「あ」
 ベッドサイドにある時計を見て、不意にギルガメッシュが声を挙げた。
 何事かと思ったら、彼はごろんと体をこちらに向けて、頬に柔らかそうな金髪を引っかけて、楽しそうに可笑しそうに、ふふふ、と笑って。
「綺礼」
 慈しむような声で名前を呼んだ。
 一瞬面食らった。
「生誕おめでとう」
 先ほどのギルガメッシュと同じものを見たら、時刻は午前零時を少し過ぎた辺りだった。一拍置いて、ようやく事を理解した。
「……ああ……」
 布団の中に縮こまって、塞ぎ込んだ返事をする。
「……よく覚えていたな」
「道行く雑種に祝われて愛想笑いを振りまくおまえの様が、毎年愉快でな」
 青年は口元に手を当て、また声をほろほろとこぼすように笑っていた。
 毎年そうだ。待望の第一子を授かった父の触れ込みで、冬木教会に通う信徒のほとんどが綺礼の誕生日を覚えてしまっていた。朝のミサをやればおめでとう、昼に泰山に行けばおめでとう、夕方買い物に行けばおめでとうという、十二月二十八日はお祝いだらけの一日を過ごす羽目になる。綺礼にとっては不都合なことに。
「そうか――忙しくてすっかり忘れていた」
 女じゃあるまいし、誕生日を祝おうなんて気も起こらないし。逆に、性分的に祝われても困る。
 ごろん、と寝返りを打って、天井を見る。
 静寂と闇に包まれた部屋。さっきまで稼働していたはずのエアコンは、タイマーが切れてすっかり沈黙している。暖かみは相手と自分の体温だけだ。衣服を脱いで肌を晒して、馬鹿みたいに貪りあう。たまにあることだし、もう拒むのも面倒になったこと。そんなところまで見せる仲になったのかと、それだけ長くこれといたのかと思うと、なんだか変な心地がする。好きとか恋人でもないのに、在り方がまさにそれだからだろう。
 ほんの少しだけ、目を細める。
 倦怠感と眠気。
「……毎年のこの日、眠る前に。また一歩聖杯戦争が近付いて、また一歩私の寿命は減っていくのだなあと。そんなことを、思うよ」
 まるで天秤のように、一つ沈めば一つ浮き上がる。片方の皿は空に近付いていく。止まりはしない。言峰綺礼の命は砂時計のように、そのリミットが決まっていた。
「我ながら悲観的だがね」
 笑いもせず、独り言のように言った。
 隣で、僅かに身動ぎの音がした。
「――皮肉なものだな。生者であったおまえは心臓のみ蘇生し、あの泥と繋がって。死者であった我は受肉したせいで、魔力が切れるまで永久に生きられるなんて」
 本当にそうだ。まあ、罰が当たったのかもしれないが。
 そう思うと自嘲的な気分になって、口元に笑みが浮かぶ。
「そう考えると、おまえの生誕日は今日ではなくあの日なのかもしれないな?」
「ではおまえの誕生日もそうなるな」
「ほう、我にもそういう日があったのか」
「生を受けたのだから誕生日があるのが道理だろう?」
「そう言われればそうだな」
 一緒の日だ。
 あの紅蓮の地獄。建物が崩れ、人の脂の焼ける匂いの中、昏い空の下で、産声を挙げた。
「ああ、そうだ綺礼」
 ギルガメッシュはとぼけたような声を出した。
「我のこの体な。心臓が無いのだよ」
 思考回路が一時停止した。
「……え?」
「疑うなら触ってみろ」
 横を向く。青年は紅い瞳をこちらに向け、枕に頭を預けて、ほら、と自分を誘う。
 ゆっくりと、右手を伸ばす。
 滑らかな素肌の感触を、掌に馴染ませる。自分の手と同じくらい温い。その下で脈打っているはずの臓器は、確かに、ない。
 位置が違うのかもしれないと思ってまさぐっていたら、くすぐったい気持ち悪いと怒られた。それで渋々手を離す。
「『この世全ての悪』が逆流した際、おまえに持って行かれたのだろうな」
「どうしてもっと早く言わないんだ」
「日常生活に支障はないし、体も問題なく動くからまあいいかなと」
 当のギルガメッシュは平然としたものだ。「まあいいか」で数年過ごしていたのだから、今更と言えば今更だが。この英霊は何故変なところでこうも大雑把なのだろう。
「だが、それでは不完全なのに」
 彼はそういうことを一番嫌うのではないだろうか。
 眉を顰めながら問うが、彼は余裕に満ちた、ゆったりした声で、
「おまえはそういう、完璧なものが欠けて歪になっているのが好みだったのではないのか?」
 柔らかく紅を細めて、くて、と頭の位置を変えて。
「それが嫌ならとっくにおまえの心臓を抜き取っているさ。こんな風に祝ったりも、しない」
 まるで、愛おしそうに。……そんなことを、言うものだから。
「――なあ。朝が来たら、一緒に朝食を採ろう」
