こんな夢を見た。

 自分はあの泥の前に立っていた。
 泥は半透明の腕を無数に伸ばし、助けを求めるようにうごめいている。しかしその腕は全てを溶かしてしまう。傷付けて食べてしまう。何もかもを。
 触れあおうと差し延べてくれたものにすら満足に応えられない、その有り様はこの世のものとしてひどく歪で、自分によく似ていた。

「…………」
 浮上。
 一番に見えた天井は相変わらず白い。カーテンの隙間から少しだけ朝日が漏れ、私室を明るく照らしている。
「…………」
 冬眠から覚めた熊の気分だ。なんだか気が重い。
 時計を見るといつも起床している時間を過ぎていた。寝坊だ。上体を起こし、溜め息を吐いてベッドから下りる。
 まっすぐにクローゼットへ。きちんとブラシをかけたカソックと糊の効いたシャツを引っ張りだし、寝間着から手早く着替える。
 仕上げ、と言わんばかりに首から十字を掛けて胸に落とした。そうするとただの伽藍洞に、神父という肩書きが加えられた。
 洗面所に行って適当に身支度を整え、エプロンを付けて朝食の準備を始める。ハムエッグとサラダとスープと、といつものメニューが二人分。皿に載せられテーブルに次々並ぶ。
 そろそろトーストが焼ける、というところで綺礼は料理から集中を外した。触らなければ夜まで寝ているであろう同居人を叩き起こしてこなければならない。
 と部屋のドアの辺りに目を向けると、脳裏に描いていた像が立っており、綺礼は不意を突かれた。
「珍しく早いな」
 ギルガメッシュは答えない。大欠伸を手で隠しながら、椅子を引いて腰を下ろす。
「何かあっただろう」
「何か――とは」
「それはこちらが聞いていることだ」
 そう言うギルガメッシュの目は眠たげ、というより虫の居所が悪いときのそれであった。しかし心当たりはない。正直に答える。
「別に何も」
「ではその胸の泥は、何故昨夜と様子が違う」
 綺礼は呆気に取られた。
「……それは私にもわからない。だが夢は見た」
「どんな内容だった」
「私は『この世全ての悪』の前に立っていて、泥を眺めている。ただそれだけだ」
 ギルガメッシュは眉を潜め、何やら考えごとを始めたようだった。ぼんやりとした眼差しを皿に送り、フォークを掴んでカチカチやり始める。
 綺礼にも訳がわからない。確かに自らはあの聖杯の中身――『この世全ての悪』を心臓代わりにして動いている。だが聖杯はセイバーによって砕かれた。器を失い、あれは再び元の場所へと帰ったのだ。この胸にあるのは切れ端のようなもの。また杯が満たされあれが現界するとき――つまり次の聖杯戦争まで、動きはないはすだが。
「……きな臭いな」
 英雄王はぼそりと呟く。
「あの夢は泥が見せたものだとでも?」
「可能性はある。その泥の魔力が僅かに強くなっている。散らばった聖杯の欠片が何らかの理由――たとえば、魔力を込められたとか――で器として再び機能し、泥が僅かに力を得、手近なおまえに助けを求めたのやもしれん」
「そんなことがありうるのか?」
「知るか。我に聞くな」
 しかし確かに、砕かれた聖杯の欠片がどうなったのか綺礼は知らない。その場に置き去りにされているならば拾う者がいてもおかしくない。万物の願望機である聖杯の欠片だ、魔術師ならば喉から手が出るほど欲しいだろう。
 綺礼の脳裏に何故かふと、間桐の老人の姿が思い浮かんだ。
 御三家の中で唯一動けたはずの魔術師。あの狡猾さからして、手を回し回収していても不思議ではない。
「もしまた動きがあればすぐ我を呼べ」
 ギルガメッシュは顔を上げ、神父を射抜いて低い声で命じた。
 面倒なこととは何か。あの、虐殺を生む泥が再び逆流してくるとでも言うのだろうか。
「――ああ」
 質問攻めしたくなるのをぐっと堪え、綺礼はそうとだけ返事をした。
 沈黙。
 一拍置いて。
 深刻な空気などお構いなしに、トースターが軽やかなベル音をたてた。
「綺礼、マーガリン」
 途端、必要な単語以外を完全に短縮した、ぶっきらぼうな声が飛んだ。彼はほぼ毎日こうだ。自分で作業をしたがらず、欲しい味だけをこちらに告げる。
 今回少し世話になりそうなものの、それとこれとは話が別である。あまりの横暴さに半ば呆れ、半ば苛ついた綺礼は少々力を込め、いつものように冷ややかに言い返した。
「自分でやれ」

