繰り返し繰り返す言葉は呪いになる。
 何度も。何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も。その言葉に縛られてきた。その言葉に繋がれてきた。その言葉は鎖だった。
 腕は後ろで纏められ、両足はぴったり閉じて立ち上がれもしない。肺は圧迫され、喉は潰され声も出ない。ぎちぎちと金属が軋む。鉄が食い込んだ肌は切れて血を流す。身動きの取れない自分は地に這いつくばるしかない。自由になるには、誰かがその戒めを解いてくれるのを待つしかない。
 祈った。祈り続けた。その姿は道標を探す迷い人に似ていたかもしれない。
 だがいくら待っても、何年何十年の時が経とうとも――救いの手が自分に差し伸べられることはなく。自分は穴の中に一人、死体のように転がっているのだった。



「時臣師、何をご覧になっているのですか?」
 廊下で。屋敷の主がのんびりと何かを眺めているのが見えたので、不思議に思って声を掛けてみた。
「ああ、綺礼。いや、少しね」
 時臣はこちらを振り向き、笑ってまた目を前に向ける。視線を辿ってみると、その先には二人の幼子がいた。
 豊かな栗色の髪をツインテールに結わえた少女。もう一人の少女はそれを真似したように、まだ伸ばしかけの髪をちょこんとリボンで結んでいる。
 二人の手にあるのは古めかしい、一冊の魔道書だ。ドイツ語で書かれているため、片方が読むのに度々詰まるらしく、もう片方が根気強く教えてやっている。ずっと気難しげな顔でページを睨んでいるが、時折顔を上げて弱音を吐いたり、おどけてみせたり、笑いあったり。中睦まじい姉妹の勉強会を絵に描いたような風景がそこにはあった。
「……勉強熱心なご息女ですね。さぞや立派な魔術師になられることでしょう」
「だと良いが。根源到達に向け、二人とも立派に励んでほしいものだ」
 そう言いながらも時臣は、愛娘を誇らしげな顔で見つめている。綺礼もその表情には納得だ。魔術師としては申し分ない素質を兼ね備えた娘。魔術師として生きることに何の疑問も抱かず、父の背中を懸命に追いかけるその姿。親として大層嬉しいだろう。
 やがてその少女たちの図に、一人の女性がフレームインした。
 ふわふわと緩いウェーブの掛かったロングヘア。華奢な体躯。纏う雰囲気は柔らかく、彼女の名、「葵」の花のように清楚で儚げだ。湯気の立つティーカップと皿に盛った菓子を乗せた盆を手にしている。
 彼女は笑顔で少女たちに話しかける。少し休憩にしたら? 会話が聞こえてくるようだ。
 時臣が進み出る。三人の光景が四人になる。
 楽しげに、笑い、触れ合い、話す。父と母と姉と妹。一つの家族。
 綺礼は金縛りにあったようにその場から動けない。
「――――」
 ホームドラマでも見せられている気分。とても温かだ。微笑ましい光景だ。
 なのに笑えない。それを良いと思えない。むしろ気持ち悪い。
 腹の中に黒い澱がどろどろ溜まって、ぐるぐると渦巻いていくような感覚。

「言峰さんも。一服どうですか?」

 その涼しげな声で我に返る。
 にこにこと手招きする女性。少し恥ずかしげに菓子を齧っている子どもと、不機嫌そうにこちらを睨みつけている子ども。
「遠慮することはないさ、さあ綺礼」
 深い、ゆったりとした声で誘う自分の師。
「……はい、では」
 愛想笑いを作る。一歩踏み出した足は鉛のように重い。

 ――ああ。

「いただきます」

 ――嫌だな。

 心の中で溜め息が漏れた。



 置き場所に迷い、結局彼の寝台に寝かせることにした。
 遠坂時臣の死体。西洋の血が混じっているために、翡翠のような緑色だった瞳は白く濁り、肉体は軽々と抱え上げられるほど重みを失っている。抜け殻同然だ。
 苦悶と動揺で固まった死相は、弟子である自分がやったもの。
 三年間師事してきた。彼の在り方を見、知り、追従してきた。まさに恩を仇で返したことになる。
 師の私室のドアを開け、ベッドにその骸を横たえる。後ろから刺したので、凶器に使ったアゾット剣がまだ背に残っていた。乱雑に引き抜く。硬直の始まった筋肉の抵抗があったが、柄が血で滑るということもなかったので、自分の力で簡単に取れた。
 手元にやれば、研がれてから一度使われただけの、すらりとした刃が光る。たっぷりと血を吸って紅色に汚れている。鉄の匂い。ああ、舐めたい。舐めればきっと甘い。代行者として幾度となく戦場に立っていたときは思わなかった。

