見た目より遥かに軽いスーツケースを片手に下げ、人波を掻い潜るように駅の構内から抜け出して、綺礼はふうと溜息を吐いた。
 大阪の国際空港に降り立ち、電車に揺られること数時間。ようやく見覚えのある街に到着した。実に半年ぶりの帰国であるが、風景はちっとも変わっていない。人は忙しそうに行き交っているし、並ぶ店々の顔ぶれも同じ。きっと綺礼がわからないところで入れ替わってはいるのだろうが、認識できないならやはり変わっていないのと同じだろうと思う。
 海外では任務や敵対する魔術師との遭遇で多忙な毎日を送っていたが、魔術があまり浸透していない日本では、いつ戦闘が起きるかと気を張ることもない。命が脅かされることもない。実に平和だ。代行者として動くことはまず無いと考えて良い。しかし暇かと言えばそうでもない。自分の妹弟子に魔術刻印を移植させなければならないし、冬木教会を管理する身としての責務もある。
 ――まずは掃除か。
 半年前に手は尽くしたが、埃は時間と比例するように堆積していく。信徒席は溶けない雪がたんまり積もっていることだろう。想像すると少々気が滅入った。一応教会に足を踏み入れられる人間がいるにはいるので、少しでいいから作業をしてくれていないだろうか。
 無理だろうな、と思考を打ち消す。
 幼年体だろうと青年体だろうと、どんな性格をしていようと、あれは世界全てを支配しようという王だ。そんな召使いみたいな真似はまずしないに違いない。
 そういえばあれはどこにいるのだろう。パスが切れているので全くわからない。出国する前にあれの金でホテルをワンフロア借りきってやったが、退屈への耐性がゼロに近いので、部屋で大人しくしているとは到底思えなかった。一度電話したが出なかったので、留守電だけして結局聞いていない。
 駅に背を向け、大通りへ出る。タクシーを拾うという手もあるが、数時間ずっと閉じ込められっぱなしだった体はすっかり硬直しており、動かして解したい気分だった。機内でずっと眠っていたため体力も余っている。迷うことなく歩き出した。
 膝の上で揺れる黒いコートの裾。冬が長いから冬木。厳しいというわけではないが、まだ防寒具が手放せない程度には寒い。吐く息はまだまだ白く、まだ午後の六時くらいだというのに真っ暗だ。夜の帳が下りている。店や家から漏れる橙の明かり。エンジン音とテールランプが、赤い尾を引いて素通りしていく。
 夕飯は――適当に食べに行けばいいか。久しぶりに泰山の麻婆豆腐が食べたい。あの溶岩のように真っ赤な料理は、思い浮かべただけで唾が溜まってくる。
 どこへも寄らず教会を目指す。
 すれ違う人々の顔を自分は知らないし、相手も自分の顔を知らない。帰ってきたのに自分が異邦人であるような気分になった。父と一緒に海外を飛び回っていた頃、目に映るもの全て知らないものだった、あの感覚に似ている。
 故郷やら生家やらの良さが綺礼にはよくわからない。きっと人は慣れ親しんだ景色を見て安堵し、幼い頃を思い出して懐古したりするのだろう。だが綺礼には親しむほど一箇所に留まっていた覚えが無い。物心ついたときから、父の仕事で各地を転々としていた。家というものも持っていない。神学校の寮で生活していたことはあるが、学校は学校で決して家ではないだろう。
 強いて言うなら父がそれに当たるのだろうが、聖杯戦争のときに亡くしてしまった。
 数年前に構えた家ももう無い。
 元々無いものは失うことすらできない。悲しいとも思わない。在ったときの有難みを知らないから。
 そして失くしたものは還らず。世界には取り返しのつかないことが、確かにある。
 それでも人は振り返りたがる。
「――家、か」
 帰る場所。
 明確な形がない。
 だが綺礼にとっての帰るところは、ここなのだろうな、と思う。
 自分の生まれた国はやはり日本で、今の自分にとって思い入れがあるのも用があるのも――やはり冬木だ。
 第五次聖杯戦争の開催地となるであろう街。数十年後、『この世全ての悪』(自分の分身)が生まれるであろう地。
 離れられない。
 縛られている。
 結局ここに戻るしかない、なんて、酷く不自由だ。
「……は」
 自嘲的な笑みと、真っ白なもやが宙に消えた。
 そうして物思いに耽っているうちに、教会の入り口に着いていた。
 観音開きの重い扉の前で一度足を止める。雪景色を見る覚悟を十秒で済ませる。
「……さて」
 手を伸ばしてドアを押す。ぎし、と僅かに番が軋んで、開く。
 すると。

「あ。お帰りなさい!」

 無邪気な子どもの声が、弾みながらこちらに飛んできた。

「…………」
 綺礼の思考が一瞬止まる。
 薄暗い教会の窓から差し込む日の光。それに照らされてきらきら輝く金髪。白いジャンパー。まだ未成熟の手足。紅玉のような瞳。
 ああ――幼年体の方か。ようやく合点が行った。
「すみません、電話いただいたときボク寝ちゃってて。留守電聞いたので、居間とかお風呂とかボクの部屋とか掃除して待ってました。あ、コトミネの部屋だけはノータッチなので安心してください」
「……そうか。助かったよ」
 礼を言えばそれはえへへ、と屈託なく笑った。
「と言っても宝具で時間戻しただけなんですけど」
「君の宝物庫は本当に何でもあるな」
「『ボク』のじゃなくて『あの人』の、なところがちょっと癪ですけどね。お役に立てて良かったです」
「夕飯はもう済ませたか?」
「いえ。コトミネは?」
「私もまだだ」
「じゃあファミリーレストラン行きましょう! 一度入ってみたかったんです」
「ああ、構わないよ。荷物を置いてくるから少し待っていてくれ」
