生きているものは皆尊いと父は言う。
 しかし生き物は別の生き物の犠牲なしでは生きていけない。
 肉。牛、豚、鳥、鹿、猪、羊。四本足で地を駆け、呼吸をし、子を作るもの。魚。尾をくねらせ水中をくぷくぷと回遊する。もっと種類が多い。野菜、果物、穀物。植物だって生き物だ。呼吸をして、どんどんと茎を伸ばし、葉を茂らせるのだから、あれは間違いなく生きているのだ。
「だから食事をするときは、そのことを忘れないように。そして今日も美味しい食事が摂れる幸福を主に感謝するように」
 父からはそう習った。
 料理。スパイスや調味料で味付けし、焼く、煮るなどの工程を経て完成するもの。食事。口の中に入れ、噛んで、唾液と混ぜて、飲み込む。腹を満たす。満腹中枢を刺激する。その行為はとても気持ちがいいものだ。三大欲求の一つだから当然だ。……何かの命を食っているというのに。
 ――ああ、ならば。
 生まれつきの罪人である自分には、どちらも行う資格がないだろう。
 他の生き物を糧に生き永らえる価値もなく。
 ささやかな快感を得る資格もない。
 ある日、そんなことを閃くように考えついて、綺礼少年は食事を絶つことに決めた。

 しかし父から出された朝食をどうしようか、という問題が発生した。食べなければ父はどうした、腹の調子が悪いのかと自分を心配するだろう。それはいけない、自分の行うことで父を困らせてはいけない。ごみ箱や流しに捨てても簡単に知れてしまう。
 今日の朝ごはんはトーストと、昨夜の残りのコンソメスープだった。かりっと焼き上げられた食パンは艶々していて、塗り残しのバターの塊が熱でとろりと溶けている。ジグザグを描くように、その上からメープルシロップが掛けられる。椀の中は野菜がごろごろ転がっていた。じゃがいも、にんじん、キャベツ、煮込まれて、柔らかく実がほどけている。透明なスープが温かく湯気を立てている。
 綺礼は口を付けない。ただ、途方に暮れたようにそれを見下ろしている。必死で思案を巡らせながら、椅子に座り、テーブルの上のトレイを見つめている。
「綺礼、早く食べないとミサに遅れてしまうよ」
 父の声が焦りを煽る。吹き消される前の蝋燭の炎にでもなった気分。
 待ったを掛けるように銀色のスプーンを手に取った。舌根の辺りに溜まった唾を飲み込む。
「……主よ、今日も」
 いつもの癖で祈りの言葉を口にした。目の前がぐるぐる回る。どうしよう、どうしよう、どうしよう。そう思っていたら。
 ――ぴーんぽーん、と。
 間延びしたベルの音が、部屋に響き渡った。
 礼拝堂の入口にある来客用のものだ。誰か来た。父が椅子を引いて応対に部屋を出る。ミサのことで信者の誰かが訪ねてきたのかもしれない、と思う程度でこんな朝早くに何の用だなんて考える暇もない。ほっと一息吐いて、もう一度食事を見て、綺礼はトレイを引っ掴んだ。そのまま駆け足で部屋を出て、裏口に向かう。
 ――そうだ、これは生き物の死骸なのだ。
 だったら土に還すのが通りだろう。ようやっとそう、思い至ったのだ。
 廊下を突っ切りドアを押し開ける。外に出る。冬の早朝の丘の空気は澄んでいて、空もまだ寝ぼけたようにぼんやりと白かった。遠くで鳥が泣いている。ドアは閉められていたので父は中に入ったのだろう。窺ってから、建物の後ろを出て正面に回る。
 タイルの敷かれた道を外れ、とてとてと茂みの中に身を隠す。
 適当なところでトレイを地面に置いた。スープが寒い、と抗議するように、未だゆらゆらと白い煙を立ち上らせているのが見える。一度教会に取って返した。園芸用のステンレス製の紅いスコップは小さな手にはずっしりと重かった。地面も固い。
 それでも、尖った先端を突き刺す。
 クッキーでも割るかのような音がして、少しだけ地球が抉れる。
一生懸命、墓穴を掘り進める。