 朝食を摂り、休憩すると、ギルガメッシュは外へ出かけていった。
 受肉したギルガメッシュは予期せずこの世に留まることになった。責務もなく義務もない彼は、暇を完全に持て余している。綺礼には教会の仕事があるし、自分で時間を潰してきてくれるのなら楽でいいと放任しているため、行き先は知らない。何をしているかもさっぱりだ。元々言峰綺礼は娯楽とはまるきり縁のない男なので、想像することすらできなかった。

 祈りを済ませ、いつもの仕事をこなす。懺悔に来る者はいなかった。午後過ぎになると暇ができ、いつもは司祭室で読書でもする流れとなる。
 しかし今日は椅子に座り、指を組んで、綺礼は一つの存在について思考を巡らせることにした。
 『この世全ての悪』。
 天上の孔に引っかかっていた聖杯の中身。その姿に己を重ねているのは、綺礼も自覚していた。
 自分は生まれついての悪であった。世界からは望まれないモノ。人に害をもたらすだけのモノ。未だ誕生してはいないが、それもまた、生まれつきの悪である存在だ。
 そんな存在が、有りの侭生きる事は罪であるか?
 我々の存在価値は一体どこにあるのか?
 第四次聖杯戦争が終了してから、綺礼はこの問題についてずっと考えてきた。答えは未だ得られない。まだまだ尻尾すらも見えず、当分は掴めそうにない。
 アレが誕生し、この世に生まれ落ちてみれば――と思う。
 だからいつかまた、杯に至らなければ。そして見届けなければ。
 そのために自分は今生きているようなものだ。
 胸にそっと手を当てる。心臓があるはずの場所は静かなままで、鼓動はない。しかし確かにある。ここに、彼が求めるものの欠片が。
 ――この泥こそ、自分とアレとを繋げているもの。
 そういえば。
 望みもないのにマスターに選ばれたこと、一度消えた令呪の再配分、そして蘇生。今思い返せば、聖杯は自分に期待を掛けていたように思う。
 聖杯のカラクリがわかった今考えると、もしかしたらあそこまで来れるよう、中身である『この世全ての悪』が救いの手を差し伸べていたのかもしれない。そうして自分をあの場に誘導していた。
 ――相手を求めているのは自分の方だけではないと、そう思うのは自意識過剰だろうか。
 『僅かに力を得た泥が、自分に助けを求めた』。
 朝に不遜な王が言っていた台詞を思い出す。
「……まさか」
 綺礼はそこで思考を打ち切った。
 教会はしん、と静まり返っている。ここには綺礼以外の者はいない。外からも何も音はしない。思えば日本に帰国し、遠坂に弟子入りしてからの三年、周囲に全く人がいない状況は久しぶりだ。
 誰にも干渉されず、誰にも関わらず。感情は凪いでいる。
 こうしていると、世界で一人になったような気分になる。
 第四次聖杯戦争で、綺礼の周囲にいた人間はごっそりと消えた。彼らのことをどう思っていたのか、綺礼は自分でもわからない。好いていたかもしれない。しかし仮にそうだったとしても、今の綺礼は平気で彼らを踏みにじれた。悩み、もがき、苦痛に顔を歪め惨たらしく死ぬ、自分好みの操り人形として扱えた。
 しかし同時に思うのだ。
 死の瞬間が見たいがために彼らを使い捨て、愉しんだ後、自分は――
「…………」
 駄目だ、余計なことを考えてしまう。物思いに耽っている暇があったら鍛錬でもしていよう。
 ――これだから暇は嫌いだ。
 破綻者は一人椅子から立ち上がった。

