ファンの回る音が大きく鳴り響く。
「便利になったものだな。我が時代が少々懐かしい」
 目の前に座る男は上機嫌だが、綺礼は憂鬱な気分で胸がいっぱいである。何故こんなことをしなければならないのか。耳に入るぶぉー、という音がさらに虚しさを加速させる。
 自分が留守の間に勝手に入っていたらしく、帰ってきた途端、風呂から出てきたギルガメッシュとちょうど鉢合わせしたのだ。何故教会で入浴などしている、そんな綺礼の疑問は「時臣の風呂場は使い魔がいて好き勝手できん」という一言で強制解決された。それから待っていたのは放り出されたタオルやら、散らかされた風呂場の後始末。やっと終わらせて戻ったと思ったらこれである。
 ドライヤーなど薦めるべきではなかった、と綺礼は心底思う。
 目を輝かせて受け取ったまではよかったものの、熱いやらぶつけるやらでギルガメッシュは次第に苛々し始めたのだ。
 出した結論は、「綺礼、おまえがやれ」。そしてギルガメッシュは綺礼のワインを煽っている。勿論勝手に。
 ギルガメッシュのマスターで綺礼の師でもある遠坂時臣は、大の機械嫌いである。彼の屋敷には全く電化製品がない。雑用やらは使い魔にやらせているため、彼の時代とあまり風景が変わらないのかもしれない。
「おい一ヶ所に当てるな、熱い」
「誰かの髪を乾かす機会など無かったものでな」
 無論わざとである。加えて言うと綺礼の台詞は遠回しな嫌味だった。しかしギルガメッシュは気付かない。言いながら位置をずらしてやれば事は終わる。
 金色のそれに指を差し入れて、風を当てながら水分を飛ばすように掻き回す。
 女みたいな髪だな、と綺礼は思う。細くて柔らかい。梳いていないのにさらさらと指通りがいい。これでどうセットすれば戦闘のときあんな髪型になるのだろう。
「――終わったぞ」
 ぱちん、とスイッチを切った。
「この出来に免じて先の失態は許してやろう」
 ギルガメッシュは自分の頭に触れて満足そうにしている。面倒かつ不毛だ。文句は無理矢理飲み下した。
 そして彼は空のグラスを机に置き、ソファーに横になる。
 閉じて、開いて、紅い瞳が濡れて光っていた。橙色の照明にも負けることのない、ただただ紅い色。宝石のようだと思う。文学的表現でよくある趣向だが、本当にそう思う日が来るとは思わなかった。
「――何を見ている、綺礼」
「いや」
 視線を逸らし背を向けた。ドライヤーのプラグをコンセントから抜き、コードを手で巻き取る。そのままドアへ足を進めた。
「我の目からは物欲しげに見えたが?」
 足音と一緒に、背後から声が被さってくる。
「……欲か。アーチャー、それは間違いだ」
「ほう? ならば何が正解なのだ」
「欲などより何倍も――性質の悪いものだ」
 扉を押して開け、返事も聞かずに部屋を出た。手を添えていないため、戸は乱暴に音をたてて閉まる。
 意図せずして、小さな溜め息が漏れた。
 やや自嘲気味な声色をしていた。

 第四次聖杯戦争、アーチャークラスで限界したサーヴァント。英雄王ギルガメッシュ。
 常に尊大、傍若無人。人を見下し、自分の前では余裕を持った振る舞いを見せる。整った容姿故か、実にそれがよく似合う。我儘を向けられる自分としてはたまったものではないが。
 しかしその姿も、金色の髪も、紅い瞳も、美しいとは思わない。思えない。
 ――いや、むしろ。

 ――また来ているのか。
 師との連絡を終え、部屋のドアを開ければ、隙間から白い服が視界に入った。やはり大仰にソファーに横になっている。今日は眠っているらしい。
「…………」
 近づいても起きる気配はない。綺礼にとってはその方が好都合である。
 眠ることはできても、本来睡眠はサーヴァントには必要のない行為だ。ギルガメッシュは暇だからそうしているだけだろう。
 ――サーヴァントでも夢は見るのだろうか。
 見下ろして、観察する。
 胸が僅かに上下している。肘掛けの部分を枕にしているせいで、顎が上がって喉が晒されている。
「――――」
 それを見た瞬間、心臓が変な具合に跳ねた。
 困惑、誘惑、抵抗――衝動。

 この男の首を締めたら、余裕が失せた姿が見られるだろうか。
 整った顔を苦痛に歪ませて。金色の髪を振り乱して。
 そのとき紅い瞳は何を訴えてくるのだろう。

 唐突に、彼に向かって手を伸ばしている自分に気付いた。
「……馬鹿な」
 思考を無理やり遮って、手を下した。ギルガメッシュから背を向ける。
 今はここにいたくない。自分が自分でなくなりそうだ。
 そうして綺礼は部屋を出た。

「…………」
 そして翌日。ギルガメッシュはまたやってきており、綺礼の気分はどん底に落ち込んだ。
 いつもの服装。いつものポーズ。空っぽのグラスと瓶が付属品としてテーブルに置かれている。今日は何か本を読んでいるらしい。なんだか意外だ。
 できればしばらくは会いたくなかった。相手への心配ではない。この青年といると、別の自分が殻を破って出てきそうで怖いのだ。
 しかしギルガメッシュは悠々と話しかけてくる。ページを捲り、
「どうだ? 我が出した題の進行具合は」
 と自分に話しかけてくる。
「……さほどは」
 事務机に足を進める。しばらく事務処理をしていよう。相手は適当にすればいい。
 そう思った瞬間。
「『きれいはきたない、きたないはきれい。さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐり』」
 突然、ギルガメッシュは歌うように言った。
 綺礼は仰天した。
 ソファーの方に目をやる。ギルガメッシュは相変わらずソファーでだらだらしている。
「ふん、なかなか味のある訳をするではないか」
「それは――」
「貴様の本棚にあったものだぞ。魔女の予言に浮かれて自らの欲に溺れていく。人の業よな」
 それで、貴様はどうするのだ? 綺礼。
 ギルガメッシュはまた一枚、ページを進める。
「…………」
 綺礼は一度だけ迷って、やがてソファーの方に、一歩踏み出した。
 コツ、コツ、コツ、と硬い足音。
 言峰綺礼はギルガメッシュの前に立つ。
 英雄王は面白そうに笑っている。神父は鉄面皮のまま彼を見下ろしている。
 ――そして。

「……いや。私はそうはならない」

 綺礼はふいとテーブルに屈んで、瓶を手に取った。
 ギルガメッシュが眉を顰める。綺礼はそれだけ持って踵を返した。
「――まあ良い。だがな綺礼」
 我は雑種に首を絞められたくらいでは死なぬぞ?
 場に落ちる、愉快そうな声。
「――――」
 思わず振り向くと目が合った。
 ギルガメッシュは今にも舌を出しそうな顔で、綺礼を、見ていた。



/とある衝動と手折れない花