ざくっ。ざくっ。ざくっ。ざくっ。
 ぐちゃぐちゃのリズム。スコップを握る指の筋が痛くなってくる。込み上げてくるのはどうしようもなく苦い罪悪感。
ざくっ。ざくっ。ざくっ。ざくっ。
雑音がだんだん遠くなって透過していく。耳に馴染んでいく。
そうしてやっと、手ごろな大きさの穴を作った。
 ふう、と一つ息を吐く。あとはこの中に朝食を流し込むだけ――完全に警戒が抜けきった頭で、トレイを取ろうと振り返る。
 と。
 だいぶ薄まった湯気の奥に、でっかい蛇が鎮座しているのが見えた。
「!?」
 驚いて思わず後ずさりする。
「どうした続けろ、王が許すぞ」
 よく通るやや偉そうな声。視線を上げれば白いシャツが見えて、ぴかぴかと眩しい、変な形をした腕輪が見えて、真っ赤な二つの瞳と目がかち合った。折った自分の膝の上に肘を突き、つまらなそうな顔をしている。
「あなた――」
 どなたですか。
「我の拝謁の栄に浴してなおこの面貌を知らぬと申すなら、そんな蒙昧は生かしておく価値すらない」
 物騒なことを青年は真顔で言う。しかしその難しい台詞回しは、まだ幼い綺礼にはほとんど通じなかった。それより青年の不思議な容姿と雰囲気に呑まれるばかりだ。父の巡礼の際に異国の大人は沢山見てきたが、決定的に何かが違う。ちゃんと人の形をしているのにまるで人間らしくない。整いすぎなのか。なんだか気味が悪い。そう、この間図書館に行ったとき本で見た、幽霊みたいだ。
「あの」
「何だ?」
「ちょっと、触ってもいいですか」
 すると青年は少しだけ口元を吊り上げて、頬杖をやめた。
「良いぞ」
 その手を、人差し指をぴんと立てて、綺礼に伸ばしてくる。
 おそるおそる、自分の指先を押し当てる。
 皮膚と肉の抵抗がちゃんとあった。
「ふふ、イーティーだな」
 上機嫌に青年は笑う。青年が指をぐいぐい押しつけてくるのに対抗して、力を込めるがまるで歯が立たない。指先が第一関節まで反り繰り返って地味に痛い。
「イーティーってあの、宇宙人が出てくる映画のことですか?」
 自転車で空飛んだりするやつ。
「おお、知っているのか」
「この間テレビで……もしかして宇宙人なんですか?」
 すると青年は大口を開け、喉を傷めるのではないかと思うほど高らかに笑い出した。
「あっはっははははははは! 本当におまえは面白いことを言うな!」
「…………」
 失言だった。腹を抱えて、涙まで流して笑われた。
 恥ずかしいやらバツが悪いやらで、下を向いて縮こまってしまう。
「まあ、そう思うのも無理はないか――間違ってもいないしな」
 くく、と笑い声を最後吐き出して、彼は。
「ところでこんなところに食事を持って、そんなところに穴を掘って、おまえは一体全体何を始める気だ?」
 さっきまで自分と力比べをしていた指先で、ぴっとトレイを指さす。振り向いて気付いて、
 ――しまった、怒られる。
 そう思ったが、こういうとき嘘を吐くのはもっといけないということを、綺礼は知っていた。
 膝小僧を握る手の力がぎゅっと増す。青年も同じポーズで、興味深そうに綺礼を見ている。
「……食事を」
「ふん」
「絶とうと思って――でも、それは父には内緒にしておきたくて。やり場に困って」
「ふうん」
 綺礼は大真面目なのに、青年の相槌はなんとも適当である。
 紅い瞳だけで、彼は朝食の載った盆を見やった。もうきっとすっかり冷めてしまっていると思う。本当に人の死骸にでもなったかのように。
 すると青年は、少し考え込んで手を振った。
「それをよこせ」
 綺礼は不思議に思ったが、立ち上がって言われた通りにする。フォークと皿二つを差し出すと、青年は尻を地に付け、胡坐を掻いた膝にそれを載せた。
 見下ろして、一拍置いて。
 スプーンを掴み、スープ椀を持ち上げて、口を付けた。