 少しだけ、妙なことを言いたくなった。
「同じものを食べて同じものを飲もう。昼はちょっと遠出して買い物に行こう。おまえの欲しがっていたコートでも買って、映画を見て、夕飯は酒を飲みながら良いところで済ませて。夜は風呂に入って、おやすみを言って眠りにつこう」
 来年も。再来年も。
 そんなことを繰り返そう。
 とは、言わなかった。
 ――そう言うには綺礼は相手のことを理解しすぎていたし、身分を弁えすぎていた。自分の引いた線と相手の引いた線は平行で、どちらも踏み越える気も踏み越えさせる気もなかった。今は笑っているけれど、それを言ったらギルガメッシュはきっと断るだろうとも思った。
 目の前にいる、黄金のサーヴァント。枕に手を置いて、金色の柔らかな絹糸を仄かに乱れさせて。整った体を自分の傍に横たえている。
 好きとか恋人ではないのだ。これとは。
「……残り時間がゼロになるまで、私はおまえと一緒にいるのかな」
 ぽつりと呟いた。
「さあ。それはおまえ次第だろう。そうしたければ我を飽きさせぬように励めよとしか言いようがない」
 予想通りの答えが返ってきた。
「……そうだな」
 ありきたりに言って、また、天井の方を向いた。何となく顔が見辛かった。
 かち、かち、と時を刻む音が流れていく。自分の中の時計の砂も、一緒にさらさらと落ちていくかのようだ。
 そうして、ぼんやりとしていたら。
 不意に。
「でもまあとりあえず」
 毛布が浮き上がる音がした。
 温もりが圧し掛かってきた。
 白い掛布団を頭に被って、体を起こして、ギルガメッシュが被さるように顔を覗きこんでくる。思わず目を合わせる。彼は不敵な顔をしている。悪戯に成功した、とでも言わんばかりに。
「今この瞬間。短い制限時間付きでも、おまえがいて良かった」
 くつくつと喉を鳴らして、綺礼の前髪に指を差し入れる。
「せっかくもう一度生を授かったのだから、残りをめいっぱい楽しめ。言峰綺礼」
 ぐしゃぐしゃと掻き回される。犬にでもなった気分だ。思わず顔を顰めるが、耳は声をちゃんと拾っていた。
 何故だか泣いてしまいそうだった。
 自分の本性を唯一知っていて、それでも己の道を是として、受け入れてくれる人。だがその人は決して自分のものではなくて、自分も相手が絶対に必要というわけでもなくて。この距離が丁度いいとわかっているのに、それが虚しい。
 ――心からの気持ちで欲しいと言えたら。
 きっと、どれだけ無惨に殺されても構わないのに。
「――おまえも誕生日おめでとう。ギルガメッシュ」
 だから結局、今のありのままの自分の本心を伝えることにした。
 手を伸ばして、その頬に触れる。柔らかくてすべすべと触り心地がいい。
「いつか別れる日が来るけれど。きっと、あなたと会えて良かった」
 するとギルガメッシュはふふんと、自信満々で胸を張った。
「当然だ。我を誰と心得ておるのだ、不届き者」
「……台風のようで、巻き込まれる方は時折たまったものではないがね」
「何だその言いぐさは。この我の威光に触れられて有り難いと思うべきだろうが」
「はいはい、そうだな。おまえはそういう奴だな」
「おい! そのはいはいとか言うのやめろ! プラチナむかつく!」
「はいはい」
 言ったそばからギルガメッシュは不機嫌そうに眉を潜めていた。
 それが可笑しくて、綺礼はようやく、笑うことができた。





 冬の金属は外の気温を映して、ひどく、冷たい。
 それでも死体ほどではない。あれほど虚しくもないし哀しくもない。
 毎年の、儀式のようなものだった。
 薄汚れた金色の十字架に。そっと唇を押し付ける。
 名前は言わない。その持ち主はもういない。
 声はただ空に向けて、呼気と一緒に消えていくばかり。
「そう、おまえは弁えていたから居心地が良かった。残り時間のマイナスを夢見ることもなかった。……だけれど少しだけ、こう思う時はあったよ」
 もしも心からの気持ちで、欲しいと伝えられたら。
 自分の気持ちは変わっていたかもしれない、と。
「まあ、そうしないからこそのあいつで、我らなのだが、な」
 鎖を首に掛ける。十字架は胸元でしゃらりと揺れる。
 雪の中、ポケットに手を突っ込んで、背筋をしゃんと伸ばして歩き出す。
「――今日のこの日に、生まれ落ちたこと」
 歌うように、一人呟く。
「心から、おめでとう」
 その声は寂しげだが。顔は、自嘲気味に。でも柔らかに、笑っていた。



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 2012言峰誕