午前零時が過ぎた頃、街にはまた雪が降り始めた。
 開け放した窓の奥をちらほらと、小さな結晶が舞い落ちる。昼にもほとんど溶けなかった、白い層をさらに分厚くしていく。灰色がかった風景。はあ、と息を吐くと緩く曇った。少し肌寒かったが、なんとなくその光景を見ていたくて、戸は閉めないままでいた。
 紙の乾いた質感。インクの黒。一枚捲って、蝋燭の小さな灯りを頼りに書を読み進める。
 「雪は嫌い。冷たいしすぐ溶けるし、何もいいことないわ」。そうぼやいていたのは、ここに住むツインテールの少女だ。
 一族と弟子、使用人しか住んでいない屋敷の前に行政の除雪機など来るわけもなく、まだ小学生である彼女は雪がたっぷり積もった坂道を上り下りしなければならない。おまけに「かっこ悪いじゃない」と言って長靴を履かないものだから、毎日苦労しているのだ。帰る頃には上等そうなローファーが中までびしょびしょになっており、「まあまあ」と彼女の母親が笑って脱がせてやるのがお決まりのパターンになっている。
 そう、毎年のことだ。
 遠坂に弟子入りして魔術の手ほどきを受け始めてから、もう二年ほど経っている。
 ぱら、とページを一枚捲った。
 夜中に、二階の、やや埃っぽい書庫で本を読むのが綺礼の日課だった。他の弟子の元へ回った本が夜には全て返ってきているし、周りが静かでいい。耳に入るのは、
 ――どさっ。ばさばさばさ。
 と屋根に積もった雪が地面に落ちる音くらいだから。
 勉強熱心と師は感心していたが、彼は自分の本心にはずっと気付かないままだろう。別に魔術でなくても、綺礼が何かを習得しようとする際はこれくらいはやる。自分が打ち込めそうなものは何だって。ただ、それだけなのだ。
 もう一度嘆息する。白いもやは煙のように立ち上る。灯り代わりの蝋燭の炎がちらちらと揺れる。
 紙が捲られる。視線が上へ下へ、ゆっくりと滑る。
「――――」
 そんな微かな空間に。
「あまりこの屋敷に長居するのは勧めないが?」
 声が一つ、ぽつりと落ちた。
 しかしすぐにそれは消えて、しん、と辺りは静まり返る。
 ――やがて。
「……ふん。雑種のくせに勘がいいではないか」
 そんな返事が、姿もなしに届いた。
 どこか冷たい感じのする、男の声だった。
「それだけ魔力を振りまいていたら嫌でもわかる。何をしに来た?」
「何も。適当にふらついていた折に、その炎が目についただけだ」
 綺礼は本から目を離さない。また一枚捲る。
「なら殊更早く立ち去れ。ここにいる魔術師に捕まったら薬品漬けにされた挙句、あれこれ体をいじられるぞ」
「雑種如きに捕まる我ではないが――魔術師というのはいつの時代でも野蛮で無粋だな。くだらん目的のためにそのような愚行を犯しよって」
 折角忠告してやっているのに、どうもそれは逃げる気などないらしい。
「……留まる留まらないは確かにおまえの勝手だが、どうなっても私は助けないぞ」
「ようやく納得したか。だが人の心配より己の心配をしてはどうだ? おまえを食ってしまうなど、我には造作もないことなのだぞ」
 見えないそれは喉を鳴らしてくつくつと笑った。
 凄みのある、不気味な声だった。
 相手は正体不明で、どこにいるかもわからない。見えないというのはそれだけで不気味だ。「正体がわからない」という概念だけで鵺という妖怪を生み出してしまうほどに、人は理解できない何かを極端に恐れる。
 それを声の主は心得ている。
 わかっているからこそ、からかって遊ぼうとしているのである。
「そう言っている時点で、おまえは私に危害を加える気はないのだろう。ならばいちいち目くじらを立てる必要もない」
 が、綺礼は顔色一つ変えず、涼しい顔でそう言い放った。
 声の主は一瞬黙り込んだ。
「それに霊体への対抗手段ならある。私とおまえどちらが強いのだろうな」
「……ほう」
 ひゅん、と声が左に、急に移動する。
「我相手に勝算はある、などとぬかしたのはおまえが初めてだ」
 どこか楽しそうな響きだった。
 気配が頭上に舞い上がって、
「そう訝るな。今の我は武器を全く使えぬ。我はおまえに手出しできない、殴るどころか触れることもままならない。――我はな。ただおまえとひとときだけ、話がしたいだけだ」
「…………」
「要するに気に入った」
 ふふふ、とそれは笑った。
「我も少しの間暇でな」
 なんだか面倒なことになってきた、と綺礼は思った。
「今日のところは一旦去ろう、我にも見たいものがあるのでな。明日、同じ時間にまた来る」
「待て、私は」
「ではな。……言峰」
「え?」
 しかし声は一瞬で消え失せて、返事はこなかった。気配も部屋から消えている。どうやら出て行ってしまったらしい。
 ――何故名前を知っているんだ?
 先ほどのあれは本当に、一体何なのだろう。
 というか明日も来るのか。
「…………」
 それが去ると一気に静寂が戻ってきた。蝋燭はもう根元の方まで燃えてしまっていて、尽きる寸前だ。
外はまだ雪が降っていた。
 先ほどの出来事が、まるでうとうとしていた際に見た夢のようだった。