 ギルガメッシュは夕方ごろ、綺礼がキッチンに立ったころに教会に戻ってきた。
 それから普通に食事を摂り、入浴し、教会からの手紙に目を通したり読みかけの本を進めたりと、普段と同じ時間を過ごす。昏々と夜は更けていく。
「ん!」
 しかし突然ギルガメッシュが声を挙げ、綺礼は反射的に本から顔を上げた。
 ソファに横になっていた金髪の青年は身を乗り出し、テレビを凝視している。
 視線を追ってみると、液晶にはアイスクリームのCMが映っていた。外国人のタレントを起用しているところやフレーバーのネーミングから見て、高級感を強調しているのがありありと読み取れる。
「おい綺礼、あれを食べたことがあるか」
 CMが終わり映像が切り替わった後、ギルガメッシュは深刻そうな顔で言った。
「……いつか口にしたことはあるな。それがどうした」
「幼童どもがあまりにうまいうまいと騒ぐのでな。それほどの一品なら王として一度味わっておかねばなるまい、と考えていたのだ。で、あのハーゲンとやらはうまいのか」
「他と比べて少々値は張るが、それ相応の味はしていると思うぞ」
「ほう。やはり口にしてみる価値はあるか……」
 英雄王は腕を組んで唸る。
 ……世界最古の王が、まさか庶民の菓子の購入に悩む日がこようとは……。
「研究者辺りが聞いたら泣きそうだな」
「は?」
「いや、なんでもない」
 綺礼はしれっと返事をし、手元の本を閉じた。
「そろそろ私は休むが」
「そうか。なら行くか」
 ギルガメッシュは唸りながら大きく伸びをした。気まぐれな猫がそのまま人間になったような仕草だった。
「喜べ綺礼。今日は我が同衾してやる」
 紅い瞳を細め、チェシャ猫のようににやにやと笑うギルガメッシュ。綺礼は呆れたように片眉を吊り上げた。
「断る。この色欲魔め」
 罵ると、彼はむっとした表情に切り替わり反論する。
「そうではない、朝に泥の様子がおかしいと言っていただろう」
 それで意図を悟る。しかし漏れたのは、ああ、そのことか、と他人事のような感想だ。
「魔術師が事を起こすのは夜と決まっている。貴様にもしものことがあったら我も困るのでな」
 綺礼はだろうな、と言い返そうとしてやめた。
 ギルガメッシュはだらだらと立ち上がり、リモコンでテレビの電源を消して、既に寝る体勢に入っている。
 綺礼は僅かに迷った後、申し出を受けることにした。ギルガメッシュの言う通りではあるし、万が一何かあった時彼がいた方が都合がいい。別に同じベッドで寝るのもたまにやっていることだ。窮屈だが減るものでも、大した労力を使うことでもない。
 特に会話もないまま、洗面所に並んで歯磨きをして。
 寝室に向かった。
 二人でベッドに入る。
「消すぞ」
 返事はない。無言を是と受け取り、綺礼が照明のスイッチを切ると、部屋はたちまち闇で満ちた。
 毛布を被り寝台に収まる。
 かち、かち、と時計の針が動く音が、殺風景な部屋に響いていく。