「わかりました」
 そうして礼拝堂を抜けて居間に入り、スーツケースをテーブルに置いた。
 ふう、と一つ息を吐くと体の力が僅かに抜けた。どうやら少し緊張していたらしい。何故だかは自分でもわからない。見慣れないからかもしれない。
 ――さすがにあんなギルガメッシュを連れて泰山に行く気にはなれないな。
 綺礼は苦笑いした。
 青年体の方なら、嫌がらせに嬉々として連れて行くのに。

 そうして徒歩でレストランに行き、案内された席に向かい合って座る。メニューをさっと眺めただけでギルガメッシュはハンバーグのセットを、綺礼は和食のご膳を注文した。
 店員は西洋系の金髪美少年と東洋系の黒髪男という組み合わせに一瞬困惑したようだったが、すぐに営業用スマイルを取り繕い去っていった。冬木は海外からの移住者が多い。しかしやはり家族連れには見えなかったのだろう。
「やっぱり、海外から帰ってきた後だと、お米が食べたくなりますか?」
 だが店員がいなくなって早々、ギルガメッシュはそんなことを真面目に尋ねてきて、なんだか可笑しかった。
「ああ――あまり深く考えずに注文したのだが、そうなのかもしれない」
 結露したコップを掴み、水で喉を潤しながら答える。
「ていうかコトミネの仕事って、各地の聖遺物を回収すること――なんでしたっけ?」
「そうそう。まあ、食事時にできるような話じゃない」
 相手も血生ぐさいのには慣れっこだろうが、周りは一般人なので一応避けておく。
「そちらはどうだ? 冬木での生活は楽しいかね?」
 綺礼が聞けば、ギルガメッシュはパッと顔を輝かせた。
「楽しいです。友達も出来ましたし、この時代のものってボクには全部新鮮で。大人のボクも、遠出していろんなところを見て回るの、結構楽しんでるみたいですよ」
「なら良かった。……特に青年体の方はね。退屈を持て余して騒動を起こされては困る」
「やめてくださいよ。それ、笑えませんよ」
 確かに今の彼の目は死んでいる。
 綺礼が返事をしなかったので途端に会話が途切れ、重苦しい空気が場を包んだ。
 二人ともあの我儘男には手を焼いているのである。
 と。
 ギルガメッシュはふい、と綺礼から目を背けた。
 そして見据えたのは隣の家族連れだった。父と、母と、少女と。皆楽しそうに食事をしている。時折母親がペーパーで子どもの口を拭ってやったり、自分の料理を食べさせてやったりしている。
 柔らかく目を細め、優しげに。ギルガメッシュは楽しそうにそれを見ている。
 いつも紅く、人を射抜かんばかりに鋭く輝いている目は慈愛で満ちていて。悪意なんて微塵もない。我が子を見る親のようだ。
 彼は神と人間の混血児、だったか。少なくともまともな家庭環境でないのは容易に予想できる。
「…………」
 何か声を掛けようとしてやめた。
 楽しそうだから放っておけばいい。
 やがてじゅーじゅー音をたてる鉄板が運ばれてきて、ギルガメッシュはまた視線を正面に戻した。まだ綺礼の料理は来ていなかったので待つ気だった様子だが、気付いて先に食べていいと促した。
「いただきます!」
 きちんと手を合わせ、ナイフとフォークをうまく使って彼は肉を食う。
 綺礼はその様子をぼんやり眺めていた。
 この年でも王は王だな、と。無垢すぎる、という。脳内に浮かぶ二つの感想。
 幼年体の人格と青年体の人格はあまりに違う。考えられる理由は、目の前の子どもにあそこまで捻じ曲がってしまうだけの何かがあった。理不尽、暴力、攻撃、そういったものが彼に浴びせられた。そしてギルガメッシュは変わった。暴虐で唯我独尊、冷徹な孤高の王になった。
 鉄を熱して、ハンマーで何度も何度も叩くイメージ。
 どれだけの苦痛を与えられて、どれだけの嘆きを積み重ねて、この善良な少年は歪んでしまうのか。
 幼年体の彼にあまり関心はないけれど。
 ――その一点においてはとても興味があるよ。ギルガメッシュ。
「……あの、コトミネ?」
 そのとき掛けられた声で綺礼は現実に返った。
 ギルガメッシュはもくもくと食事を続けながら、
「すっごい悪い顔してますよ。何かいいことでもあったんですか?」
 とあっさりした顔で聞いてくる。
「何でもないよ。ただ――」
「ただ?」
 昔は違ったが今ならわかる、口元の吊り上がる感覚。
「――いや、やめておこう」
「ええ! そこで止められたら気になるじゃないですか!」
「気にしなくていい、大したことではないから」
 そうして慌てるギルガメッシュを見て、綺礼は先ほどとは別種の笑みを浮かべるのだった。
 ――本人に言えるわけがなかった。
 やはり自分は青年体の方が好みなのだな、なんて無粋な台詞は。

 居間やキッチンは半年前と同じ綺麗な状態で、掃除をしなくてもすぐに使えた。水道や電気やガスはぬかりなく手筈を済ませてあるので問題ない。
 食事を済ませ、帰って風呂に入った。
 することもなくなり、居間のソファに座って、綺礼はスーツケースに仕舞っていた聖書を開いた。電車内で暇潰しに読んでいたのがまだ途中だ。栞を取って活字に目を滑らせる。
 旧約聖書。創世記第三章。アダムとイヴの物語。
 アダムが住むエデンの園には、実のなる木が茂っている。その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる二本の木があり、神はアダムに善悪の知識の実だけは食べてはいけないと命令する。やがてイヴがアダムの骨から作られ、園に置かれる。イヴは善悪の知識の実を食べるよう蛇に唆され、好奇心と誘惑に負けてそれを口にしてしまう。アダムもまたイヴの勧めで実を食べた。結果、二人は知識を得、命の木の実をも食べてしまうことを恐れた神の手で、楽園を追放される。