 そのまま一気に傾けて、酒でも飲み干すかのように豪快に喉に流し込む。スプーンで野菜を掻き寄せて、それも全部口の中へ含んだ。
 腕を下ろした青年の頬ははちきれそうに膨らんでいて、リスみたいだった。歯を動かす音が聞こえてきそうなほど大きく咀嚼する。喉が上下する。
「…………」
 形のいい眉が盛大に顰められた。
 しかし彼は次、とトーストに手を伸ばす。ミミから齧る。歯。白い。
 呆気に取られた。
「……あの」
「ん?」
「おいしいですか?」
「これがうまそうに見えるか」
 見えない。油分が固まり水分が抜けてしまった食パンは、見るからにおいしくなさそうだ。
「本来なら食事と女には出し惜しみせん主義なのだがな」
 もぐもぐ、ごっくんと口の中を空にしたところで、意地悪く笑う。
「まあ、おまえが要らぬと言うのなら、おまえの糧は余さず我が貰い受けようということだ」
 もったいないからな、と。
 彼は、笑いながらそう言った。
 綺礼は正直訳がわからなかった。ただこの青年のその笑顔はやはり不気味で、言葉には落とし穴のような暗い裏がありそうで、嫌な予感がした。ああやっぱりこれは人間ではないのだと、確信はできた。
 何か怖いものだ。
 魔性だ。
「――あなたは信徒の方ですか?」
「いや。ここへはたまたま来ただけだ」
「……お名前、教えていただいてもよろしいですか」
「何故だ」
「知らない人とは話さないように言われています」
 んー、と青年は唸った後で。
「無理だ。事情があって口にできん」
 ますます怪しい、と綺礼は眉間に皺を寄せた。しかし自分ではきっとどうにもできない。
 逃げよう。
「すみません、黙って抜けてきたので父が心配していると思うんです。家に帰っても、いいですか」
「ああ。良いぞ」
 存外あっさり承諾を得られた。
 空になった皿と椀、汚れたフォークを纏めてトレイに乗せ、立ち上がる。
「どうもありがとうございました。では失礼します」
「礼には及ばんさ。――我は退屈を持て余しているのでな。また用ができれば来るといいぞ」
 食パンをまだ口に詰め込みながら、青年はもごもご言った。綺礼は一礼して茂みから飛び出す。そのまま走った。教会なら自分を守ってくれる、そう思ったからだ。振り向きもせず逃げ出した。
 随分と長い時間経ってしまった気がしたが、キッチンに父の姿はなく、綺礼が流しの食器桶に皿を沈めた辺りで戻ってきた。
 それからミサの間、先ほど会った金髪の青年のことをずっと思い出していた。
 ――明日もあの魔性は来るのだろうか。
 あそこで、暇そうに頬杖を突いて、自分を待っているのだろうか。
 そうなったらどうしようと悩んだが、いたらいたで仕方ないと諦めた。
 そしてとりあえず便宜上の呼び名を付けた。あの洋風の男とは少しイメージが違うが、言っていることは変わらないと思うので、この間読んだ本から取ることにした。
 『もったいないおばけ』。


 結局、次の日ももったいないおばけは教会にやってきた。
 ミサが終わり、人々が信徒席から広場に流れ出した後。小学生らしい男子の小さな群れを目敏く見つけ、にこやかに声を掛ける。しかしどういうことか、会話が進むうちに連中は揃いも揃って真剣な顔になり、その場に座り込んで何やら話し込み始めたのだ。綺礼が見ていると、一番でかいのが不意に顔を上げた。紅い目と目が合った。すると無言で手招きされ、事情が少し気になった綺礼は大人しく歩いて行って、おばけが空けた隣のスペースに収まった。
「こんなところで一体何の話をして……」
「あ、神父さんの息子もさ、ちょっと聞いてくれよ」
 派手な赤いTシャツを着た、同い年くらいの少年に声を掛けられる。
「ミサのときにさ、一番前の一番左のとこに、水色の半袖着た女子いただろ」
「…………ああ……」
