 しかしそれでコートの平穏は守られ、バスケ部員が流れ弾を喰らうこともなく。何事もなかったかのように居残り組は練習を再開した。
「おまえらもほどほどにな! 明日怪我したとか言ったら切るぞ!」
「わーってますって! 宮地サンもお疲れしたー」
 いつものように、高尾と緑間の二人が最後まで残る。
 しかしやがて、最終下校時刻が来て。
「今日もつっかれたなー」
 ボールをしまって制服に着替え、防寒具を身に着けて、
「あ、チャリチャリ」
「――高尾」
「ん?」
「今日は歩いて帰らないか」
「……いーけど。どういう風の吹き回し?」
「たまたまそういう気分だっただけだ」
 夜に敷かれた帰路を、えっちらおっちら歩きだすことになる。
 道沿いにある最寄りのコンビニに入る。軽快なチャイムといらっしゃいませー、という店員の声が出迎える。同時に、緑間の眼鏡のレンズが一気に曇った。いつものことながら高尾が爆笑する。
「んー……ピザまん……肉まん……カレーまん……」
「遅い。どれでもいいからさっさと決めるのだよ」
「真ちゃんは最初から決めてっから早えぇだけじゃん! ちょっとくらい待てって!」
「もういっそ全て買ってしまったらどうだ」
「それじゃ一個一個の有り難みが薄れんの! んな金もねーし!」
 レジの前でくだらないやりとりを交わした後、結局肉まんと缶だけを購入して、店を出る。
 熱と柔らかさが掌に凍みる。小さなレジ袋から白い包みを取り出して剥がせば、ふかふかの生地は湯気で少し元気がなくなっていた。勢いよく齧りつく。あんに辿り着かなかった。もう一回。
「一口いる?」
「いや、いい」
「せっかくオレとの間接ちゅーのチャンスなのにー」
「尚のこと必要ないのだよ!」
「んなムキになんなくてもいーじゃん。ほんと冗談通じねーなー」
 笑いながら肉まんの断面を覗く。茶色い肉としいたけと白い湯気が顔を出している。
 隣の様子をちらりと窺う。緑間はマフラーの隙間に差し込むように、缶の淵を唇に押し付けていた。パッケージに書かれているのは勿論おしるこである。毎日毎日同じものを買って、よく飽きないものだと思う。
「……そういえばさ」
 唐突に切り出す。
 しかし口を開いたはいいが、果たして何の関係もない自分が一枚噛みに行ってもいいのか、迷った。
 多分黙っておくのが正解だ。知らないふりをしていれば向こうから話を振ってくることもないだろうし――実際、相手はきっと話したくないから黙っていたのだろうし――、地雷も踏まずに済む。
 だが、気になるものは気になる。
「真ちゃん昨日、女バスの安達さんにコクられたって、マジ?」
 しん、と。
 辺りが静まり返った。
 背にしたコンビニのライトのせいで、自分の顔も相手の顔も陰っている。もこもこの装い。たなびいては消える吐息。
 自分より数段上の位置にある唇から、漏れている。
「――本当だが」
 淡々とした声で返事が来た。
 話を振っておいて、うわ、と、一瞬狼狽えてしまった。
「あー……やっぱそっか。いや、実は昼にたまたま教室行ったとき聞いちゃってさあ」
「騒ぎになってたか?」
「超なってた。あ、でも本人が言いふらしたんじゃなくて、周りが勝手に騒いでただけだかんな?」
「わかっている。安達はそんなことをする奴ではないだろう」
 緑間はいつもの仏頂面でもう一度缶を煽る。
 ただ一つ、うん、と頷いた。
「……あの子さー、ほんといい子だよな。真ちゃんが女子からボロクソ言われてるの聞いて、すげー必死でフォローしてくれてたんだぜ?」
「……何て」
「『バスケに集中したいからって断られて逆に安心したの、私は一生懸命バスケやってる緑間くんが好きだから、緑間くんは何も悪くないんだよ』って」
 あのとき声を挙げた彼女の、意を決した顔が脳裏に甦る。
「それ聞いてさ。真ちゃんもったいないことしたなー、と思ったよ」
 そう。今は駄目でも、彼女が根気よくアプローチしていれば、もしかしたらうまくいっていたかもしれないと思うくらいには――もったいなかった。
 彼女がそう言った瞬間、驚いて。納得して、同意して、理解した。
 再び肉まんに口を付ける。マフラーのおかげで体が温もってきた。母親が風邪を引きたくないなら首を温めろとうるさいのは尤もだと、こういうときにだけ思う。
 二人分の足音と、薄暗い風景。
「……あの子、真ちゃんがバスケしてるとこ、ずっと見てたかったんじゃねーかな。中学のときに知って、研究して、高校行ったら一緒でさ。残って練習してるの見かけて、ああいいなあって感じて、もっと近くで、もっと長く見てたいなあって、そういう気持ちがさ」
 溢れて、溢れて。
「止まんなくなっちゃったんじゃねーかなって、思うんだけど」
 余計なことを言っているのは自覚していた。