 そして次の日、本当にそれはまたやってきた。
「よし、ちゃんと来ているな」
「……一つ聞きたい。おまえは何者なんだ? 私を知っているのか?」
 今度は本を閉じて、気配の方にまっすぐ顔を向けて尋ねた。本気だ、ということのアピールだ。
 相変わらず不可視のそれは一度口をつぐんだが、
「……知らないさ」
 と小さな声で答えた。
「おまえがそこまで魔術に傾倒する姿など、知らない」
 穏やかな口調だった。
 何だか意味深だとは思ったが、つついてもこれ以上のことは聞けなさそうだったので、綺礼は詮索することを諦めた。
「そういえば、おまえの名は何というんだ?」
「我か?」
「他に誰がいるんだ。私の方だけ知られているというのも、なんだか心持ちが悪いしな」
「ふむ、我にはよくわからぬ心境だが――言えん」
「言えない?」
 ……真名を他人に明かしてはいけないタイプの異形なのだろうか。たまにそういうのがいる。だとしたら不躾な質問だったかもしれない。
「では通称とか、呼び名はないのか」
「それを言うのもいろいろと不都合があってな……おまえの方で適当に呼べ」
「…………」
 最初から怪しかったが、ますます怪しくなってきた。もういっそのこと成敗してしまおうか。聖職者が霊体とこんな風に話をしている時点で既にどこかおかしいし。
「…………」
「どうした言峰、そんな険しい顔をして。眉間に皺が寄っているぞ」
「この状況が滑稽だとようやく気付いたので、もうおまえを退治してしまおうかと考えていた」
「失敬な奴よ。もしかしたらおまえに幸運をもたらしに来た、とても良い縁起物かもしれんという可能性は考えんのか」
「縁起物とは何だ。招き猫とか?」
「あながちそれは間違っておらんが、夢を叶えるゾウとか」
 言って、彼は自分で笑い出した。
 妖精やら魔性やらの類のくせにえらく属っぽい、と心の手帳にメモをする。
 ひとしきり笑ったのを見届けた後、綺礼はぽつりと呟いた。
「――名前が言えないなら、姿を見せてもくれないのか」
 さっきから幽霊のように不可視のままで、どんな顔立ちをしているのか、ちゃんとそれを見て話しているのかわからない。落ち着かない。
 何よりこの、ひょうきんで古くさい喋り方をする男が、どんな容姿をしているのか興味が湧いていた。
 ねだりも込めた言葉だったのだが、やはり彼の返事は。
「ああ。無理だ」
 きっぱりとした否定だった。
「少し複雑なのだ、我の立ち居地は」
 そう言う彼の言葉には、少し寂しげなものが混じっていた。
 なんとなく居心地が悪くなった。
 しばらく沈黙が続く。
 今日も外は雪が降っていた。朝、玄関を出るなり凛が滑って転んだのを見てしまい、顔を真っ赤にして小さなガンドを打ち込んできたのを思い出した。しん、しんと音もなく。――この男はもしかして、この雪の中を、寒い中飛んで屋敷まで来たのだろうか。そんなことを思う。
「……まあ、細かいことはどうでもいいではないか。それより話をしよう。面白い方が勿論いいが、くだらない話でも何でもいい。夜が明けるまで我に付き合え」
 やがて、彼が言ったのはそんなことで。
 横暴なのに切なげで、どうして自分にそんな声を向けるのだろう、そこまで固執するのだろうと、思いながらも聞けなかった。

 それから一週間、彼は毎晩書庫にやってきては、蝋燭が尽きるまで綺礼に無駄話を吹っかけてきた。
 昼に子どもが雪合戦をしていたとか、雪だるまが作ってあったとか、内容はそんな他愛のないものだった。綺礼は聞き流しつつ適当な話題を時折振って、相手は満足げに打ち返し、とにかく沢山喋った。
 彼はいつも声を弾ませていた。
「……そんなに楽しいか?」
 ある日やや呆れた風に聞いたら、彼は然り、と元気よく返事をした。