「何読んでるんですか?」
 と、前からひょこりと金色が入ってきて、集中が切れた。
「あ、聖書でしたか」
 くりくり動く瞳。この少年は神嫌いではなかったか。
「いえ、読んだことありますし。こういうのって物語として読んでも面白いですから」
 失楽園のとこですかー、へー、とギルガメッシュはぼやく。
「あの章でやはり、蛇は人類の憎むべき敵であるということを再認しましたよ」
「……そうか」
 鬼気迫る表情に茶化す気にもなれない。
 ああ、そういえば蛇も苦手だったか。薬を取られたせいだと思っていたが、元々嫌いなのかもしれない。
「そういえばコトミネ。あなたの私室はどうします? 自分で掃除したいかと思って触れなかったんですけど、ボクの宝具でささっと終わらせることもできますよ」
 ふむ、と綺礼は人差し指を曲げて、顎に当てた。
 確かに今の私室にはいろいろ触れられたくない物や書類がある。だが私室が使えないと綺礼は寝るところがない。
「――そうだな、君に頼むか。ベッドが使えないと困る」
 綺礼が栞を挟んで聖書を閉じると、ギルガメッシュは「その件なんですけど、」と少し躊躇いがちな声を出した。
 子どもとはいえ彼がそんな物言いをするなんて珍しい。
 目を上げて視線を向ければ、ギルガメッシュはそっと口を開く。
「今晩一緒に寝てもらえませんか?」
 思わず目を瞬かせた。
 一拍間が空く。
「……構わないが」
「ほんとですか! ありがとうございますー!」
 にぱ、と晴れやかな笑みを浮かべる美少年。
 断る理由がなかったので許可したが、正直意図はわからない。綺礼はああじゃあ自分で掃除した方がいいかと思いながら、頭にはてなを浮かべるのだった。
 そうしてギルガメッシュに促されるまま、早めの就寝となった。
 彼の部屋のベッドは広い。本人はキングサイズが良いとごねたのだが、部屋は狭いので無理だと綺礼が突っぱねた結果、ダブルに落ち着いた。それでも一人で寝るには十分だろう。
 ふかふかのマットと白いシーツ。
 少年が横たわって、自分ものそのそと潜る。
 カーテンを全部閉めきり、照明を落とした部屋は暗い。さらに寝巻き一枚では肌寒かった。まだやはり冬だ。
「潰してしまわないか心配だな」
 なんとなく顔を見るのは気まずいので、背中を向けて寝そべった。姿が見えないが、彼がすぐ近くにいることは嫌でも感じ取れる。
「大丈夫でしょう。コトミネ寝相いいじゃないですか」
 ……なんだか今、さらりと爆弾を落とされたような気がしたのだが。
「あ、ボク初めては女性とがいいので、性行為はボクが大人になってる間にやってくださいね」
 気のせいじゃなかった。
「……そういう趣味はないから安心してくれ」
 背後から可笑しそうな笑い声が聞こえてくる。
 衣擦れの音。
「――これでいいのか?」
「はい」
 もそもそと。
 腕が背中に回って、ぎゅう、と抱きつかれる感覚。
「…………」
 小さい。か弱い。子どもだからかいつもより温かい。
「コトミネって筋肉付いてるからあったかいですよね。ボクは体鍛えてもあのままなんですよねー」
「黄金律ならではの悩みだな」
「ですねぇ。うーん、こうしてると宮殿でライオン抱いて寝てた頃思い出します」
「…………」
 なるほど、自分はペット代わりだったのか。
 沈黙。
「――ねえ、コトミネ」
 小さな声。
「砂漠ってね、昼は暑いくせに夜はすごく冷えるんです。昔は暖を取る手段なんて火を炊くくらいでしたし、寝るときはもう寒くて寒くて。気に入った下女とか、獅子とかと一緒に寝台に入ってました」
 楽しそうに語る彼に。
 へえ、と気の無い相槌を打った。
「昔ほどじゃないけど、ここも寒いから夜になると思い出しちゃって。でも冬木のあのホテルにいるとくっつける人がいなくて――コトミネが帰ってきたから、ちょっと甘えちゃいました」
 悪戯っぽい口調。額を押し当てているのか、面積の狭いものが背中に当たっている。ふふ、と笑うと息が当たって少しくすぐったい。
「心細いわけではないのですけど。寒いと、誰かの存在が愛おしくなりますね」
 他人の体温、だとか。そういうものが。
 綺礼は何も返事をしなかった。肯定しがたいのか言葉が見つからないのか、或いは両方か。しかしギルガメッシュはそれでもいいと言わんばかりに、また忍び笑いを漏らす。
「おやすみなさい。コトミネ」
 耳触りのいい甘い声。
 それきり部屋は静かになって。
 やがて聞こえてくる、微かな寝息。
 そういえばギルガメッシュは寝つきはいい方だった。あちらを向けばすー、すー、と規則正しく胸が上下していることだろう。
 肺の中身を全部吐き出すような、深い深い、嘆息。
 こういう純粋な信頼を手放しで向けられるのは慣れていない。別に彼は、愚かだから自分に気を許しているわけではないのだ。裏切ってもきっとこの少年は笑っている。どうしてもなら悲しげに首を横に振って、自分の首をすぱんと刎ねる。そして一年もしないうちに忘れるだけだ。彼は青年体より、許容範囲が少し広いだけなのだ。
 踏みにじれない。格好の鴨のようでいて、彼はやはり捕食する側の人間だ。
 ――それに。
 誰かを、思い出す。
 こんな自分を信じて、笑いかけて、無条件に傍にいて。
「……やりにくいな」
 ぽつりと呟いた独り言は暗い床に落ちて、ころんと転がった。
 その夜は少し寝つきが悪かった。

