今晩は何が食べたい、と聞くとオムライスが食べたい、と返ってきた。
「……本当にそれで良いのか?」
「あのむやみやたらに辛い麻婆豆腐の百倍、いや千倍は良い」
 そう言う青年の目は真剣そのものだった。
 美味しいのに、と小さな溜め息を吐き、言峰は口元を僅かに綻ばせる。
「では私は材料を買ってくるぞ。留守居は頼んだ」
「待て。我も行く」
 ぐうたらな青年から出た予想外の言葉に、少し驚く。
「珍しいな」
「別に。退屈なだけよ」
 ギルガメッシュはぽんとソファから立ち上がる。小さな頭を覆っている柔らかな金色が、その弾みでやわく跳ねる。
 白いシャツに、黒のライダースジャケットとズボン。服装こそ違うものの、男の外見は昔と全く変わらない。
 ……いや、やや顔つきが変わっている気がする。本人は違うと言い張るだろうが、『この世全ての悪』を飲んだ影響を受けているのだろうか。それとも十年のうちに現世にかぶれてしまったせいか。先ほどの夕飯のくだりで余計そう思ってしまう。十年前は見るもの全てが新鮮だったらしくあれが食べたい、これは何だと騒いでいたのに、今では現世の料理名を即答だ。
 仕度のために別れ、礼拝堂で待ち合わせた。
 二月になろうという冬木の気温は勿論低い。そして今日は雲行きも怪しい。雨だか雪だかが降ってきそうだ。傘を持ち、コートを着て相方が来るのを待って、揃ったところで外に出る。
「さむ!」
 ファー付きの白いコートを纏い、半分顔を隠すようにマフラーを巻いているにも関わらず、ギルガメッシュは悲鳴を挙げる。この青年の生まれは砂漠地帯だ。砂漠と聞くと年中温暖なイメージがあるが、夜になると気温が氷点下まで下がる。寒さには強い筈だが。
 ――やはり十年でかぶれたな。
「行くぞ」
 少々失礼な感想を抱きながら、言峰は教会の屋根から出た。ギルガメッシュも渋々、といった足取りで、その後ろを付いていき、やがて隣に並んだ。
 丘を下り、ショッピングモールへ足を向ける。言峰は商店街に行く気だったのだが、そちらの方がいいとギルガメッシュが口を出したためだ。食料品売り場は、休日であるせいか大層賑わっていた。幼い子を乗せてカートを引く主婦、一人暮らしらしい大学生。年齢層も幅広い。
「あーギル! なんか買いに来たの!?」
「よう幼童! その通りであるぞ!」
 カートを押し、相場と現実を秤に掛けながら葉物を見ていると、小学生くらいの少年がこちらに向かって手を振ってくる。応えるのは隣の金髪の青年だ。両者とも満面の笑みを浮かべている。
「これから公園で野球やるんだけどギルも来ねぇ!?」
「無理だ! 今日は忙しい! また暇ができたら遊んでやるから楽しみにしておけ!」
「そっか! またなー!」
 そして少年は母親に手を引かれ、どこかへ行ってしまう。その小さな背中を、ギルガメッシュは微笑ましげに見送っている。言峰も当初は信じられなかったのだが、この男、子どもには好かれる体質らしい。腐っても王である証拠か、波長が合うのかは定かではない。
「……退屈だ、と出かけに言っていなかったか?」
 神父が意地悪く言うと、英雄王はふふん、とふんぞり返るように腕を組んだ。
「今日はもう先約が入ったのでな。そちらに付き合ってやると決めたのだ」
 それを聞いて言峰は「そうか」と大人しく退散した。しどろもどろに言い訳する姿が見たかったのに、見事に空振りした。
「それより今日の具はウィンナーにしろ綺礼! 鶏よりそちらの気分だ」
「はいはい」
 野菜コーナーを回り、肉や魚のゾーンへ。
 途中、エプロンを付けた中年女性に声を掛けられ、新商品の春雨の試食を渡された。