 それでも、言わないと気が済まなかった。
 緑間は顔色一つ変えず、缶を煽って口をもきゅもきゅ動かしている。どうやら餅に当たったらしい。
「――それで」
 ごっくん、と大きく喉を鳴らして飲み込んだ、その口で相手は言葉を紡いだ。
「安達がそんなに良い奴だったから、自分から乗り換えて付き合えば良かったのに、とでも言いたいのか? おまえは」
 一瞬耳を疑った。
「え、……あ、やっぱ怒ってた?」
 聞くと、小馬鹿にしたような目で睨まれた。こんなに恐怖を感じる無言の肯定は初めてである。――まあ、何もわからなかった昼よりは断然マシだが。
「二人きりでいきなり放り出された上におまえが『ごゆっくり』などと言うから気まずいことこの上なかった」
「す、すいません……」
「ごめんで済んだら警察は要らない」
 いつもなら適当に言いくるめてごまかすが、今日ばかりはそうもいかなかった。
「……今日の昼にあっちにも『バレてたんだよね、気使わせてごめん』って謝られたっつの……いや、でも知らなかったんだよ俺……ほんとに……」
 そんなベタな展開がトントン拍子で繰り広げられるなんて思わないじゃないか。必死で謝罪されて、こちらが申し訳ないくらいだった。
 途方に暮れて、たははと力無く笑う。すると緑間が目を丸くしてこちらを見下ろしてきた。
「――知らなかったのか?」
「知らなかった。真ちゃん変人で有名だし、バスケのことでいろいろ話したいんじゃねーかなーって思って送り出しただけで、なーんも考えてなかった」
「…………」
 そしてまた前を向いて、思い出したようにしるこを啜る。
「…………、……正直、安心した」
 ぽつりと緑間が呟いたのは、しばらくしてからだった。
「え? 何で?」
 今度は高尾が横顔を見上げる。
 緑間はなんだか不貞腐れたような、照れくさそうな表情を浮かべていた。
「――言っただろう。あんな思わせぶりなことをするから、おまえがオレから離れたがっているのではないかと、思っていたのだよ」
 それから彼は視線を下げて、「二日前にあんなことをしたばかりだし」とボソボソ付け加える。
 わあ、と声を挙げたくなった。
「……あー、でも、普通に行ったらそうなるわな……うん、ごめん、真ちゃん」
「…………」
 緑間は返事もせず、むっつりと黙りこくる。
 いや、今回はこちらが悪い。それはわかっているのだが、この男、本当に冗談が通じない。
 でも、少し嬉しい。
 ――こいつがこんな風に本音言うのって、滅多にないし。
 たまに面倒くさいけど、その分可愛げも窺えるというか。
「……実はオレも」
 だからだろうか、言わなくていいと思っていたのに。
 つい本音が口からこぼれ出た。
「しょーじき、安心した」
「何にだ」
「真ちゃんが断ったって聞いて」
 その後思いっきり自己嫌悪したが。
 別に自分達は惚れた腫れた、告白なんかして真っ当にカップルやってますというわけでもないのだ。「なし崩し」とか「なあなあ」という表現が実にしっくりくる。付き合ってやっているわけでも、もらっているわけでもない。お互い嫌じゃないから触れ合って。嫌じゃないから隣にいる。
 そんな関係は、ひどく不確かで、不安定で脆く見える。
「でも、勿体ないってのも本音なんだよな。すごいフクザツな心境。もし付き合うことになったとしても、簡単に掌返して、『おめでとう』って言ったと思うぜ。その方がみんな幸せだし」
 思い出したように肉まんを齧った。もうかなり冷めていた。
「なんてか、バスケで繋がりすぎてて、バスケがなくなったらどうなんのかなーって思っちゃって。……真ちゃん、大学行ったらバスケやめるんだろ?」
 どっかの偏差値の高い医学部に行くとかで。
 無言の肯定が返ってくる。
「このままズルズル、なあなあで付き合ってってさ。高校卒業して、ある日『ああバスケしてる真ちゃんかっこよかったな、もっかい見てぇな』なんて思っちゃったらさあ。……すげえ薄情じゃん、オレ。黄瀬のアドレスに群がってった女子とそう変わんないってか」
 キセキの世代の奇跡はいつか必ず終わる。他は部活動を越えてバスケに関わるのかもしれないが、緑間真太郎の奇跡は六年限定だったというだけのことだ。
 あの、見惚れるようなシュートフォームも、いつかは見られなくなる。
「でもオレ、帝光に負けた日から悔しくて、悔しいと思いながらも惹かれて、おまえばっかり見て追いかけてきちまったんだよ。……そしたら遠くにあった光が、今こんなに近くにいて、一緒にバスケしてる。先が保証できないのに、そーいう自分も情けなくて嫌なのに、離れたくないんだよ。真ちゃんに一番近くて、一番かっこいいとこが見れるこのポジション、誰かに譲りたくねぇの」