なんとなくバツが悪く、隣の青年を見ないようにして寝転ぶと、こつりと背中に骨がぶつかった。相手もどうやら自分と同じ体勢を取っているらしい。触れている僅かな部分だけ体温が伝わってくる。
 身動きする度に衣擦れの音が耳につく。
「――なあ、ギルガメッシュ」
 返ってこないことを想定して発したのだが、意外にも反応があった。
「なんだ」
「……おまえもあのとき、聖杯の中身を――泥を見たのか?」
 彼は応、と問いに答えた。
「馬鹿の一つ覚えのように殺せ殺せとやかましい連中だった」
「…………」
 怨嗟と呪詛の渦である『この世全ての悪』を掴まえて「やかましい」呼ばわりとは。傲慢というか器が大きいというか、やはり英雄王の名は伊達ではない。
「それがどうした」
 綺礼は僅かに身動ぎした。
 少し迷って、ここ数日の調べで得た情報を口にする。
「――あの泥が英霊であることは知っているか?」
「否。初耳だ」
「一生を世界全ての『魔』の原因として扱われた一般人の英霊。民衆の罪を背負わされ、絶対悪であることを科せられ、自らもそうあろうとした人間の成れの果て。それがあの泥――『この世全ての悪』だ」
 第三次戦争でアインツベルンが呼んだサーヴァント。しかし『人々の願いが凝り固まったもの』であるその英霊は、敗退した際、聖杯に『願い』として組み込まれてしまった。
 綺礼はその情報を掴んで初めて、「聖杯が狂い始めている」という間桐の老人の言葉の意味を理解した。
「アレは誕生を望んでいる。現界すれば、アレは世界を焼き尽くすだろう。まさに生まれながらの悪だ――私のようにな。だから私はアレを誕生させる。そのときアレが出す答えを、見届ける」
 沢山声を出したせいか、急に喉が渇いてきた。
 ギルガメッシュは何も言わない。身動きもしないまま、ただ黙って話を聞いていた。
 水を取りに行こうか、そう思ったとき。
「全く、おまえという男は、途方もないことを真面目に考える奴よな」
 抑揚のない答えが返ってきた。
「答えのために全てを滅ぼすか。非効率かつ大掛かりな上、見ていて呆れるくらい不器用なやり方だ」
「だが私はそれ以外の道を知らんのだ。……おまえの庭を壊す下郎と、私を殺すか?」
「フン。この世界は無駄なものが多すぎる。少し減った方が我にとっても好都合だ」
 だが、と彼は言う。
「おまえの生き方は、やはり屈折しているな」
 言葉が。
 出なかった。
「その分だとさぞかし生きづらいだろう」
「…………」
「だからこそおまえは滑稽で、愛おしい」
 秒針の音。
「……おまえにだけは言われたくないさ。ギルガメッシュ」
 やっとの思いで搾り出した台詞に、背後の青年は反応しなかった。
 会話は途絶え、昏い夜に静寂が戻る。
 かち、かち、かち、とまた音がする。
 目を閉じた。
 背中の熱をしばらくほんのりと感じていたが、いつの間にか眠り込んでいた。
 今日は夢を見なかった。