「ん! なかなか美味であるな! 一つ買ってやる!」
「ありがとうねーお兄さん!」
 さてはこいつこのためにショッピングモールを選んだな、と思ったが言峰は何もつっこまず、ギルガメッシュがカゴに商品を入れるのを眺めていた。
 さらにカゴにはオムライスの材料と菓子、切らしていた日用品などが放り込まれていく。
「――こんなものか」
 一周したところで言峰が中を覗きながら言うと、
「これで最後だ」
 と、ギルガメッシュが横から分厚いものを滑り込ませた。それはでかでかとしたロゴマークとイラストが表紙になっている、彼が毎週月曜日に買っている少年漫画雑誌だった。
 言峰が何か言いたげな視線をやる。しかしギルガメッシュは無邪気に笑いかけてくるばかりで、結局言峰はカゴに雑誌を入れたままレジに並んだ。
 会計を済ませ、一つの袋に詰める。そこそこ重量があるが、元代行者で自分の体をずっと鍛えていた言峰が運べないほどでもない。手袋を嵌めているせいか、そんなに指に食い込む感じもない。自動ドアをくぐり賑やかな場を後にすると、外の微かな雨音が耳に入った。予報では言っていなかったが、やはり降ってきたか。
「ギルガメッシュ」
 言峰は腕に提げていた傘を彼に差し出した。
 左の肩の辺りにある頭。ちょいと顎が上がって、む、と顰めっ面を見せる。
「我に持てと?」
「その通りだ」
「…………」
 睨めっこが数秒続いた。
 その後でギルガメッシュが言峰の右手にある袋に視線を下げ、溜め息を吐いた。
「……今日だけ特別だぞ、雑種」
「心からの感謝を送ろう。英雄王」
 何の変哲も無い黒い傘。スイッチを押せばすぐに骨が張られ、ぱん、と広がる。
「ん」
 言峰の方に傾いて、差し掛けられる。
 ギルガメッシュは完全防備、その分では言峰の右半身の大半は濡れてしまうのだが、この青年にしては譲歩した方だろう。
 外へ出て。
 教会へ帰る道を行く。
 二人とも何も言わなかった。ただ、ぱらぱらと雨が傘の中に響いている。金平糖を転がすような音。冬木の街を静かに濡らしていく音が。密やかに。流れていく。それと足音。二人で歩む音。二人で。同じ道を。同じような歩調で。
「――手を」
「ん?」
 ぼうっとしていて聞こえなかった。
 視線をやる。暗い傘の下でも眩しい金色と紅色。マフラーの少し上、唇にぎゅっと力が入って、それから緩まる。
「手が冷たい」
 ぶっきらぼうに、白いそれが突き出される。
 こういう我儘は既に慣れっこだ。言峰は肘の辺りにレジ袋をスライドさせ、さっさと両方の手袋を脱いで、ギルガメッシュに渡した。
 が。彼はそれを平然と受け取り、ポケットに仕舞ってしまった。
 それから相合傘を解く。当たる雨粒が冷たい。ててて、と小走りで彼は回り込み、言峰の右手に落ち着く。
「ん」
 手が傘と一緒に再び突き出される。
 繋げ、という意味であることくらいはわかるが。
「……どうしたギルガメッシュ」
「いいから。我はこちらを歩きたいのだ。早くしろ」
「…………」
 方なく左手に袋を持ち替え、右手を空ける。するとすぐさま彼が自分のそれで埋めてきて、ひやりとした、骨張った指が絡んでくる。
 ギルガメッシュがそんなことをする意図が見えなかった。手を繋ぐことは前にもあったが、別に右だろうと左だろうと平気でやっていた筈だ。
 ――左だと何か不都合でもあったのだろうか。
 そんな疑問が湧いてきて、すぐ答えに思い立った。
 声は殺したものの堪えきれず口元だけで笑って、それから、心に小さな穴が開いた気分になった。