 いたような、いなかったような。
 すると右から横槍が入ってきて、
「こいつこないだその子に一目惚れしてさー! でも話しかけらんねぇんだって!」
 弾けるような笑い声が挙がった。
「だって恥ずかしいだろ! なんて言えばいいんだよ!」
「とりあえず名前聞けば?」
「いやそれ唐突すぎだろー」
「じゃあおまえなら何て言うの」
「い、いい天気ですね……とか……」
「漫画じゃねーんだからさー」
「ねー、兄ちゃんならなんて言う?」
 一瞬どきりとした。
 青年は自分の隣で頬杖を突いて、楽しそうに場を見物していた。
「我か?」
「そうそう」
 んー、と思案する声。その間にハードルはどんどん、地から天まで一気に上がっていく。皆の目が期待で輝いてくる。もったいないおばけはそれを見た後、満足そうに笑んで腕組みした。そしてえらくもったいぶった口調で言う。
「まず真正面まで歩いて行って」
 うんうん、と首まで振った、大袈裟だが絶妙な相槌が入る。
「顎をこう、くいっと掴んで」
「つ……掴んで?」
「耳元に顔を近付けて――」
 おばけはにやり、と口元を緩ませた。
「地を這うように低く、かつ極上に甘い声で。『我のモノになれ』、これだな」
 ぎゃーとかうわあああとか、少年たちが奇声を挙げた。後ろに転げ回っている者までいる。
「かっけー! イケメンかっけー!」
「すげえ! 兄ちゃんだいたん!」
「今後のために覚えておけ、これが王のテクというものだ。これで落ちぬ女はおらんぞ」
 ――いや、ただの不審者だろうそれ。
 綺礼だけが白けた様子で青年を見上げたが、本人は気付いていないようだった。それはもう見事なしたり顔のままである。つねってやりたい。
 その後もあーだこーだと子どもたちは討論会を進めていたが、綺礼は適当にそれを聞き流し、すっかり静かになったおばけに時折視線を送るばかりだった。結局答えは出ないまま解散した。また明日、とか、ばいばいとか、別れの言葉と左右に振る掌の残像を置き土産に。
「励めよ幼童どもー」
 青年は自分の隣に立って、満面笑顔で小さな背中を見送っている。
「あなたは」
 手を下ろして、無表情に尋ねてみた。
「どこかに帰らないんですか?」
「供物がまだだからな」
 盛大な溜め息が漏れた。
「今日は何だった?」
「……サンドイッチです」
「具は?」
「はい」
 ズボンの両ポケットから、ラップに包んだパンを二つ取り出す。おばけは当然のように掌から受け取って、早速包装を剥がして、白いパンを白い歯でむしった。
「味は悪くないが、嫌な具合に生温いな」
「ポケットに入れていたせいですね」
「見つからないように、隙を見て懐に忍ばせたのか?」
 こくり、と一つ頷く。
 すると彼はまた笑った。意地悪く。まるで共犯のように。この人はよく笑うな、と綺礼は内心思った。
「楽しかったか?」
 おばけは気安く尋ねてくる。
「楽しいわけ、ないでしょう……」
 小さな声で返した。
「せっかく父上が作ってくれたものを、こんな風に」
「そうか」
 青年は平然と肯定して、人の憂鬱などよそに平気で自分の朝ごはんをかっくらう。そして呑気に言うのだ。
「だが、そのときのおまえは笑っていたように見えたが?」
 人にとっては、重大なことを。
「――え?」
 しかし瞬間、ぐう、と何とも弱々しい、情けなくて間抜けな音が、場の空気を瞬時に変えてしまった。
「おまえ、涼しい顔をして――実のところ空腹だったのではないか!」
 青年が腹を抱えて爆笑する。綺礼は腹をさすって、中にいる虫に無言の抗議を試みる。しかし相手は知らん顔、何も答えない。
「本当に昼も夜も何も口にしておらんのか」
 父は仕事で留守で、いつもその二つは自分で作っているのだ。手間を放棄すればいいだけの話だった。
「よくそこまで辛抱が効くな」