 そしてまた朝が来る。
 いつものように朝餉を摂り、彼は出かけ、自分は教会の仕事をする。時間が来れば昼食。時は淡々と過ぎる。聖杯戦争の際の慌しさ、緊張感が嘘のようだ。
 そしてまた一人になる。
「――――」
 静かで。誰もいない。
 自分、ひとり。
「…………」
 そう思った瞬間、内臓が一気に熱を帯びた。
「!?」
 胸が熱い。思わず押さえるが止まらない。体がくの字に折れる。
「――っ、あ」
 呆然と体を見下ろすと、手の中からどろりと、黒いものが溢れだしてきた。
 泥は教会の床にぱたぱたと落ち、ひっくり返った蟲のように暴れる。おぞましかった。綺礼はそれを呆然と見つめる。
 瞬間。
 泥が一瞬にして質量を増し、綺礼の背丈ほどに膨れ上がり、
 神父は影の中に飲み込まれた。

 一昨日見た光景と同じだった。
 立っている自分。
 目の前には蠢いている泥。
「アンリ、マユ」
 そして取り込まれたことを思い出す。
 泥に向かって、彼は尋ねた。
「私を呼んだか?」
 答えない。
「おまえは私に救済を望んでいるのか?」
 答えない。
 それが答えるはずもない。
「――私ではおまえを誕生させられないのだ。来るべきときが来れば全力で手を貸す。いつかそこから出してやる。だから今は許せ」
 右の手を伸ばす。その、ぶよぶよとした泥に触れる。途端、掌がじゅうと音をたてて焼けた。
 流れ込んでくる。憎悪。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。気が狂いそうなほどの悪意の応酬。
 しかしそんな呪いの中でも、彼は正気を保っていた。
 そして『この世全ての悪』もまた、死に誘う手をそれ以上彼に伸ばすことはない。
 焼ける。焼ける。皮膚が焼かれ皮がめくれ肉が露になる。それでも彼は触れる。
 やはり自分もコレと同じだ。壊す以外で誰かに触れる術を持たない。
「……だというのに私は、どうしてここに在るのだろうな」
 神は全能だ。故に自分が生を受けたことは間違いではない。
 だから自分も混じれると信じていた。必ず居場所があるはずだと。だが世界に馴染もうと生きていた二十年は、自分を虚ろにするだけだった。美しさや道徳に喜びを見出せないのは、己の修行が足りぬせいと痛めつけた。しかし結果、自分の不適合さを思い知らされただけだった。とっくの昔から自分は傷だらけなのだ。
 心は伽藍。気付いた幸福は実に歪。
 群れ、支え、愛しあう者たちを羨ましいと思いながらも決して瞬きの中には入れない。己には理解できなかった。遠すぎる。眩しすぎる。美しすぎる。星に手は届かない。淡い光を自分は食べるばかり。寄ってきた光は食う。遠い光は手を伸ばして食う。そのもがく姿を見、悦に浸る。しかし腹が膨れ、我に返った後無性に虚しくなる。結局伽藍に戻ってしまう。道徳と常識の染み付いた体は怪物になりきれない。愉悦を捨てきれない体は人間になりきれない。中途半端なまま、また星に憧れる。
 この世界は酷く息がしづらい。
「おまえもそうではないか?」
 求道者は問う。だから私を選び、助け、生かしたのか、と。
 同類がいれば存在することを肯定してもらえるから、と。
 泥は呪い、蠢くばかりで答えない。
「仮に、存在する価値を、ここにいていいという理由を見出せたとしても――我々は触れれば誰かを傷付けるばかりで、お互い以外の居場所がないと。そう思っているのでは、ないか」
 神父は無感情な、だがほんの少しだけ自嘲を含んだ声で、ぽつりと呟いた。
 その瞬間。
「全く世話の焼ける――」
 もう片方の手を引っ張られ、血まみれの掌が泥から離れた。
 背後から響いたのは力強い声。華やかな威圧感。――この独特の気配を放てる人間など一人しかいない。
 振り向く。紅い双眸が目に焼きつく。
 走りでもしたのか、珍しく息を切らし荒い息を吐いて、『英雄王』ギルガメッシュはそこに立っていた。
「こんなところでいつまで油を売っているつもりだ。帰るぞ綺礼」
 苛々とした様子で青年は言い放つ。綺礼は言葉が出なかった。何故おまえがこんなところに――そう言おうとしたところで、ずるりと後ろで気配が動く。
「!」
 生命を感知した泥は、綺礼を通過し、恐るべき速さで英雄王に手を伸ばした。
 しかし王は動じない。慌てる様子も見せず、冷ややかな目で泥を一瞥し、
「――失せろ雑種」
 一喝した。
 途端、触手がぴたりと動きを止める。
 放たれた威圧に怯んだのか。泥は彼を襲うことなく、ずるずると後退する。
 王はその無様さを鼻で笑い、高らかに告げた。
「貴様は我に恐怖しているのか? それでよい、また食い破られたくなければ大人しくしていろ。貴様の好期はまだ先だ。今回は去れ。我らは帰る」
 そして黄金のサーヴァントは、道化を率いて踵を返す。
 綺礼は手を引かれるまま、ただ歩く。『この世全ての悪』から一歩一歩遠ざかっていく。暗い空間の先へ先へと進んでいく。
「ギルガメッシュ――」
 呼び声にも目の前の背中は答えない。
 やがて前方に、地に突き刺さった、眩い剣が見えた。ギルガメッシュはそれに向かって歩いているようだった。
 到着すると、彼は引いていた自分の手を剣の柄に乗せた。
 彼も剣に触れ、目を閉じる。
 魔力が流れ剣が光る。空間が光で満ちる。目を開けていられない。傷が疼く。
 ぐるん、と。
 意識が反転した。

