快晴と呼ぶに相応しい、実に良い天気だった。
 太陽が照って、冬場でも充分に暖かい。商店街はのどかで、暇そうな主婦やきゃいきゃいとはしゃぐ子どもの姿がちらほら見える。もう少し時間が経てば、学校帰りの若者たちの姿も現れることだろう。
 そんな光景を半分退屈そうに、半分微笑ましそうに見ていたランサーだが、
「こんにちは」
 突如現れた不吉な影を見るや、表情が一気に曇った。
 陰険かつ陰気な雰囲気。見覚えなら嫌と言うほどあった。
「……あんた、こんなとこで何してんだ」
 丘の上の神父さんこと自分のマスター、言峰綺礼だ。
 いつもの裾の長いコートにカソック、全身真っ黒で、首から提げた十字架だけが辛うじて金色だ。栗色のくせっけに、愛想が良いと言うよりこちらを小馬鹿にしたような(少なくともランサーにはそう見える)ニヤニヤ笑い。ゆったりと後ろで手を組んでいる。
「客に対してその言い草はどうかと思うがね、ランサー」
 言峰は実にゆったりとした声で言う。平和な商店街を背景に、色とりどりの可憐な花々を足元に置いて。まるで似つかわしくなかった。水の上に油でも溢したかのようだ。
 しかし腹立たしい、非常に腹立たしいことに、彼の言うことは理に適っているのだった。
 仕方ない、とランサーは、レジの脇に置いていた椅子から億劫に立ち上がる。最速の槍兵と謳われる彼だが、それだけの馬力をこの神父に出してやる義理はないと言わんばかりだ。自分が嫌そうにすればするほど言峰が面白がるのはわかってはいるのだが、従順に言うことを聞いてやるのもそれはそれで癪なのだった。
「ハイハイお客様今日は何をお求めでー?」
「花束を一つ。適当でいい」
 するとランサーはハ、と小馬鹿にしたように笑った。
「花束? あんたが?」
 あからさまな嘲りの声にも、言峰は眉一つも動かさない。いつもの余裕げな態度と涼しい顔で、ぬけぬけと言葉を紡ぐ。
「何か不都合でもあるかね?」
「いや、似合わねぇなーと思って。何すんの? 食うの?」
「珍しく空想的なことを言ったところで申し訳ないが、無論違う」
 ランサーは辺りを見回して、さて、と思考を巡らせ始めた。
 選択肢が無限というのは意外と一番難しい。制限があった方が手段が狭まって、逆にうまいこといくものなのだ。もしかしたらこの神父、わざとだろうか。
 赤、黄、白、橙、紫、青。花は大きさもバラバラだ。バケツの水を吸っていきいきと咲き誇っている。
「じゃあ女にでもやんのか?」
 言った後であ、しまった、とランサーは後悔した。この神父が花屋に来るというのがあんまりらしくないので、面白がって口が滑らかになっていたのだ。
 しかし言峰は変わらない。平然と返事をする。
「まあ、そういうことだ」
 槍兵は怪訝な顔をした。
「……あー、そう」
 それだけ言った。
 女にやるのか――と言っておいて、今の言峰の周囲に女っけなど一つもないことを、彼は知っていたのだ。しかし言峰の返事は肯定だった。この男は腹立たしいほどに嘘は吐かない。ということは、贈る相手は一人しかいない。
 ランサーは一度唇を舐めて、慣れた手つきで花を選び始めた。淡い色合いの女だから、明るい色が合うだろう。そんなことを思いながら。 ランサーの複雑な心境をよそに、言峰は興味深げに店内を見回している。バケツの前で身を屈め、昏い瞳に鮮やかな花の色を映していく。
 赤、黄、白、橙、紫、青。
「しかしおまえが花屋とはね」
「何だよ、文句でもあんのか」
「いいや。ただおまえはもっと粗野かと思っていた。意外だった――という言葉が一番適切かな」
「まーバイトは適当に入ってるだけだがな」
「ちゃんと知識はあるのか?」
「一応は」
「これは?」
 手繰る手を止めて、声のする方に目をやった。
 言峰が橙色の花を指さしていた。
「……ダリア」
「これは?」
「カサブランカ」
「これは?」
「ポインセチア」
 ふむ、とマスターは唸った。どれも正解だったので皮肉を飛ばせず、少し不服そうだ。ランサーにはそんな心境が丸分かりである。
 ――つくづく性悪だなこの神父。
 そんなんで聖職者やってていいのか。大きな溜め息を吐く。
「ではこれは?」
 しつこい。
 その花と相変わらず外に跳ねている髪をチラっと見た後で、苛立ちを隠しもしない声で答えた。
「勿忘草だよ」
 茎を適当な長さに切って纏める。透明なフィルムとレースで飾って、リボンを心なしか力を込めて結ぶ。
「ん! 仕事の邪魔だから代金払ってさっさと帰れ!」
 明るい、橙色が基調の、かすみ草とガーベラが多めの小さなブーケ。手元に押し付けて、ランサーはレジにずかずかと足を向ける。エプロンが翻り、濃い青色をした長髪が宙に揺れる。
 言峰は呆気に取られた顔をしたが、彼が機械を指でしきりに叩いて唸るのを見て、ふっといつもの笑顔を取り戻した。言われた額を釣り無く出し、気障に後ろ手を振って店から出る。
 もう来るな。そう言わなかっただけランサーは耐えた方だ。本人の基準では。
 それでも、小さな、それでもよく目立つ明るい花の束を抱えて、リボンとコートの裾を揺らして、口元に薄くだけ笑みを浮かべて歩いていく、言峰の姿は。
 来たときより少しだけ、不吉度合いが薄まっているような気がした。