 一度だけ。彼の実体も見たことがあった。
「……っ!」
「どうした?」
「――なんでもない!」
 その声の出し方には聞き覚えがあった。慣れない薬品作りのために刃物を扱っていて、指を切ったときの凛にそっくりだった。
「……怪我でもしているのか?」
 尋ねても彼は答えない。
「沈黙は肯定とみなすぞ」
 追撃にも相手は無言で返した。確定だった。傷を負ったことが恥ずかしかったのだろうか。
「どこを?」
「……手」
「見せてみろ」
「前に姿は見せられない、と言ったはずだが」
「手くらい見たところで何もわからないだろう。こう見えても治癒術には自信があってね、深いものでも一応はすぐ治せる」
 彼は少し黙っていたが、やがて気配がおずおずとこちらに寄ってくるのがわかった。
 しばらく一緒にいて思ったのだが、彼の気配は黄金色をしている。いや、気に色など付いているはずもないのだが、そんなイメージが浮かぶのだ。華美で派手で、それでも優雅な。
 それが綺礼の真ん前まで来て、手首の辺りだけひゅん、と実体化する。
 白い五指と切り揃えられた爪、すべすべした手の甲。一瞬女かと思ったが、大きさは綺礼のそれより少し小さいくらいで、あちこち骨張っていたので男のものだとすぐに認識を修正した。
 確かに甲がどす黒い痣に覆われていて、見るからに痛々しい。
「どこでどうしたらこうなるんだ?」
 一人ごちながらその手を取る。冷たいかと思ったが意外にも温かい、人並みの体温はあるらしい。目を閉じて魔術を行使する。体に痛みが走る。最近やっとこの感覚に慣れてきた。
 光り、手の甲の痣が引いていく。
 一瞬、人間の店に手袋を買いに来た子狐の話を思い出して、可笑しくなって微笑った。
 一分もしないうちに傷は癒えた。その瞬間手は慌てたようにさっと引っ込んで、再び姿を消した。
 ――そんなに急がなくてもいいのに。
 綺礼は内心思う。
 余程見られたくないのか。
「……おまえのその、左手の文様は?」
 ぼんやりしていたら声が飛んできた。
 思わず手を見て、納得する。
「ああ――何でも令呪とかいうものらしい。詳しいことは言えないが、あと少しで起こる儀式の参加証なんだとか」
「おまえはそれに出るのか」
「そうだが。そのためにこの屋敷に居るのだし」
「不参加、という選択肢もあるぞ」
「ないよ。それに参加は私の義務、果たさなければならない職務だから」
「――そうか」
 ならいい、と彼は強引にその話題を打ち切ってしまった。

 その日も冬木には、うんざりするほど雪が降った。
 だが天気予報は降雪はそろそろ最後、一気に春らしくなると告げていて、日本の気候はそんなものなのかと綺礼はぼんやり考えていた。
 蝋燭に火を灯して本を読んでいれば、いつもの煌びやかな気配がやってくる。
「言峰」
 しかし今日は声にどこか勢いがなく、
「……今夜、我はここを去る」
 開口一番それだった。
 正直驚いた。――本を読みながら彼と話をするのが、もう日課になってしまっていたことに、そのとき気付いた。
「……そうか」
 返事に困って、間の抜けた言葉が漏れる。
「元々少しの間だけだったのだ、ここにいられるのは」
「唐突にやってきて唐突に離れて。台風みたいだったな、おまえは」
 薄く笑った。だが彼は、多分笑ってはいないだろう。
「それで、きっともう会えないのだろう?」
「会えないとも言えるし、会えるとも言える」
「どちらだね」
「うるさい、面倒くさいのだ、なるようにしかならんのだから余計なことは聞くな」
 返ってくる声は珍しく不機嫌そうで、可笑しくなる。
 それはしばらく拗ねたように口をつぐんでいたが、
「――なあ言峰。最後に、我の姿を見たくはないか」
 そんなことを言い出したものだから、余計可笑しくなった。
「あれほど嫌だと頑なに言っていたくせに」
「気が少々変わっただけだ。我はそれはそれは美しいのだぞ?」
「……では余計に遠慮しておくよ」
「何故だ?」
 言おうか迷った。
 迷ったが、最後なのだし正直に白状した。
「――私はね。物心ついたときから、人が美しいと称するものを美しいと思えなかった。見ても何も感じない、むしろ微かに不快感すら湧いてくる始末だ。おまえを見てそうなりたくない。おまえといた時間はそれなりに楽しかったから。別れの際になって不快な思いをしたくないし、させたくない」
 それは何も言わなかった。音もたてないので、どんな表情をしているかさえわからない。
 炎が揺れる。
 窓の外は相変わらず雪景色。
 そんな中二人きりで、ほんの少しだけ過ごした時間。
 そうか、とようやく彼は言った。
「楽しかった、か」
「ああ」
「……ああ。我も楽しかった。楽しかったさ」
 瞬間、蝋燭の炎が消えた。
 辺りが瞬時に真っ暗になった。
 あのきらきらした気配が、すぐそこまで近付いていたことに、ようやく気付いた。
 綺礼には暗闇でその姿は見えない。けれどその存在感と気配で、彼が全身実体化したことを理解した。自分の背に腕を回して、抱き寄せてくる。体温が伝わってくる。
 寒い部屋の中で、それだけがひどく温かい。
「……だから、忘れない」
 小さな小さな声がした。
「忘れたり、してやるものか」
 そう自分に言い聞かせて。
 彼は綺礼から腕を離した。
 ざかざかと足音がする。どうやら窓の方に向かっているらしい。
 彼はそれを開け放す。途端、刺すような冷気が部屋に侵入してくる。
 目が慣れたのか、雪が青白く輝いているせいか。ほんの少し彼の姿が見えた。
 煌びやかな金色の髪と、宝石のような紅い瞳の色が目に焼きついた。
 混じりけのない鮮やかな色だった。人はああいう色を美しいと称するのかもしれないと、呑気にもそんなことを思った。
「――ではな」
 薄く笑んで。
 彼はそこから飛び降りた。
 綺礼は慌てて駆け寄って、窓から下を覗く。
 だがそこに彼の姿はなく、足跡すらない雪景色が、淡々と広がっているばかりだった。