 感心したように言いつつおばけは、サンドイッチの最後の一欠けらをぽいと口の中に放り込む。
 できますよ、と心の中で呟いた。
 この苦しさも飢餓感も全て罰なのだから。
 それが自分を安心させる。肉体的にも精神的にも、自分が罰を受けていることを認識させてくれる。罪があるものは罰を受けなければ帳尻が合わない。不公平で天秤が釣り合わない。そういう風に世界はできているのだと道徳が教えた。
「――なあ、幼童」
 おばけがしゃがむ。口を動かしながら腕を伸ばして、綺礼の頬を両手で包む。
 おばけのくせに案外、その掌は温かい。
「言っておくが、おまえのそれは修練ではない。ただの痩せ我慢というものだ。幼子に我慢など不要であるぞ。めいっぱい人生を謳歌せんか」
「…………」
「全く阿呆め。おまえのようなのを見ているとついちょっかいを出したくなるわ。全く進歩がないな。死に急ぎよって」
 そして力を込めて、むにゅ、と頬の肉を押しつぶしてくる。おお意外と柔らかいな、とか真面目な顔で言っている。
「……どぅぁって」
「ん?」
「しょうしにゃいふぉ、ここに」
「わからん、言語を話せ」
「――っ」
 思いきり身を引いて、手の中から脱出した。
「余計なお世話です! 放っておいてください!」
 半回転し、背を向けて走り出す。
「お?」
 間の抜けた声。
 目指すは馴染んだ白い礼拝堂。
 だがあと少しというところで足を止めた。
 ――もしかしたら悪いことをしてしまったかもしれない、怒らせてしまったかも、という不安が頭を過ったのだ。仮にも二回もお世話になった相手である。それはまずい、と少年の中の妙な律儀さが警告札を出した。
 おそるおそる、振り向いてみる。
 白いブロックが敷かれた通路。だだっ広くて、隠れられる場所などどこにもない。
そこに座っているはずの金ぴかの青年は。
 まるで最初からいなかったかのように、忽然と姿を消していた。


 しかし次の日になれば、おばけは何食わぬ顔で信徒席に座っていた。父が聖書を読んでいるときは船を漕いでいたが、終わるなり上機嫌で綺礼のところにやってきて、その日の朝ごはんを要求した。
 次の日も。
 その、次の日も。
 それに従って、綺礼の苦痛も増えて行った。
二日目はまだ平気だった。空っぽの腸が、元気のない蛇のように小さく動いているのがわかった。水を飲んだら欲求は少しだけ収まった。父がおやつに、と買っておいてくれたクッキーに目が行ったが、ここで折れたら何も意味がないと手を押し止めた。
三日目になると少しおかしくなった。きゅるきゅるきゅるきゅるとおなかが回る。ぐるぐるぐるぐるぐると目が回る。父に具合が悪いのかと心配された。大丈夫ですと答えた。ああこの人は何も気付かないのだな、と少し思った。気付かせないようにしているのは自分なのだけれど。
四日目にはもう自分がどうにかなっているのがわかっていた。胃が空っぽで脳も回らない。それでもやめようとは思わなかった。
でも、「このまま続けたら死んでしまうかもしれない」とは、うっすらと、思っていた。

「死んでしまうぞ」
 いつものように朝食を持っていったら、おばけは既に食料を手にしていた。丘を下って少し行ったところにあるハンバーガー屋の紙袋を抱えていたのだ。獣くさいファーストフードの匂いをぷんぷんさせ、教会の前にあるベンチに座っている。自分も隣に座って、ぼんやりと天を仰ぐ。空は青い。飛び去る鳥は逆光して、何色かわからない。
 感情でなく一般論で物を言った。
「人間はこれくらいでは死にませんよ」
「いや死ぬ。筋肉とか細胞とかそこらへんが」
「最初からそう主語を付けて言って下さい」
 ショベルカーで土を掬うが如く、おばけは大口を開けてハンバーガーをかっくらう。反対側のバンズの間からはみ出してきたケチャップは舌で舐め取っていた。普通なら下品だと思うだろうに、この男がやると何故かそう感じないのが不思議だ。