「あー疲れたっと」
 提げたレジ袋がガサガサと音をたてる。大あくびしながら、広場の白いタイルを踏みしめる。
 と、いつもは無視する、横の小道に目が止まった。
 立ち止まった後、少しだけ迷って、脇に反れた。
 冬木教会の墓地はそんなに広くない。墓石は夕日を浴びても鈍色だ。まるで眠っている者が決して目を覚まさないのを暗示しているよう。
 探し物はすぐ見つかった。
 空と同じ色の花束が、その石の前にぽいと捨ててあったからだ。
「水ぐらい差せよ……」
 せっかく買ったのに。このままではきっとすぐ枯れてしまう。
 何もせずに、手向けるだけ手向けて去っていったのだろう。なんとなくそんな気がする。
 あれはあまり彼女と向き合おうとしない。
 座り込む。人差し指で、まだ生き生きと咲き誇っているガーベラの花びらを、ちょいとつつく。
「……もったいねーの」
 と言いつつも、ランサーは花を水に活けようとはしない。
 今度は間違えたりしない。
 昼の一つの台詞。「女に贈るのか」、という質問。そこまで踏み込む気はなかったのに、加減を誤った。相手の急所じゃないかとか怪我の具合でなく、間合いの取り方に失敗したと思った。
 そこは自分の関わるべき範囲ではなかった。大嫌いで、すぐ別れるから余計にだ。
 恋人だろうと親兄弟だろうと、敵になったら容赦なく刃を向けるのがランサーの信条だ。誰であれあっさりと殺す。いつだってそうしてきた。今だってそうする。
 だが――腕と心は違う。
 嫌いな奴は嫌いな奴のまま、むしろ殺す機会があれば喜んで戦って、心をすっきりさせてさっぱりと忘れたい。無理に憎む必要はないが、進んで好きになる必要もないだろう。
 好きの反対は無関心。
 都合上殺すこともできないし、できるだけ深いところまで関わらない。それがランサーの意向だった。
 どうせ英霊の座に還ったら忘れるような奴なのだ。
「よっこいしょ……っと」
 立ち上がる。
 夕日に背を向けて、教会に足を踏み入れる。礼拝堂は誰もいない。中庭もしんと静まり返っている。
 ポケットから潰れかけの箱を出して、煙草を一本取り出した。火を付ける。レジ袋はやはりバサバサとうるさい。
 ドアを開けてリビングに入ると、言峰はコートをソファの背に引っ掛けて、分厚い本に目を通していた。ランサーはただいまなど言わないし、言峰の方も顔を上げもしない。音をたてるのはやはり、ランサーの手元にある袋だけである。
 花瓶などという気の利いたものはここにないので、仕方なく細長いコップを棚から取ってきた。
 キッチンに行ってそれに水を入れ、レジ袋から中身を取り出す。
 青色の小さな花が三本。切った根元を濡らしたティッシュに包み、その上からアルミホイルで被って、リボンで止めている。全部外した。萎れかけのそれを生けて、また居間に戻る。
 さてどこに置こうか――
「……おい、ランサー」
「あん?」
「それは?」
「あー、店のもうだめそーなやつ。もらったっつーか押し付けられた」
 迷った結果、ブラウン管の横にちょこんと置いた。
 殺風景な茶色い部屋に、青い色が咲く。ほんの一つだけ――色が増える。
「彼女にでもやれってよ」
 は、と言峰は嘲るように笑った。
「それはいいな。今度持ちネタとして使わせてもらおうか」
「別におかしいことねーだろ」
 勿忘草。
 神父の手にある本のページが、一枚捲られる。
「確かその花の名の由来は、恋人のために騎士がこの花を摘もうとするも、川に流されて死んでしまったときの断末魔からだろう?」
 Vergiss-mein-nicht.
 私を忘れないで、と。
「へー、そりゃ知らなかった」
 ランサーはしかめっ面でテレビから離れて、言峰の正面、ソファに腰を下ろした。ガラスの灰皿を引き寄せて、床に零れそうになっていた残骸をとんとんと落とす。煙を吐く。