 目が開いたので勢いよく体を起こすと、熱で程よく温まった布団と、隣で眠る幼い子どもの姿が目に飛び込んできた。
「…………」
 ――ああそうだ、昨夜は。
 手で額を押さえ、寝台から這い出る。
 振り向けば、乱れた布団とあどけない寝顔がある。そっと布団を直し、起こさないように足音を潜めながら部屋を出た。
 着替えて身支度数分。
 朝食準備。
 パンをトースターに放り込んだ瞬間、居間のドアが乱暴に開いた。
 反射的に戸口を見ると、大きな方の英雄王がそこに立っている。服は適当にクローゼットから出して身につけただけらしく、この寒いのにワイシャツ一枚だけだ。ボタンも適当に留められている。
「戻ったのか」
「それはこちらの台詞だ」
 尋ねるとぶっきらぼうな答えが返ってきた。
 自分とそう変わらない背丈と伸びきった手足、シャツの合わせ目から覗く胸。引き締まった腿。肌理の細かい透けるような白い肌。柔らかそうな金色の髪。自分以外の全てを見下した邪悪なにやにや笑い。
 ――やはりこっちの方がしっくり来るな。
 観察しているうちに、ギルガメッシュはぺたぺたと裸足で近付いてくる。
「丁度良い、今日は遠出しようと思っていたのだ。付き合え」
 人の都合などお構いなしの傲慢な物言い。
 する、と腕が伸びてきて首に巻きつく。
 剣呑な光を放つ、紅色の、瞳。
「私は忙しいのだ。おまえの遊興に付き合っている暇は無い」
「半年ぶりに顔を合わせたのにつれないではないか。我がマスターはそんなに冷たい男だったのか?」
「はぁ……幼年体のおまえは聞き分けの良い、気の利く少年だったのにな。あの姿のおまえが恋しいよ」
「嘘をつけ。おまえはああいう手合いは好みではなかろう」
「自分の方が、と言いたいのか? 随分と自信があるのだな」
「当然。我を誰だと思っている」
 ふ、と思わず笑みがこぼれた。
「世界最古の黄金の王、シュメールの支配者――英雄王ギルガメッシュ」
 ご名答、と目の前の青年は満足げに言う。
「そこまで承知しているなら、全て言わずともわかるだろう?」
 ぐ、とつま先に力を入れて。
 身を乗り出し、耳に口を近づけて、囁くように。
「おまえの昼夜を王に献上せよ。道化」
 おまえの役割はこの我を楽しませることだろう、と。
 ソレは問いただす。
 自分が客でおまえは役者だと、咎める。
「――やれやれ、その分だと最初から拒否権など無いというわけか。困ったな」
「今頃気付いたか。この鈍感」
「ならば仕方ない。承知した」
 綺礼が折れれば、ギルガメッシュはますます笑みを深める。
 踵が降りて。
 目が合って。
「おまえ少し背が伸びたか?」
「ああ、そういえば前より少し、おまえの頭の位置が低いかもしれない」
「雑種のくせに生意気な」
「不可抗力だ。私にはどうしようもない」
 もう一度彼が背伸びする。
 顔が近付いてきて、威嚇するように唇をやわく食まれた。
 重なる黒と白。
「……まあ、問題ないか」
 赤い舌が唇を舐める。その柔らかさも味も自分は知っている。
 顔を合わせて早々の挨拶に苦笑して、肩にそっと触れた。反対の掌を剥き出しの腿に押し当てて、ラインを辿るようにするりと撫でる。滑らかな肌が指に吸い付く。
「気が済んだなら、ギルガメッシュ」
「ん?」
「もうすぐ朝食が出来るから、ちゃんと服を身につけてきなさい」
 起きたての未覚醒な雰囲気も手伝って、産着を着ているみたいだ。
 彼がむ、と顔を顰めた瞬間、タイミングよくトースターのベルが鳴った。

「で、どこに行きたいんだ?」
「これだ」
 食後のコーヒーを啜りながら、ギルガメッシュが出してきた雑誌を覗き込む。旅行系のものらしい。開いたページには、池に浮かぶ金色の城の写真があった。
「この調度、色合い、実に我好みだ。気分次第では即買いだな」
「…………」
 正式名称・鹿苑寺。通称・金閣寺。そうだ、京都行こう。などという謳い文句を真っ先に思い出す。
「先に言っておくが、この周りにあるのはおまえの嫌いな神の社ばかりだぞ」
「構わんさ。美味なるものがあると聞くしな」
 きちんと服を着たギルガメッシュは、腕を組んで何度も頷いていた。本人がそう言うならと、綺礼はそれ以上は追求しない。ちなみに彼も「僧衣で我に付き添う気か」と言われ、私服に着替えたところだ。
 ……だがまあ、関西で良かった。京都なら一時間半程度で着ける。
 現在時刻は午前九時半過ぎ。
 ――昼食と夕飯は出先でいいか。
「では飲み終わったら出かけるとしようか」
 ゆらゆら湯気の立つコーヒーカップを手に取って、口元に持っていく。
 今日は慌しくなりそうだ。
 そうして少し休憩をした後、戸締まりをして、教会を出た。空は雲ひとつない快晴だ。出かけるには丁度いい天候である。
 駅は人でごった返している。切符を買って改札を通る。
 人が街灯のように立ち並ぶ、日の遮られたプラットホーム。目当てのものはあと数分で到着すると、電光板が素っ気無く告げている。
「しかし京都に行きたいとはな」
 慎ましやかな色合いの旧都は、派手好きのギルガメッシュとは相性が悪い気がする。
 独り言のつもりだったが、隣に立つ青年は耳ざとかった。
「一度足を運んだことはあるぞ? 橋の桜を見て、どこかの川沿いの店で肉を食って戻ったが」
「その辺りか……寺に行くとなると、バスを使わないといけないからな……」
 綺礼は思考する。
 乗り換えに乗り継ぎ、所要時間。目的地は一箇所のみ。それ以外はおまえが決めろということだろう。どうやって夜まで持たせようか。この我儘な王は一体何がお気に召すだろうか。これの好みそうなものは何だった?
