※ギルガメッシュが舌ったらず


 早朝。丘で一人、黙々と八極拳の型を練習していた綺礼は、背後から近付いてくる威圧感を捉え思わず身構えた。
 しかしよく探ってみれば何のことはない、よく知った豪奢な気配だ。何か着に食わないことでもあったのか、足音高くこちらへ歩いてくる。
 黒鍵に伸びかけていた手を下ろし、一つ息を吐いた。
 金髪の青年の姿が丘の向こうから現れる。勢いを落とすことなく近付いて、視線をまっすぐ綺礼に向けている。――やはり何やら機嫌が悪そうだ。
「……こんな朝から珍しいな。何か用かアーチャ……」
 その瞬間、綺礼は目を丸くして黙らざるを得なくなった。
 いきなり服の襟を掴み、唾が飛びそうな勢いで捲くし立てるギルガメッシュが何を言っているのか、綺礼には全く理解できなかったからだ。 代行者で世界を飛び回っていた綺礼は、日本語以外の言語も話せる。だがこれは絶対に英語ではない。どこの国で聞いた言葉とも違う。文字化したら絶対に、変な記号の羅列になっているに違いない。
 ――まさかシュメール語か?
 ギルガメッシュの故郷の言葉。なら自分が聞き取れるわけがない。あれは紀元前の時点で死語となっている。
 ぺらぺらぺらぺら。
 揺さぶられながら、耳に大声が吹き込まれる。
 頭が痛くなってきた。
「……とにかく落ち着け」
 自分の襟から青年の手を外す。
「時臣師と父上に聞いてみよう。何かわかるかもしれん」
 そう言ってもギルガメッシュは訝しげに目を細めるだけだ。完全に通じていない。
 仕方なく教会を指さして、握っていた腕を引いた。付いてこい、という意味だ。彼もこの緊急時で空気を読んだのか、いきなり引っ張られたにも関わらず、大人しく綺礼の後ろを歩く。
 教会に着き、礼拝堂に入ると、父の璃正がちょうど司祭室から出てくるところだった。
「何故アーチャーがここに?」
 不審そうに尋ねられる。
「――どうもいつものように遊び歩いていた最中、問題が生じたようで。ここが一番近かったのでしょう」
 一瞬しまった、と思ったが、なんとか誤魔化した。
「問題とは?」
「言葉が通じないようです」
 この会話の間にもギルガメッシュは綺礼の腕を引っ張り、璃正を指さして何やら話しかけてくる。勿論綺礼には何を問われているのやらさっぱりわからない。
 璃正は眉を寄せ、「アサシンもか?」と質問を重ねてくる。
 綺礼は首を縦に振った。教会までの道すがら試してみたが、諜報活動に行かせているアサシンは呼んでも帰ってこない。本人から戻ってくるまで確認は不可能だろう。
「これがサーヴァント全員なら、由々しき事態だぞ」
「どうしますか父上?」
「……アーチャーを地下室へ。招集の狼煙を上げよう」
 老神父の重々しい口調に、綺礼もまた憂鬱な気分にならざるを得なくなった。

 マスターの使い魔はすぐさま全員教会に集合し、全サーヴァントの言語翻訳がストップしていることが確認された。
 帰ってきたアサシンも他と同じだった。誰か一人くらい言葉が通じる者はないかと思い一人ひとり呼び出そうとしたが、アサシンは全員同じ言語を使っているらしく、五人まででやめた。
 原因は不明。サーヴァントと現世の窓口になっている聖杯の不具合というのが時臣、璃正の見解だが根拠はどこにもない。
 璃正の提案に異を唱えるマスターはおらず、話はあっさり纏まった。
 ――聖杯の機能が回復するまで、聖杯戦争を無期限休止とする。
 命令が通じなければ戦闘も何もない。こうするしかなかっただろう。

「……とんだ事故だ」
 自室のソファに座り、綺礼は悪態を吐く。
 その隣にはギルガメッシュがおり、例によってキャビネットから持ち出したワインを煽っていた。朝の不機嫌さが嘘のように消え、今は落ち着き払っている。言葉が通じないことをなんとなく理解し、逆にこの状況を面白がっているらしい。
 ギルガメッシュが話しかけてくる。
 さてはこいつわざとやっているな、と思いながら、綺礼はそれを黙殺する。
 ――ぺらぺらぺらぺら。
「……だ、ま、れ」
 大きく唇を動かし、指で口の上にバツ印を作る。
 ――ぺらぺらぺらぺら。
「か、え、れ」
 扉を指さし、台詞に合わせてアクション。
 しかしギルガメッシュは動じない。
 ――本当に不便だ。
 思わず大きな溜め息が出た。その意味だけはわかったのか、目の前の青年はくすくす笑う。
 やがて彼は綺礼の腕をつついて呼び、テーブルの上の酒のボトルを指さした。
「……ワイン?」
 ギルガメッシュはむ、と唇を軽く尖らせる。
「わ、いん」
 発音がおかしい。
「ワインだ。わ、い、ん」
 今度は一字一句、はっきりと声に出してやる。
「わ、い、ん」
「わいん」
「……まあいいだろう」
 まだ少しおかしいが、それなら通じる。
 綺礼が頷いてやると、ギルガメッシュは満足げにしてからまた指定を変える。
 彼の人差し指の先は、自分に向けられていた。
「私か?」
 思わず口に出してから、自分を指さす。
 ギルガメッシュは二回、大きく頷いた。
「綺礼」
「きれー?」
「き、れ、い」
「きれー」
「語尾を伸ばすな」
 しかしギルガメッシュは聞いちゃいない。手にしたグラスをぐいと煽り、
「きれー、わいん」
 と悪びれもせず、空っぽのそれをこちらに突き出してくる。
 綺礼は再び大きく嘆息し、ワインのボトルを取ってやった。
 紅い葡萄酒をグラスに注ぐ。トクトクと音が流れて、透明な杯の中に溜まっていく。
 見届けて、綺礼は席を立った。
 自分には教会の仕事だってある。朝から暇人に構っている暇はない。
 が、カソックの裾を引っ張られ、動きが止まる。
「きれー」
 純真で無邪気な紅い双眸。
 口を開けば、流れ出るのは意味のない言語の羅列。
「…………」
 瞬間。
 それなりの力で頬を掴んで、屈んで顔を近づけて、唇を塞いでやった。
 ほんの少しアルコールの味がする、ふにゃりと柔らかい感触。
 ――わからないんだ。こっちは。
「うるさい」
 吐き捨てる。
 手を離すと、ギルガメッシュがぽかんとした顔でこちらを見ている。訳がわからないという風だ。あまりにらしくない表情に少しだけ笑えた。
 手の中から黒い服が抜ける。そのまま部屋の出入り口へ足を進める。

 しかし早くこの状況を何とかしてくれ。
 綺礼は神に祈るようにそう思うのだった。



/サーヴァントより怖い言葉の壁
 pixivではタイトルは「本当は怖い言葉の壁」になっていました。続きません。