「……ていうか、それ持ちネタにするってあんた……」
「何かね?」
「いや、何でもねぇ。今更だった」
 性根が腐っているのは初対面のときからだった。本当に嫌な奴である。このニタニタした笑顔がさらに腹立つ。
「昔の鎧というのは重くて動きも鈍るのだろうな」
「知らねー。俺んとこの戦闘装束ってあれだし」
「青いあれか」
「そうそう」
 言峰は一瞬眉を顰めたのに気付いたが、ランサーは特に何も指摘しない。
 また一ページ。
「まあ、おまえは最速と謳われるサーヴァントだからな。そういうことはないか」
「勿論。この俺がんなドジ踏むかよ。ひょいっと取ってひょいっと渡してやるっての」
「おまえの物言いは実に短絡的でわかりやすいな、ランサー」
「はいはいどーせ俺は頭悪そうですよほっとけ! ていうか最速って知ってんなら普通に戦わせろ! まどろっこしい戦略取ってんじゃねえ!」
「おやおや。さすが狗はよく吼えるな」
 足を組み直し、したり顔で神父は言う。
 瞬間、ケルトの英霊から殺気が立ち上った。紅い瞳が剣呑な光を放ち始める。表情は不快感が剥き出しだ。
 言峰は禁句を口にした。
 ――だが。
「てめぇ……マスターで命拾いしたな」
 怒ったらこれの思う壺だ。こいつは人の嫌がる顔が好きなそういう奴なのだと言い聞かせて、自分を諌めるのが一番賢い。一思いに殺してしまったら現界できなくなる。願いはないが、聖杯戦争への召喚に応じ、気の合ったマスターが闇討ちにあってこんなのに引き合わされても従っているのは、強者と――こんな儀式でもないと顔を合わせない、英霊たちと戦うためだ。
 静まっていく殺気を見て、言峰はようやく本から顔を上げた。
 昏い瞳が青を映す。楽しげに細まる。
「なんだつまらない」
 口と裏腹に、おまえこそ命拾いしたな、とそれが言っていた。
 あちらには令呪という絶対命令権があるのだった。処分してしまうことなど易いのだろう。
 ――忌々しい。
 前言撤回だ。こいつのマイナスはちょっと良いところを見てしまったくらいでは帳消しできない、嫌いだ。大嫌いだ。あーさっさと殺してやりたい。
「……つか、あんた知らねぇのな」
 へっ、と笑って、まだ半分ほどある煙草を皿に押し付けて火を消した。言峰は少しだけ怪訝な顔をする。それで僅かに気分がすっとした。
「あの花の花言葉」
「――忘れるな、だろう」
「まだあんだよ」
 花言葉なんて一つだけじゃない。いろいろある。まるで人間の表情のように。
「勿忘草の花言葉は――」
 真実の愛、だ。
 一瞬、部屋が静まり返った。
 遅れて。
 くすくすと、口元に手を当てて、神父が笑い出した。
「何だそれは――笑えない、ああ、笑えないぞランサー」
「あんた今思いっきり爆笑してんじゃねぇか」
「そりゃあ可笑しければ笑うさ」
「意味わかんねぇ」
 言峰はずっと笑い続けている。この男がこんなに笑っているのは初めて見た気がする。
 ――何がツボに入ったのかはわかるけどな。
 あの小さな青い花にそういう意味があることでなく。
 そんな意味を持つ花がこの教会にあることが、可笑しかったのだろう。
 ここには、自分たちしかいないのに。
 付き合うのが面倒になって、ランサーは席を立った。そんなに面白いなら何時間でも笑って腹を捩じらせて呼吸困難になって死ねばいいのだ。
 席を立つ。がしがしと頭を掻いて、風呂でも入ろうかとそんなことを考え出す。
 シャツの裾が翻り、
 濃い青色をした長髪が宙に揺れる。
「なんだそれは」
 ドアを開けた瞬間、男の呟きが聞こえた。
「忘れないことが愛だとでも、言いたげではないか――」
 何十年だろうと、何年だろうと、何ヶ月だろうと、何週間だろうと、何日だろうと。
 胸に留めていること自体が愛だとでも、主張したげじゃないか。
 ははは、と自虐的な笑い声は。
 ドアを閉めた瞬間、聞こえなくなった。