 腕を組んで、隣を一瞥すると目が合った。
「どうした?」
「いやなに。今おまえは我のことを考えていただろう?」
 ギルガメッシュは口角を吊り上げ、実に楽しそうに自分を見ている。
「困れ困れ。放っておいた半年分、めいっぱい我のことを思考しろ」
 そのときアナウンスが鳴って、綺礼の言葉は遮られた。
 レールに沿って車体が滑り込んでくる。止まって、空気の抜ける音がして、堅く閉じられていたドアが左右に開く。
 一歩踏み出して、青年が乗り込む。その金色の後に続く。
 向かいの扉からは、窓ガラス越しに街が見えた。先ほど歩いてきた場所。わらわらと先を急ぐ人々。グレーのアスファルトと白線。色とりどりの看板と店。生気。冬が長いから、冬木。
 ドアが閉まり、電車が動き出して、その風景は視界の右から左へと移動し去ってしまう。
「綺礼、何をしている」
 横長の座席に腰を下ろしたギルガメッシュが声を掛けてくる。なんでもない、と返して隣に座った。
平日の昼前だからか、中にはほとんど人がいなかった。
 ほどよく利いた暖房と微かな振動が手伝って、シートに沈みこんでいると眠気が襲ってくる。温く気だるい車内の空気に負けたのか、ギルガメッシュは駅を二つほど過ぎたところで寝息をたてていた。
 大阪に入り、連れを起こして二つ三つ目の駅で下車して、線を乗り換える。
 ワインレッドの車体。
 京都に着くまで数十分。
 階段を上がって改札を出、出口を選んで地上へ。商店街に出る。
 右も左も店。狸、食べ物、珍妙な単語がプリントされたシャツ、キーホルダー、みやげ物、その他。各々の売り物がずらりと並び、非常に見目華やかだ。
「見ていくか?」
 綺礼が尋ねれば、ギルガメッシュは顔を輝かせてこくりと頷いた。
 彼の関心は幅広いらしく、少し歩けば足を止めて、楽しそうにディスプレイや出された商品を眺め始める。
 服屋にも立ち寄ることになった。
「どうだ?」
「……さすが英雄王、常人には理解できないセンスをお持ちだ」
 自信満々で試着室から出てきた彼の格好にはそうとしか言わなかった。面倒なので改定案は出さない。怒り出しはしなかったが、本心を察したのかギルガメッシュは結局何も買わなかった。
 まっすぐ。
 途中、交差していた通りに進路を切り替えた。こちらの商店街は食べ物がメインだ。漬物や魚、揚げ物のタレの匂いが交じり合ってそこらに漂っている。
「おお、漬物とはこんなに種類があったのか! 白菜の浅漬けやら福神漬けやらキュウリのキューちゃんやら……ああもう面倒くさいとにかく我はそれくらいしか見たことがないぞ! うずらの肉!? うずらなんて卵しか知らんわ! 米も! 何がどう違うか見ただけではさっぱりわからん味比べがしたい! それにあの花の菓子もなかなか愛い! あの鱧とかいう魚も口にせねばなるまいて! なんだなんだ、現世はまだこんな未知の食い物が溢れていたのか!? ぱないの! 何故さっさと我に教えなかったのだ綺礼!」
「落ち着け」
 金髪紅眼、一目で異国の人間とわかる彼はただでさえ目立つ。というか観光に来てはしゃいでいる外国人だと思われて、先ほどから道行く人に笑われている。
 某ドーナツショップに初めて行ったときの元吸血鬼のようだ。金髪と王と最強と大小ツーパターンある繋がりなのか。ああ三大欲求が強いところも一緒か。
「まあ、今日知れたのだから良いじゃないか。おまえは金は沢山持っているのだから、好きなだけ買い食いしてみればいい」
「言われずともそうするつもりだ!」
 まずは鱧、と走っているのと変わらない速さの早歩きで店へ向かう、世界最古の王。
 この分だと昼食の場所に悩まずに済みそうだ、と冷静に思考する神父。
 王のお忍びと言うより、修学旅行に来た中学生と引率の教諭みたいなノリである。
 ぱたぱたと駆け回り、一口食べてはうまいうまいと騒いで饒舌な店員に声を掛けられ、長話が始まる。しばらくは様子を見ていたが、パターンが同じなので綺礼も飽きた。遠目で位置を確認しながら、魚屋や漬物をぼんやり眺める。
 あっちは勝手に腹を満たしそうだったので、途中ペットボトルの茶と、自分の分だけたこ焼きを買った。
 店の隣に立って一人で食べる。表面はカリッと焼かれている生地をかじると、ブツ切りにされた蛸と中身がトロトロと溢れてきてなかなか美味しかった。量にしては安いし腹も膨れる。優秀だ。
 咀嚼しながらふと顔を上げると、正面は八百屋らしかった。野菜と果物が、値札を添えられ所狭しと並べられている。
 その中で赤いのが目を引いた。
 林檎。艶々と輝いている。
 神と一緒によく描かれている果物だ。
 昨日読んだ聖書の内容を、ふと思い出した。
「綺礼」
 反射的に振り向く。
「傍にいないから探したではないか。手間を掛けさせるな」
「楽しそうだったから邪魔をしては悪いと思ったのだよ」
「一つ寄越せ」
 横柄に言う青年に、発泡スチロールのパックと箸を渡す。
「もうこの辺りは満足したか?」
「応とも。そろそろ目当てのものが見たいぞ」
「わかった、では移動しようか。……熱いので火傷しないようにな」
 一応言い含めると、彼はふーふー息を吹きかけて冷ましながら食べていた。
 元来た道を辿り大通りへ。時刻表と行き先を確認しつつ正しいバスに乗り、三十分後。