 一つなくなれば包みを丸め、紙袋に突っ込んで、そのついでにまた新しいのを取る。いくつ買ってきたのだろう。
「あなたは朝からよく食べますね」
「今日はそんな気分だったのでな」
「食事には出し惜しみしないと言っていませんでしたか」
「折角現界したのだから、安物を口にしてみるのも良い機会だろう」
「物好き」
「おまえにだけは言われたくない。……今日は随分と饒舌だな」
「そうですか?」
 気味悪そうな視線を送られる。
 操り人形じみた動作で首を傾げる。
「――ああ、そう。そうかもしれませんね」
なんだかね。
「今とても、気分がいいんです」
 朗らかに口元を吊り上げる。
 確かに、空腹で死んでしまいそう、という愚痴はあるけれど。
世界に贖う術。ここまですれば許されるだろうという安心感。器は拒むのに知性は喜ぶのだ。
 そして、ああ。こんなにも。
 悲鳴を挙げる、今の自分は生きている。
「…………」
 隣でがさがさと鈍い音がした。
 視界に汗を掻いた、太いストロー付きの白いカップが映り込む。
「飲むか」
「……要りません」
「そうか」
 いなくなる。
 沈黙。
 もぞもぞと身動ぎするおなかの中のパイプ。
 そして。
「きれい」
 それを知っているはずのない声なのに、名前を呼ばれたことに驚きもせず、振り向いた。
 次の瞬間には頬をがっちりと固定されて、近付いてくる、フタを開けたカップから逃れることもできなくなっていた。
 紙の感触が口に噛ませられる。傾けた器から緩慢に液体が滑り落ちてくる。唇に触れた瞬間冷たさを感じた。なんだか粘っこくどろどろしている。泥のようだ。反射的に口を開けると、糖分過剰の甘ったるさが舌を焼く。
「んー! んー!」
 抗議というより発情期の猫みたいな声だった。掴んだ手首は予想より大きい。剥がそうとしてもびくともしない。
 意地でも飲み込むまいとしていたら、おばけがカップの傾斜を急にしてきた。子どもの小さな口はたちまち液体でいっぱいになってしまう。口の端から零れて、黒い子供服にぱたぱたとシミを作る。頬に筋を作る。それでも次から次へ押し寄せてくる。息ができない。苦しい。地上なのに溺れてしまう。
 ――こくん、と。
 喉が動いてから、自分が何をしたのか気が付いた。
「よしよし」
おばけは満足そうに言って、ようやくカップを離してくれた。こくこくともう二、三回飲み込んで、ようやく口の中が空く。途端咳き込む。胃がきゅるきゅると再稼働する。
 水ばかり飲んでいた綺礼にとって、久しぶりの何かの『味』だった。その温度も甘さも驚くほどに強烈だった。
 バニラシェークは冷たくて、器官の持った熱を浮き立たせる。火傷するかと思うほど。中途半端に与えられた食料が餓えを際立たせる。静止していた体が妙に疼く。
口を手の甲で拭う。べとべとした白い液体が纏わりつく。茫然としていたら、持ってきていたトレイが取り上げられた。ロールパンとコーンスープ。
「どうした、要らないのだろう?」
 おばけが笑う。
 にたりと笑う。
 音をたてて装飾を揺らしながら、白い手でパンを取って、口を開けて、自分の元へ連れ去っていく――
「い――」
 やだ。
 なんて言う前に手を掴んだ。男のものと比べたらあまりに貧弱な指で、思いきり爪を立てていた。薄い肌にそれは案外鋭く食い込んだ。本当に、猫のような弱い抵抗だった。
 しかし男の雰囲気は一変した。紅い瞳を細め、何も籠らない表情で、こちらをじっと見つめてきた。
 綺礼は睨み返した。もう自棄になっていた。この体格差では間違いなく敵わないだろう、しかも相手は得体の知れないおばけだ。しかし綺礼はこの男が猛烈に腹を立てていた。にやにやと笑うその顔も。わかったような口ぶりも。中途半端に見せては隠す誘惑も、じれったいわ偉そうだわで腹立たしかった。