 次の日、あの花はブラウン管の前から姿を消していた。
 まあこいつしかいないと思いながらも一応尋ねると、神父は笑ってこう答えた。
「ああ、おまえに似て青くて気に入らなかったので、食ってしまったよ」



 その原理で行くなら――男は女を愛せていた。
 けれどその実感は男にはなく。自覚はなく。狂おしいほど求めていたその感情の手触りはなく。
 そしてまた男は絶望した、というところだろうか。

「俺には関係ねぇけど、な」
 呟いて、掌を目の上に当てて滑らせた。光を失った瞳は気色悪かったが、簡単に瞼で隠れてくれた。
 言峰綺礼は死んでいた。
 ゲイ・ボルグで貫いたから心臓は完全に破壊されている。もう息を吹き返すことは絶対にないだろう。駄目押しで自分が放ったルーンもある。炎は薄暗い部屋に即座に散って、辺りを橙色に包んでいる。
 ――人間らしくないくせに人間らしい。傷だらけで、嫌な具合にそれを見せてくる。隠しているのに自分の目は勝手に見てしまう。
 しかし絶対に救われない。
 それでも、そいつは道を決めて、納得して、迷わず歩いていたから、何も言わなかったけど。
「……くっそ、それがあんたの一番むかつくとこなんだよ」
 血を吐いて、左胸には大きな穴が開いて。消えかけた右手で、適当な箇所を軽く殴った。言峰は何も言わなかった。最後の最後まで、この男は自分などちゃんと見ていなかったな、と思う。
 喧嘩と命令くらいしかされていない。教え子を助けたいと言ったときは何だこいつも愁傷なこと考えるんだな、と思ったが、結局それも騙されていただけだったし。本当に気に食わない。
 なのに。
「あー……ヤだな」
 この体は燃えるのと消えるの、どちらが先だろう。
 思いながら天を仰ぐ。相変わらずの橙色。いつか添えられていた花をふと思い出す。
「こんな死に方したら、忘れられなくなるだろうが――」
 そんなの一番笑えない。
 ――でも、連れてくって約束しちまったからなあ。
 少女にか、男にか。
 仕方ない。座に戻っても忘れられなかったら、そのときはそのときだ。
 口元が自嘲気味に吊り上がった。
 状況は笑えないが、可笑しかったのだ。

 やがて青い色は完全に消えて。
 カソックも十字架も炎に包まれる。
 戦争の裏でひっそりと。

 最後は灰も残らなかった。



/アイロニーブルー
 或いは皮肉な青。