 到着。
「おー!」
 鹿苑寺境内拝観。金閣発見。
「おー!」
 時折隣を通る制服姿の子どもと同じような反応である。
「三層になっているのか……池に船を浮かべて遊べるな。実物の方が余程鮮やかな色をしているではないか。屋根の鳥もまた良い! おい綺礼、あの中にはどうやって入るのだ!」
 ギルガメッシュは木の手すりから身を乗り出すようにし、しきりに前を指差している。新緑に包まれ、澄んだ水面に浮かぶ黄金の建造物。積み重ねた年月の分、歴史の分、確かに威厳さや迫力というものがある。
 が、綺礼は貰ったパンフレットを眺めながら、素っ気無く言い放った。
「入れないぞ」
「はぁ!?」
「あちらは非公開らしい。ついでに言っておくと買い取りも出来ない」
「何故だ!」
「国を挙げて大事に管理し、皆の物として愛でようという決まりなのだよ」
「使われてこその道具だろう! 具体的には我に!」
「それが現世でのルールだ」
「現世だろうとこの世界のルールは我だ!」
「おまえももう大人だろう……あまり駄々をこねるな」
 ギルガメッシュの顔から、みるみるうちに興奮が消えた。
 そして辿りつく一つの推論。
「……おまえ。こうなると予想した上で我を連れてきたな?」
「さぁ?」
 綺礼は静かにパンフレットを閉じる。その余裕に満ちた態度と意味深な台詞に、ささくれ立った神経がますます傷つけられる。やがて無表情だった彼はうっすらと笑んで、どう見ても状況を楽しんでいる顔になった。
 バックの快晴と優美な建物には似合わない、火炎のような強烈な殺気が青年の背中から立ち上る。
「白々しいにも程があるぞ貴様ァ……ここで殺してやろうか……」
「それは勘弁してほしい。白昼、しかも一般人の前だ」
 綺礼は全く動じない。涼しい顔で黒いコートのポケットにマップを滑り込ませる。その背後を小学生らしい人影が平和に通り過ぎる。
 そもそも、と神父は事もあろうに燃料を追加した。
「私は嘘など吐いていない。聞きもせず、勝手にそう思い込んだのはおまえだろう?」
 最後の方は堪えきれなかった笑い声を漏らしながら放たれたその言葉に、ついに英雄王の堪忍袋の緒が切れた。
「殺す貴様絶対殺す!」
「はっはははははは!」
 古びた木の床を裸足で踏み鳴らしつつ、早足で逃げる黒とそれを追いかける白。走り出さないのはせめてもの周りへの配慮であろうか。
 寺を出れば足はようやく走りだし、年甲斐もなく道路を駆け回る。
 京都旅行は一転して追いかけっこに変わり、日が暮れて鬼が降参するまで続けられた。


「くそ……まさかあそこまで逃げ足が速いとは……」
「一応現役の戦闘員だからね、私は」
 代行者。怪物と渡り合うのが言峰綺礼の仕事である。サーヴァントとはいえギルガメッシュの基礎能力は大したことがないのだ。撒くくらい造作もなかった。
 バスに乗って昼の大通りに戻り、商店街に入らずまっすぐ行って四条大橋を渡った。
 もうすっかり夜である。階下には店々の明かりが立ち並び、川にその光景が映り込んで静かにたゆたっている。岸には沢山の男女が座り込んで、それを眺めていた。名物・等間隔の法則。
「混ざるか?」
 ギルガメッシュが悪戯っぽく尋ねてきたが、謹んで辞退した。
 彼の案内で、前に来たという焼肉屋に入る。通され、座に腰を下ろすとようやく落ち着いた。
 コートを脱いで適当に畳んで。
 オーダーは日本酒と肉と野菜を適当に。
「今日は満足してもらえただろうか? 英雄王」
「うむ。不服はあったが不満は無いかな」
「それは上々」
 お待たせしましたー、と営業用スマイルで店員がグラスを持ってくる。それにギルガメッシュが手を伸ばして、一口含む。
 油くさい店にいようと普通の酒を飲んでいようと、気品が損なわれないのが彼の不思議なところだ。
「――しかし、なんというか」
 ん、と青年は目だけで反応した。
「おまえは変わらないな」
 綺礼は言いながらコップの上の方を掴んで、軽く揺らした。中の氷がからり、と鳴って揺れる。
 日本を出ていた間、彼と全く接触はなかった。半年という月日が流れていたというのに、ギルガメッシュは前話したときの彼をそのまま持ってきたようだ。朝から我儘で強引。つくづく自分の欲望に忠実で、プライドが高くて。最初会ったのが幼年体の方だったから、余計にそう思う。
 軽い音をたててコップが置かれる。
「それはおまえもだろう。相変わらず万年仏頂面で性悪。どこをどうすればこんなにひねくれるのやら」
 ――ほぼおまえのせいなのだが。
 そして最後のくだりは彼が言えることではない気がする。
 先ほど怒らせたばかりだから胸に留めておくが。
「……なんだか安心したよ。私は」
 朝になって彼が現れて、いきなり突拍子もないことを言い出して。
 ああ、健在なのだ、と。
 ちゃんとあの街で待っていてくれたのだと。思った。
 この人は自由に見えたから。冬木の地に縛られているのは同じなのに、この金色の人はどこまでも奔放で、悠々としているから。
 急に自分を置いて、どこかへ行ってしまいそうなのだ。
「だが」
 強い声。咎めてはいないが呆れてはいる。
「それと同じくらい強く――いなければ良かったのに、とも思っただろう」
 からん、と再び氷の音。
「愚かだな、おまえは」