 ――でも自分の負けだ。わかったからどうか、自分に与えてほしい。糧を。
 おばけは黙ってパンを差し出してきた。
 綺礼はそれをふんだくって、思いきりかぶりついた。
 焼いてから時間の経ったロールパンは乾いていた。冷たいしぱさぱさだ。それでも食べた。一心不乱に口の中に押し込んで、噛んで、飲み込んだ。コーンスープも、スプーンなど使わず一気に流し込んだ。
「これも食うか」
 青年が紙袋から、丸くて安っぽい包み紙を差し出してくる。何度も頷いた。渡されたハンバーガーはやはりさほど美味しくはなかった。それでも何かに憑り付かれたかのように、食べた。
「う……」
 視界が大きく滲んで、熱い液体が目尻から零れ出た。今度はどろどろしていない。溢れてくるのは、人間の持つ中で一番純粋な体液だったから。
「ふ……、ぅっ、……う……」
 頬いっぱいに食料を詰め込んで、ぐちゃぐちゃにする。
 ぼろぼろ落ちてくる涙を袖で拭う。
「おまえは強欲だな」
 声の後で、大きな掌が頭の上に落ちてきた。
「食うか泣くかどちらかにしたらどうだ。赤子ですら乳を吸うときには泣き止むぞ」
 髪を乱すように。――あやすように、撫でられる。
「――ふ、だが許そう。幸福を追求するのが人間の業だからな。罪など感じる必要はない、おまえは好きなように生きれば良いのさ。ほら、そんな風に殺していないで、存分に声を挙げるがいい。幼子に我慢など不要であるぞ?」
 妙に優しい響きだった。最初感じた不吉さが嘘のように、何故だか安心できた。わんわん泣いてばくばく食べた。ただひたすらに食料を貪った。
 腹が膨れていく。中身が詰まっていく。
 死が遠ざかる。罪が戻ってくる。
 世界にいてはいけないという強迫観念。地に足を付けていくような安心感。矛盾しているのに両方ともを感じた。
 ようやく気付く。
 そう、言峰綺礼は結局。怖い思いや痛い思いをしなくても、生きていたかったのだ。

 それからは、よく覚えていない。
 腹が膨れたせいか泣き疲れたせいか、気付いたら部屋のベッドで眠っていた。
 起きたら途端に腹が悲鳴を挙げて、慌ててトイレに駆け込んだ。さすがに絶食状態が続いた後の暴食――しかもジャンクフードばかり――はまずかったらしい。その日は一日、痛む腹を抱えて寝込んだ。吐き気もしたしひどく気分が悪かった。まるで無理やりどこかから引き戻されたみたい。
 父は仕事を休んで一日中付き添ってくれた。出された粒状の黒い薬は水で飲んでも苦くて、夕飯に出してくれたリゾットはチキンコンソメの味がして、美味しかった。
 翌日、いつもの場所に、あのおばけの姿は無かった。
 一応茂みの中も探してみたがいなかった。
 ミサが終わったとき、恋愛相談を持ちかけてきた小学生のグループがやってきて、あの赤Tシャツは一応無事に女の子とお知り合いになれたのだと嬉しそうに報告してきた。
「ほんとありがとなー。あの兄ちゃんにもお礼言っといて」
 どうやらあの男子連中も、おばけの行方を知らないらしかった。
 元気いっぱい走って家路につく小学生たちを見送る。振っていた手を下ろして、踵を返し教会へ戻る。
 これから朝ごはんだ。今日は確かクロワッサンだった。
 受け渡す前に必ずメニューを聞いてきた相手を思い出す。
 あの華美で、我儘で偉そうな、金髪の青年は消えてしまった。跡形もなく。……一応、ありがとうくらい言おうと思っていたのに。
 ――ああ、でももしかしたら。
 あれは本当にもったいないおばけだったのかもしれない。
 綺礼が食物の大事さに気付いたから、次の子どもの元へ行ったのかもしれない。
「……有り得ないけど」
 一人ごちた。