 そうして彼は夢に落ちた。
「…………」
 何もない。暗い暗い世界の中に、自分がたゆたっているのがわかる。
 背中から落下していく。どうやってもそれは止められないのがわかっているので、流されるがままに身を任せて目を閉じる。
「おかえりなさい」
 幼い少年の、柔らかな声が耳をくすぐった。
「――あなたも無茶しますよねえ。いくらこちらの世界にコトミネがいなかったからって、貴重な宝具を一つ使い潰してまで過去に跳ぶなんて。無事に帰ってこられる保証もなかったのに。現に手が腐りかけてたじゃないですか。コトミネの治療がなければ、あの先から侵食が進んで死んでましたよ」
 四日間が繰り返され、『英雄王』としての自分は必要でない時間は今しかなかった。かつ、現世に召喚された身である自分が確実にこの世界にいないのは、あの時間くらいしかなかった。だから彼はあの年に、このタイミングで向かったのだ。……冬を選んだのは、彼の好みによるものだったが。
 うるさい、と返すと、それはくすくす笑った。
「覚えている間に最後会っておこう、なんて人間くさくなりましたね。でもあんまりハラハラさせないでください、ボクの身が持ちません。あ、だけど一つ。『第四次聖杯戦争に参加すれば言峰綺礼は十年後に必ず死ぬ』って、本当はすごく言いたかったでしょう。それを我慢したことだけは褒めてあげます」
 彼は答えない。
 少年は相変わらずくすくすと笑っている。
 ――タイムパラドックス。時間旅行した過去で何かを改変した場合、それに伴って現代と未来も変わってしまう。タイムトラベルを行なう上でのタブーだ。
 少年の気配は遠ざかり、やがて消えた。
 彼は相変わらず落ちていく。
 別に彼は既存のルールを守ったわけではない。自分が口を出すことで、自分の中にある言峰綺礼との日々が失われることを、自分の知っている言峰が言峰でなくなってしまうことを、嫌だと思っただけだ。
 帰る世界にあの神父はいない。もうすぐあの世界自体も壊れるだろう。そして、自分も。
 それでいい。変える必要なんてどこにもない。満足している。
 だから今回の時間跳躍は、最後の我儘。
 欠けていたから無性に、どんな形をしていたか気になってしまって。
 ほんの少し立ち止まって、後ろを振り返った。それだけだ。
「……ふん」
 目を開けた。
 掌を見た。まだ少しだけ、抱きしめた体温が残っていた。
「満足は、したかな」
 そうだ、十年前はアレはあんな風だった。
 そして十年。一緒に歩んでいく。
 自分はそれを終えてしまったけれど。だからこそ言える。
「さっさと追いついて来い、言峰。おまえは先で死んでしまうが、その十年はひどく楽しいぞ」
 笑った。
 途端に目が覚めて、気付いたら教会のソファに横になっていた。

 外は雪など降っていなくて、それでもほんの少し、終わりの匂いがした。



/虹色蝶々書いてみた
 黒うさP様の楽曲イメージ。無配本から再録。