 どうせ進むのに、迷ってばかりだ。
 綺礼は曖昧な表情を浮かべて、何も答えなかった。
 しばらくすると注文したものが運ばれてきて、「鳥は危ないからもう少し待て」「これくらいなら平気だろう我の時代はな」などと軽い会話を発生させつつ、たらふく食べてお開きになった。

 最寄り駅のプラットホームは地下にあった。
 階段を下りて立つ。時折どこからともなく風が吹いてきて、髪やコートに指先を引っ掛け、次の場所へ悪戯をしに去っていく。はあ、と息を吐くとやはり白くなった。時刻は深夜零時。勤め人も学生もほとんど帰った後で、実に閑散としている。
「しかしこの電車とやらはヴィマーナほどではないが馬力があって良い、これだけ離れていても冬木まですぐだからな。教会まで引けないものか」
「それは無理だ」
 他愛のない会話も、遠慮なく四方に響き渡っていく。
 電車が到着するまであと数分。乗り込んだらまた、一時間半掛けて地球を移動する。
 テープを巻き戻しするように。最初の場所に戻るのだ。
 どうやっても、冬が未練がましい、あの街に行き着く。
「――たまにな。冬木に戻りたくないと思うときがある」
 そんなことを言い出してしまったのはきっと、あんなくだらない話を撒き散らして許されるなら、これくらいいいだろうと思ったからだ。彼以外誰も聞いていないことを知っているからだ。
 誰もいない、天どころか地の下なのだもの。
 神様だってきっと聞いちゃいない。
「聖杯戦争、代行者、『この世全ての悪』。どうせこの命は、次の戦争の終結と共に幕を閉じるのだ。すべて忘れて、どこか、遠くへ行きたいと。旅支度をしているときに、そんな考えが頭を過ぎることがある」
 隣の青年は綺礼の方をちらともせずに、
「妄言だな」
 吐息混じりにそう吐き捨てた。
「ああ。自覚はあるさ」
「まあ実際問題、我らは次の戦争に参加する義務があるわけではないがな」
 自分の願いのために用があるだけだ。
「……もし私が冬木から去ると言ったら、おまえはどうする? ギルガメッシュ」
 自分たちは一蓮托生、というわけではない。むしろ成り行きによっては敵となる可能性すらある。普通のマスターとサーヴァントの関係ではないのだ。
 ギルガメッシュはふむ、と唸った。
「触媒もあるしパスは繋がっているから、魔力さえ受け取れれば何も問題はないな――現界するにあたっては。しかしおまえがいないとつまらない。聖杯戦争に参加できないのはもっとつまらない」
「我儘な奴め」
「この世界は我が庭だというのに、何故他の輩に気を使ってやる必要がある?」
 あまりにらしい答えに、綺礼は微笑する。
 反対路線の電車のドアが閉まって、出発した。
 風。
 さらさら揺れる金色の髪。コートの裾。ゆっくりと小さくなっていく、機械が稼働する音。
「そもそもそんな仮定は最初から成り立たんだろう? おまえは自身が在る意味を知りたいという欲求から逃げられない。得るには次の聖杯戦争に参加する他無い」
 聖職者は答えない。
「それに、もうおまえは平穏な生活に戻れまいよ」
 つい、と顔を動かして、ギルガメッシュはこちらを向いた。無表情に僅かに笑みが差していた。頬紅より蠱惑的で、よほど人の心を惑わす微笑みだ。
「識ってしまったから。蜜の味を」
 楽しそうに、謡うように彼は言う。
 誘惑。
 蛇。
 昼間に見た、艶々とした赤い林檎。
 詰まっているのは甘い甘い。
「そう仕向けたのは――私に知識の実を渡したのは、おまえだろう」
 無感動に言えば、くつくつと喉を鳴らして笑われる。
「おいおい、人のせいにするなよ。我は差し出しただけで何も口にしろとは言っていない。受け取ったのはおまえ。食べたのもおまえ。楽園を追われ戻る場所を失ったのは――綺礼、おまえ自身の責任だ」
 心底愉快そうな顔。
 ああ、その通りだ。でも。
 ――その果実を自分は喉から手が出るほど欲しがっていて、手を伸ばさずにはいられなかったことは知っていたくせに。
 半分確信犯だ。
「責めてもいないし後悔などしていないさ。むしろ感謝しているくらいだ。だが――」
 ただの自業自得。ねじれていたものが元に戻っただけ。元々そうだったものを自分がしっちゃかめっちゃかにしていただけ。この男は最初の形に戻しただけ。
 だからこそやりきれない。
 夢想してしまう。有り得ないことだと知っているのに。
 白い息。まだ生きている証。すぐ消える。
「もしこの道を選ばなかったらどうなっていたのかと。思うときが、あるのだよ」
 神にも師にも背かない自分は。己の幸福は人を傷つけることでしか得られないのだと知らない自分は。起伏のない日々という、楽園に留まった自分は。
 もしかしたら今よりマシな気分だったかもしれない。
 もしかしたら今より幸せだったかもしれない。
 もしかしたら――自由だったかも。
 そんな儚い夢を見てしまう。
 だが失くしたものは還らず。世界には取り返しのつかないことが、確かにある。
 それでも人は振り返りたがる。
 黄金の王は嘲るようにフンと鼻を鳴らした。
「感傷というやつか。くだらんな。やはりおまえは愚かだ」
「ああ。おまえからすれば私など若輩だろうよ」
 きっと自分はその『もしも』を選んだって同じことを思うのだ。こんなのはただの堂々巡り。結局自分は、この道を転びながら進むのだ。