『        』

 不意に誰かの言葉を思い出す。ぴん、と張った鎖が音をたてる。
 ――くだらない。
 嘘を吐くな。勘違いするな笑わせるな気持ち悪い吐き気がする。真っ黒な感情が胸の中で渦巻く。叫びだしたくなるのをようやっと堪える。
 口元は笑みの形に歪んでいる。
 今までこんなに笑ったことがあっただろうか? いや、無い。それだけは断言できる。感情がツーステップ胸がカラーボール弾む弾む愉快愉快。
 最後に一度だけ、師だったモノの顔を眺めてから、綺礼は満足げに部屋を出た。
 その左腕には新たなサーヴァントを御するための令呪が宿っており、手には凶刃となってしまった贈り物が握られていた。



「酷い格好だ」
 部屋に戻ると、ソファに寝転びだらだらと飲酒をしていた青年が声を掛けてくる。その顔は上機嫌そのもので、今にも鼻歌を歌いだしそうだ。
「血でも被ってきたようだぞ」
「仕方あるまい。――もうこれは着れないな」
 テーブルまで歩いて行く。剣を箱に仕舞おうとした手を伸ばしたが、刃に付いた血糊が目を引いた。ハンカチを取り出す。白いそれを金属の上に滑らせれば、みるみるうちに布地が紅く染まる。
 本当に血だらけだ。手には乾いた紅がこびりついている。指先なんかもう、液が酸素を失って黒ずんでいる。アゾット剣を収めたときにようやくそのことに気付いた。黒いカソックにも血がべったりと付着している。血液のポンプである心臓を穿ったせいで、出血量は相当なものだったのだ。
『しかし今のおまえは良い顔をしている』
 不意に。ソファの上の人型が、金色の砂塵に溶けた。
 再び実体化した彼は自分の真横に立っていた。ぼうっと眺めていた自分の左手を素早く取り、口元に持っていく。ぬるついた肉と柔らかな唇が薬指に触れた。根元から先をつつ、と舐め上げて、指先に、爪に吸い付く。僅かに付いた血を唾液と混ぜて、喉を上下させてこくんと飲み下す。
「っ、ん……悪い子だな、綺礼は……」
 解放し、途切れ途切れに言いながら、ギルガメッシュはにんまりと破顔した。
「高揚しているのか? 師を自分の手で殺めたというのに」
 綺礼が口を開く前に彼は消える。今度は時臣のデスクに凭れるポーズで現れる。
「時臣は我には退屈ではあったが、おまえにとっては良き師であったというのに。あんなにおまえのことを評価して、信頼していたというのに。それにあやつは良き父でもあっただろう? 残された伴侶は、幼い子はひどく哀しむことだろうな」
 くすくすと笑う。さも面白いと言わんばかりに声を漏らす。綺礼はその姿にチェシャ猫を連想した。にやにや笑いだけを残し、首を跳ねろと声が飛ぶクロッケー会場の成り行きを眺めている。
 私もキチガイ。あなたもキチガイ。
「……ギルガメッシュ、私はな。きっと、遠坂の家が憎らしかった」
 汚れた手と汚れた衣。血に塗れたその体。
「あの一家のことは三年見てきたよ。厳しくも愛情の深い父、穏やかで優しい母、仲睦まじい姉と妹。時臣師は骨の髄まで魔術師であったから平凡ではなかったがね、彼の家庭は裕福で幸せだったと言えるだろう」
 綺礼は思い出す。二人で魔術書を広げ、顔を寄せ合って勉学に励んでいた姉妹の姿を。笑顔で菓子と紅茶を差し入れる女性のことを。その光景を優しげに、鼻高々に見つめる師のことを。
 そこにあるのは普通の幸せだった。愛で満ち溢れた家族。温かくて微笑ましくて――綺礼にはそれがどこか遠かった。
 ――自分にもかつて妻がいた。彼女は自分を愛してくれた。でも結果はどうだ? 自分は苦しみ彼女は地獄に落ちた。憧れ手を伸ばしただけだったのに、触れたそれは酷く自分を切り裂いた。
 普通の幸せを。手にして笑い、自分に見せつけてくる貴方がきっと。
「羨ましかったのだろうな。そして同時に壊してやりたかった。たった今気付いたよ」
 切り裂いて引き剥がしてぐちゃぐちゃにしてやりたかった。
 あの死体を見たら彼女はどんなに泣くだろう。幼い少女は? ただでさえ一人と離されただけであんなに悲痛な顔をしていたのだ、死んだとなればそれはそれは嘆くだろう。考えただけでぞくぞくする。それを自分がやったのだという事実に胸が打ち震える。
「これが――愉悦なのか?」
 口元が綻ぶのを押さえきれない。これではまるで、そこのデスクに立っている悪趣味な青年と同じではないか。
 そう思った瞬間、あれが。また消えた。
「全く、僧侶が聞いて呆れるな」
 現れた彼は先ほどまで時臣が座っていたソファに腰を下ろし、テーブルに置いていたグラスを手に取った。
「他人を壊し幸福を虐殺し、踏み潰すことで悦を感じ取るなど。よく今まで自分にも周りにも気付かれずに来れたものだ」
 流れるような動作でグラスを煽る。葡萄酒が彼の中に取り込まれていく。
「しかし、初めて宝石を授けられた生娘のようで。とても愛らしいぞ? 綺礼」