 まあ、気まぐれな人だったから、どこかで元気にやるだろう。



 教会の白いベッドの中で、ギルガメッシュは目を覚ました。
 外は既に太陽が昇っている。カーテンの隙間から透明な日差しが差し込んでいる。上半身を起こしてから、自分が何も纏っていないことに気付く。臀部にはべたべたと嫌な感触。足を微かに動かすと、温い粘液が腿まで垂れた。
「…………」
 鬱陶しげに頭を掻く。だが彼は何も処置はしない。ベッドから起き上がり、布団を頭にひっかけて、そのまま部屋を出た。
「ことみねー!」
 裸足でぱたぱたと廊下を走る。角を曲がり、居間を覗き込むがいない。庭に出る。いない。
「ことみねー」
 礼拝堂へ向かう。いない。
 地下へ駆け込む。鼻を突く薬品の臭さに一瞬顔を顰める。途中ぬるついた感触があったが無視した。
「ことみねー?」
「何だね」
 いた。
 髪を後ろで結って、Tシャツにズボンといういつもの格好で立っている。手には血糊の付いた黒鍵が握られていた。口元には薄い笑み。上げていたタクトを下ろしてこちらを向く。
「今日は随分と早いお目覚めだな、英雄王?」
「ああ――少し愉快な夢を見たのでな」
「それで起きて早々、ここへ飛び込んできたというわけかね」
「おまえこそ朝早くから元気なことだな」
 刃を消して、足音と共に近付いてくる。その背景には微かな水音と、すすり泣くような声が設置されている。
「そんななりをしているから、一瞬ハロウィーンのおばけがやってきたのかと思ったよ」
 綺礼の何気ない台詞に、つい笑ってしまった。
「?」
「いや、何でもない。――しかしこれは幽霊の仮装ではないぞ。エイリアンだ」
「エイリアン?」
「昔の洋画のな。似合うだろう」
 見せびらかすようにくるりと一周してみせる。白いシーツが風に翻る。
「おまえならば大抵のものは似合うだろうさ」
 綺礼は微笑しながら、歯の浮くような台詞を吐いた。
 一見褒め言葉に見えるが、しかしギルガメッシュにはわかる。これは面倒くさいか無難な一般論を口にしているだけだ。いずれにしろ適当にあしらおうとしている。
 いつもなら叱ってやるがまあいい。
「で、その可愛い宇宙人が私に何の用かね」
「トリックオアモーニング。朝飯をよこさねば悪戯するぞ」
「わかった。すぐ支度をしよう」
 言いながら綺礼はギルガメッシュの腰を抱いて、ひょいと持ち上げた。その足で歩き回られると教会が汚れると思ったのだろう。言うまでもないし抵抗する理由もない。
 後ろからはまだ声が聞こえてくる。十年前にここの神父が引き取った孤児たちのなれの果てだ。たすけてくるしいいたいだれかだれか。助けを求める喉さえもうないほど蹂躙され、壊されたものたち。
 言峰綺礼。人の不幸にのみ幸福を感じる破綻者。
 幸せを願わない人間などいない。福がないと人は狂ってしまう。故に、彼はそれらを糧としないと生きていけない。
 なのに、この男はいつだって一度はその事実を否定する。彼の悪性を否定はしないが肯定もしない王は、その愚鈍さが愉快であり微笑ましくもある。
 罪人と自覚しながら居続けたいと願って。自分で自分が許せない。そんな哀れな男は、この先で、どんな最後を遂げるのだろう。
 白いシーツに包まった青年は、くすくす笑いながら大人しく運ばれる。
 黄金のサーヴァント。そんな彼は生粋のソウルイーター、主食とするのはマスターである言峰綺礼の一部分である。
 しかし彼は決して一度に食べてしまわない。一思いにやってしまいたくなることはあるが、そんな真似は決してしない。指先を小さく齧るように、再生が追いつくように少しずつ消費していく。
 ――そんなことをしたら楽しみが一度になくなってしまう。

 命だけは決して取らない。
 だって。

「もったいないからな」



/もったいないおばけ
 捧げもの。