「……しかしまあ」
 レールがガタガタと鳴る音が聞こえてきた。
 まっすぐ伸びる、眩いライトの光。
 輪郭を縁取られて。
 逆光。顔に落ちる暗い影。それでも輝く紅い瞳。
 昨夜のように柔らかく、慈愛に満ちていた。
「そんなおまえだからこそ、我はとても愛しく思うのだよ。綺礼」
 『もしも』のおまえに興味など無い。
 そう言ってそっと、近い方の手を取られた。
「……ギルガメッシュ?」
 にんまりと、ますます笑みを深める彼の顔から、先ほどの妖艶さや不気味さは消え失せている。
 今はそう――勝利を確信してスタートラインに立つ、子どもみたいだ。
「今日の褒美だ。我が連れ帰ってやる」
 赤いプレートの特急列車。ドアが開いて、力いっぱい手を引かれる。変なステップを踏むように続いて乗り込む。
 府から府へ。昏い街を猛スピードで通り過ぎる。流れていく街灯。星のようだ。サウザンクロスにはまだ下りられない。ハルレヤ。
 車内でも、乗り換えでも、彼はずっと手を放さなかった。
 府から、県へ。冬木へ。行きの街並みはすっかり闇に覆われて、看板の文字や屋内から漏れるライトしか見えない。
 電車を下りる。階段を上がって、切符を通し改札を抜ける。
 冷えた空気が一気に全身を襲った。
 右手にあるのはスーツケース。じゃなくて、手。自分より少しだけ小さいのに力強い。それがぐいぐいと先を促す。進路を勝手に決めて振り回す。温かくて骨張っている。
 通りを突き進んで、道を早足で突っ走って、丘を登り、目的地にはあっという間に着いた。
 教会。荘厳に静粛に。明かりも付いていないので人の気配が全く無く、少し不気味だ。神聖とも言える。
 しかしギルガメッシュはそんな重圧などなんのその、重い扉を突き飛ばすように開け、信徒席や祭壇に向かって「戻ったぞ」と怒鳴った。
「……なんだ」
 綺礼は力なく呟く。
 拍子抜けしたというか。期待はずれだったというか。
「やはりここか」
 ギルガメッシュが振り向く。
「ここ以外に帰る場所など無いだろう」
「何故かな……少し期待した」
 自分の知らない場所へ連れて行ってくれるのではないかと、ほんの少しだけ思った。
 自由に見えたから。
「たわけ」
 ばっさり言って手を離し、エナメルの靴をかつかつと鳴らして、ギルガメッシュは祭壇に足を向けた。
 今日も礼拝堂には、鮮やかな月明かりが落ちている。
 その下まで行ったところで、彼はくるりと体を反転させる。光に照らされてきらきら輝く、蜜色の髪。白いコート。紅玉のような瞳。昨日と同じようで違う光景。
「他に行く宛が無いのではない。離れられないわけではない。ここに居ることを自身で選んでいる。好きでこの街にいて、好きでこの教会に『帰って』くる」
 聖杯が現れるまで、今日のように暇を潰しながら。
 どこへ出ようと、最後にはおまえが戻ってくるであろうこの場所に、帰ってくる。
 自ら望んで。
 だからこの教会が今の自分の住居だ。
「願望機ごときが我を縛ろうなど数万年遅いわ」
「――――」
 高らかな演説を前に、綺礼は絶句する。
 そしてすぐに納得した。
「――こんな寂れた教会でも、か?」
「まあ趣味ではないし、今日見た茶室に数段劣るが目を瞑ろう。その分おまえで楽しめれば良い」
「触媒もあるしパスは繋がっているから、魔力さえ受け取れれば何も問題はないと言っていたくせに」
「その後に、おまえがいないとつまらないと言った筈だが?」
「全く――つくづく自分本位だな。おまえは」
「当然。我を誰だと思っている」
 ふ、と思わず笑みがこぼれる。
「世界最古の黄金の王、シュメールの支配者。英雄王ギルガメッシュ。……自由気儘な私のサーヴァント」
 ご名答、と目の前の青年は満足げに言い返した。
「きっと我は、おまえが思っているよりおまえのことを気に入っているぞ?」
 そんなことまで――付け加える。
「さて、おまえはどうするのだ? 綺礼よ」
 誘うように、尋ねてくる。
 自分の戻る場所。即ち。
 ――家、か。
 追放されて帰るところを示されるなんて、何とも皮肉な話だ。
 でも、失くしたものは手の届かない後ろにあって。
 欲しいものは、目も届かない先にあるんだから。
 選ばないと。決めないと。……幸か不幸か、嫌でも前を向かせてくれる人はいる。
 胸にそっと手を当てた。その下には黒い心臓があるはずだ。
「ならば私は」
 義務とか成り行きとか契約でじゃなく、望んで。
「何度でも貴方のところに帰ってくる。――そう約束しよう」
 厳かに、静かに。言葉を紡ぐ。
 すると彼は小さく笑った。キレイに、きれいに。心底可笑しそうに笑う。
 自分は美しいとかよくわからないけれど、こういう光景を多分、綺麗と言うのだろう。
「――では王よ、早速一つ頼みがあるのだが」
「何だ? 申してみよ」
「時間がなくて私室を掃除できなかったものでな、寝る場所がないんだ」
 寒いと、誰かの存在や体温が愛おしくなる。
 今ならわかる気がする。
「今晩もおまえの部屋に行かせてくれ」
 ギルガメッシュは一瞬呆気に取られた顔をして――すぐに、返事をした。



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