 我儘だ。子どもみたいに、時間に対して駄々を捏ねているだけと自覚している。
 でも、できることならずっとこうしていたいと。強く強く、願ってしまう。
「先がわかんねぇのって、結構、怖いもんだったんだな」
 白い生地の、最後の一欠片を口の中に放り込む。
「真ちゃんが人事を尽くすってうるさいの、今ならちょっとわかるわ」
 咀嚼しながら喋るともごもごする。
 緑間は先ほどから何も言わない。おしるこの缶にはまだ中身が詰まっているだろうに、力無く左手にぶら下げているだけだ。黙って、こちらの話を聞いてくれている。
 嫌われただろうか。
 ――でも、こんなにぶっちゃけたらしょうがないな。
 いつの間にか、足はいつもの踏切に向かっていた。
 どこからともなく、サイレンの音がした。
 警告する。その先に行くには一度立ち止まらなくてはならない。道はいろんな事情が混み合っていて、個人の好き勝手に、スムーズには歩けないのだ。赤いランプが上下にちかちか瞬いている。隣のコートが立ち止まるのにつられてに自分も止まる。遮断機が降りてくる。がたん、がたん、と近付いてくる、車体とレールが揺れる音。
 ぶわ、と風が吹いた。
 見慣れた白いボディーが目の前を横切る。
 眺めて、ぼんやりと風を受けていたら、いきなり右手が引き寄せられた。
 顔が近付いてくる。
 ふわ、と鼻に掛かった息の後で、唇が触れる。
 今度は、甘ったるい餡の味と匂いがした。
 身を切るような冷たい空気の中で耳も頬もじわじわ痛むのに、それだけが温かくて柔らかい。レンズ越しに見た睫は長い。一度、二度と大きく瞬きしたが、やがて肩の力を抜いて、目を瞑ってそれを受け入れた。
 しかしあっという間に騒音は通過していって、車体の尻尾が視界の端から見えなくなる頃には、屈んでいた体は上から退いていた。漏れた端から呼気が白く煙っていく。
「……でもさ」
 意を決して言ったのに、出たのは頼りなくて小さな声。
「今のオレは、ずっと、真ちゃんの傍にいたいと思ってる。馬鹿やって、チャリで二人乗りして、家遊びに行って、たまに……こういうことして。恋人とかはっきり名前が付いた関係じゃねぇけど、居心地いいし、幸せだなーと思うから。ずっと、今みたいなままで、一緒にいたいと思ってる」
 目を見るのが怖くて、わざと視線を下にずらした。
「それだけは、本当だから」
 空白があった。
 我ながら情けないと思った。
 遮断機が、まるで旗を振るかのように空に戻って行く。
 ぽん、と、頭の上に手が置かれた。
「それだけで、充分だ」
 やっと顔を上げた。
 指の先を辿ると、鼻のてっぺんを赤くして、緑間は微笑んでいた。
 いつになく柔らかで穏やかな笑顔だった。少し寂しそうなのに、とても、優しげで。
 驚いて、そして悟る。
 よく考えれば、この間家で事に及びそうになったときも、こちらの負担ばかり気にしていた。緑間は、自分が想像していた以上に、高尾のことを想ってくれていたのだ。
 いつか高尾が耐えきれなくなって別れを告げたとしても、一つ溜め息を吐いて、いつものように眼鏡を押し上げて――きっと、今と同じように笑うのだろう。快く、背中を押して送り出してくれるのだろう。逆にこちらが泣きたくなるような台詞でも言って。
 ――そんな風に大事にしてくれる相棒と。
 バスケがなくなっても繋がっていたい。
 ぐっと唇に力を込める。
 やっとの思いで一歩大きく踏み出して、レールの上に足を置く。追い抜かす。くるりと振り向けば、相手は放置していたおしるこの缶に再び口を付けていた。
 くしゃくしゃになりそうな顔で笑みを取り繕って、ヤケクソ混じりに叫ぶ。
「……秀徳卒業したら! いっぱい、エロいことしような、真ちゃん!」
 途端、緑間が噎せた。
「ちょ、何やってんだよー、だいじょぶ?」
「おま……が、いきなりそんなこと言うからなのだよ!」
「そんなことって、真ちゃんが言い出したことじゃーん?」
「言いはしたが……!」
「ぎゃはは、真ちゃん顔真っ赤」
「この暗いので見えもしないのに言うな!」
「いやいやオレのホークアイで全部御見通しだから」
「ホークアイはそういうスキルじゃないだろう!」
「わっかんねーぜー? オレの見えてるものなんて真ちゃんには見えねーんだしさー」
 軽口を叩きながら境界線を跨ぐ。通過する。もうそこに障害物は一つもない。
 夜の街は相変わらず寒い。だが胸は小さいながら、軽やかに弾んでいる。
 感謝の言葉は、心の中だけで呟いた。
 ずっとこうしてもいたいけれど、――夢みたいなんて言っていないで。ずっとこんな風に、相手に選んでもらえる人間であろうと。
 ひっそりと誓って、白い息を吐きながら、高尾は未だに反論を続ける緑間に向かって笑いかけた。