 気が付いたら教会の床に転がっていた。
「……今のは……」
「夢か、なんて世迷言は抜かしてくれるなよ」
 確かに、負傷した手が未だに激痛を訴えている。目の前に持ってくると、先ほどの空間にいたときと同じ状態だった。一瞬だけ名残惜しいと思ったが、速やかに治癒を施す。少し時間は掛かるだろうがちゃんと全回復するだろう。
「込められた魔力も少し稼動できるだけの量だったらしいな。それも今回で使い果たしただろう。もう次の聖杯戦争まで出てこれまい」
 視線を上げれば、自分のすぐ斜め上辺りに金髪の青年が寝転んでいる。
 起き上がろうとして、胸部の異常に気が付いた。
 先ほど見た剣が、心臓を通るようにして刺さっている。
 血は出ておらず痛みもない。だが綺礼の体を貫通し床まで達しているらしく、剣が何かかもわからないので迂闊に動けない。ピンで止められた標本の蝶の気分だ。
「もしかしてこの剣、おまえの宝具か」
 ギルガメッシュの所持する『王の財宝』には、魔術的な効果を持った武器が詰まっていると聞く。
「触れた者と使用者の精神を異空間に飛ばす魔術剣だ。一対一で内密な会話を行うときに使われたらしい。心配せずとも生物は切れぬ」
 とはいえ、こんなに豪快かつ思いきり刺す必要がどこにあるのか。
 綺礼がつっこむ間もなく、青年は話終えた後、黙ったまま顔を覗きこんできた。表情は失せている。紅い瞳が静かに観察している。ただならぬ雰囲気に綺礼は言葉が出ない。
「……綺礼、おまえは悪の存在価値を探しているのではなかったか」
 彼は珍しく無表情だった。
 綺礼は無言でもって問いを肯定する。
「確かに、有象無象は自分を害するものを歓迎しない。だが『言峰綺礼』という存在になら、価値などいくらでも与えられるのだぞ」
 それが『この世全ての悪』と『言峰綺礼』との、決定的な違いだ。
 アレには憎悪しかないが、綺礼には悪以外の一面も持ち合わせている。関わる誰かがちゃんといる。価値などその誰かが見出してくれる。
 ギルガメッシュは『悪』としてでなく、『言峰綺礼』として生きる選択もあると言っているのだ。余計なものを背負い込まずともよい、と。
「その方が遥かに生き易いぞ」
 青年は誘惑する。数日前、自室で自分を惑わせていた姿がフラッシュバックする。
 また自分は彼に試されている。
「――人と本質は切っても切り離せるものではない。茨の道であることはわかっている。だが、『悪』を捨てきれない『人間』だからこそ私なのだ」
 綺礼は申し出を切り伏せた。
 信仰に熱心で生真面目な神父は、主からの出題を避けて通れるような人間ではなかった。
「『悪』であろうと在る価値がある、生きよと神が告げるのなら、私は独りであろうと生きてやる」
 嫌われようと心が痛もうと、人の中に居所がないと嘆こうと、自分は『悪』として立ち続けるという。それは宣言だった。
 非情な王はふう、と一つ、小さな溜め息を吐いた。
 そしてほんの少し、綺礼に向かって笑んでみせた。
「それでよい。そうでなければ選んだ意味がない」
 全く泣き言をほざいたと思えば――とぼやきながら。
 彼は屈み、肩に顔を埋め、綺礼の体を強く抱きしめた。
「居場所くらい我が提供してやるわ。我を誰だと思っている? 唯一にして絶対の王、世界の全ての在り方を背負う者だぞ。『悪』(おまえ)ごとき矮小な存在、受け入れるくらい造作もない。誰が否定しても我がその存在を許そう」
 体と体が密着する。決して心地がいいとは言えない。力任せな上、柔らかくないせいだろう。当然だ。相手は男なのだから。
「おまえの場所はここに。そして我はここにいる。覚えておけ、綺礼」
 そう一方的に言い放った後、ギルガメッシュは沈黙した。
 しばらく抱かれていろ、と言わんばかりに、ギルガメッシュは腕の力を緩めない。そして綺礼は床に縫いとめられて動けない。刃の感覚がないとはいえ胸に剣が刺さったまま、という落ちつかない状態だが、彼が離れるまでこうしているしかない。
 触れている部分から、彼の体温がほんのり伝わってくる。
 ――彼の言葉はきっと綺礼を気遣ってではない。滑稽に生き続ける意志を聞いて、ならばまだ見ていて損はないと思っただけだろう。玩具を捨てるか迷って思いとどまっただけ。自分達の関係は愛ではない。利害の一致でできている。
 それでも破綻者には。
 その温かさが、言葉が、とても。
「…………」
 そのとき痛みが消え、綺礼は自分の手の治癒が完了したことを察した。両腕は居心地が悪そうに、体の横にだらりと下げられている。
「――――」
 だから彼は、その背中に、温もりを掻き抱くように、腕を回した。

「――今回の借しは高くつくぞ、綺礼」
「ああ――わかっている。何をすればいい」
「……ストロベリー」
「……は?」
「ハーゲンダッツのストロベリー。買ってこい」
「…………」

「……承知した」



/怪獣のバラード
 タイトルのわりにらっきょ主題歌聞きながら書いたシリーズ2 oblivious
 ハーゲンダッツのストロベリーは俯瞰風景ネタでした