「……この年と容貌で少女に例えられても困るのだがね」
「まあ、喜ぶおまえのその顔は醜悪の極みだがな。悪くない。少なくともあの仏頂面よりはずっと面白いぞ」
 ギルガメッシュはご満悦だ。
 ――醜悪の極み、か。
「歪んでいるのだろうな。私の笑みは」
「いいや。歪んでいたのはむしろ今までだ。それがおまえの本質だ」
 ぼやけばすかさず射止めてくる。物思いに浸る間もない。綺礼はうっすらと苦笑いを浮かべたが、ギルガメッシュがそれを気にした様子はなかった。
 前から密会を重ねていた師のサーヴァント。今は自分の弓兵だ。最初はその言葉を拒絶し、信じまいとしていたが、戦争が進むにつれて彼の正しさを嫌というほど知ることになった。
 そんな彼が謳う自分の行く末は、まさに外道。罪人が歩む穢れたものだ。だが自分は間違いなく彼の言ったような悪の道を進むのだろう。この胸の高鳴りがそれを強く予感させる。
 ああ、そんな人生、本当に誰からも理解されまい。少し前の自分でさえ無理だったのだ。ほんの少しだけ抱いていた希望は完全に閉ざされた。
 ――道理だがな。
 今、親しかった者の血に塗れている時点で、自分は罪人だ。
 ……でも。
 綺礼は自嘲して歩みを進め、青年がしていたようにデスクに体重を預けた。何故だか少し疲れていた。
 ソファには相変わらず金色の青年が座っている。もう空になったグラスは置いて、中身は注がず綺礼をじっと見ている。
 月明かりが。背後にある窓から入ってきて、部屋を照らしている。
 先ほど凶事があったのが嘘のように、静かな夜だ。
「――なあ」
「どうした?」
「私はね。物心ついたときからずっと、良い子だと言われ続けてきたのだよ」
 父に、教師に、学友に、教会の人間に、そして師に。
 そっと手を見る。赤い。左の薬指だけが血のりを拭き取られ、肌色を覗かせている。
「でも私は空っぽで、むしろ自分は救えない人間だと思っていた。その言葉を聞くたびに後ろめたい気分になった。否定すれば謙遜なのだと思われ、さらに強く賞賛された」
 その言葉は鎖だった。自分はがんじがらめになって、もう助けを呼べないほどに磨耗して、誰か気付いてほしいと強く、願っていた。
「本当は、私はきっと誰かに断罪されたかったのだよ。誰かに理解してほしかった。だから今ひどく、おまえの言葉に安心している」
 悪い子だ、と。ただ一回、誰かがそう指摘してくれれば良かったのだ。
「理解してほしかった、か」
 ギルガメッシュはそう呟いて、再度掻き消えた。
 繭の糸がほどけるように、黄金に。柔らかく溶けていなくなってしまう。
 さて今度はどこだ、と綺礼は呆れ腕を組む。しかし少し待っても彼は現れない。もう部屋を出て行ったのだろうか。
 そう思った瞬間。
「綺礼」
 背後から名前を呼ばれ、反射的に振り向いた。
 くるりと体を返され腕を引っ張られ、何かがべたりと上体に密着する。
 自分の背に腕が回ったところで、抱きしめられたのだとようやく気付いた。
 ギルガメッシュはデスクの上に堂々と座っていた。
「温かいか」
「……温かい」
「それは他の温もりを一つ殺し潰して得たものだ。大事にするように」
「――わかっているさ」
 きっと自分はこれから、幾つもそれを潰していくのだろう。
 そう思いながらも、口元にはひどく笑みが零れるのだから自分はもう戻れない。
 最後の何かがぱちん、と切れる音がした。
 ギルガメッシュの着ているシャツは染み一つない白だ。それが、自分の僧衣が吸った赤で汚れていく。罪の色を分け合うように。
 彼は血まみれの自分を躊躇いなく抱擁する。熟知した上で全てを赦し、穏やかに笑う。道徳や情など微塵も持ち合わせていないくせに、まるで自分を受け入れるかのように、慈悲深い者であるかのように、柔らかく笑んでみせる。
 ――ああ、その姿はまるで。

 救いの手を待っていた。神からの救いの声を待っていた。

「おまえは全てを知ったとき、自分は破滅するのだと言っていたな」

 歌うような声が語る。

「ならば一緒に破滅しよう。我がその手を引いてやる」

 ずぶずぶとその囁きに沈んでいく。

 血の匂いがした。自分が纏う匂いだった。
 鎖は解かれ、死人は心を注がれ息を吹き返す。答えの前にあるのは茨の道。それでももう構わない。
 力が緩み、腕が離れたと思うと頬を掌で包まれた。上を向かされる。月明かりに照らされて金色の髪が輝いている。紅い瞳が揺れている。微笑っている。笑っている。
 顔が落ちてきて唇を塞がれる。
 繋がったのは悪魔とだった。


 さようなら楽園。
 この金色が私の福音。



/ソリチュードアンドジャッジメント
 独り者と断罪者。アニメ17話で契約したので書きました。
 ティンカーギルには驚いた。