 ああそうだ。
 左手にはランサーの令呪があった。

 雨は止まない。
 最初冷たかった手は、言峰の熱が伝染したようにすぐに温かくなった。しかし礼拝堂の屋根に入るとそれは離れ、傘もなくなって、近かった体は一気に遠くなる。
 オムライスはウィンナー入り。野菜スープを付けて、二人で向かい合って食べる。
 言峰が食前の祈りを捧げている隙に、ギルガメッシュが皿を引き寄せ、ケチャップで何やら一生懸命字を書いていた。うまいこと半熟に焼かれた卵の上に描かれたのは、『ムッツリ』の四文字。
 批評者のコメント。
「食物で遊ぶな」
 ギルガメッシュはよく書けたと自画自賛し、爆笑していた。
 ちなみに自分のには、スペースいっぱいに『我』と書いていた。

 ギルガメッシュが風呂から出ると、先に入浴を済ませていた言峰はソファに座って読書をしていた。机にはワイングラスと、ボトルが二つ用意してある。
「お。今日は呑むか」
 ギルガメッシュがソファの、言峰の右隣に勢いよく飛び込むと、スプリングが悲鳴を挙げた。言峰は本を閉じ、無言でワインを注ぐ。葡萄酒の深い色が、透明な杯の中に次々と流れ込んでいく。青年は身を乗り出し、グラスを取って口を付けた。その唇から、ふふふ、と心底おかしそうな含み笑いが漏れる。
 腕が温かい何かに触れて、そのまま頭が肩に預けられる。
「綺礼」
「何だ?」
「我に言うことがあるのではないか?」
 こくり、と一口、酒を呑んだ。
 濡れた髪から微かにシャンプーの甘い匂いがする。
「……なあ、ギルガメッシュ。仕事と幼年体を大半は挟んだが、私達は長い時間を共にしたな」
「ああ。そうだな」
「十年――思えば妻といるよりも長かったな」
 あの頃の自分は愛そう愛そうと必死になっていて、彼女が与えてくれた普通の生活を幸せと感じることもできなかった。今の自分ならもう少しマシな振る舞いができただろうが、時間というものは戻ってこない。正直、それよりもこの唯我独尊の王との日常の方が、気を使わず心が安らいだ。なんとも皮肉な話だ。やはり彼女よりこの魔性の方が自分には合っていたということだろうか。
「それで情でも湧いたか?」
「そういう風でもない。そう、例えるなら――ずっと同じ傘に入っていた気分だな。おまえとは分かれ道に着くまで一緒で。なかなか遠いものだから、暇つぶしにずっと話をして歩いていて。だがもうそろそろ到着してしまうから、別れの言葉の一つでも言いたい。そんな、気分だ」
 グラスをゆらゆらと揺らしながら、ギルガメッシュはたゆたう水面を眺めている。酒より紅い、宝石のような瞳で。
「……そうか」 
 唇が小さく動いて、ただ一言だけそう返事をする。
「この先の私達の目的は違う。互いが邪魔になることもあるだろう。私がおまえの障害になっても是とし、おまえが私の障害となっても是とする。協力はしても馴れ合いはしない。私がおまえを楽しませている間は、おまえは私に力を貸す。そういう間柄だったな。私達は」
 彼は答えない。だが神父は先を続ける。
「どうも、長く居すぎた。勿論答えを得るという目的は忘れてはいない。これから先の聖杯戦争も楽しみで仕方がない。だが、あのぬるま湯のような生活も悪くはなかったと――思っている自分が居る」
 だから機会をくれと。
 求道者は言った。
「聖杯戦争が始まり、私は旧友を殺した。それ以前に沢山の人間を殺している。今更後戻りなどできない。だから今日限りで、私は今まで歩いてきた十年を捨てる」
 共に傘を差して歩いてきた、その道を、日々を、今日を忘れる。
 前しか見ない。もう。
 どれだけ雨が降っていても。先が見えなくても。道が見えなくても。辿り着けるかわからなくても。
 一人で、歩いていく。
 かちん、と。
 グラスが机に置かれ、衝撃で音が鳴った。

「ああ。おまえはそう言うと思ったよ。綺礼」

 ギルガメッシュは淡く微笑み、言峰の肩に顔を摺り寄せて、言った。

「許す。与えてやろう。そうだな、我は――育てていた鳥がようやっと飛び立つような。そんな気分かな」「…………」
「おまえの驚いた顔というのはなかなか見ものだな。いいぞ、もっとやれ」
「……見えていないだろう」
「見ずともわかるさ」
 するりと手が伸びてきて、言峰のグラスが抜き取られる。少々を残しただけの酒はテーブルの上に収まった。
「だが忘れるな。我の覇道の邪魔にならぬ限りは、十年前に言った通り、おまえの結末を見届けてやる。……おまえが目的地に辿り着いたらすぐに飛んで行ってやるさ。だからおまえは精々我に殺されぬよう、好きにやれ」
「……ああ。用心するさ」
「あと」
「ん?」
「我とて、もうおまえに触れないと思うと名残惜しくないわけではない」
 言峰は笑った。ギルガメッシュもフン、と鼻を鳴らしたが、満更でもなさそうな表情だった。
「なんだ――じゃあお互い必要なわけか」
 そう。
 だから。
 これで、最後。
 夢のような日々の終わり。
 傘を消す呪文。

「家族ごっこは――終わりだ」

 肩の方を向いたら目が合って。
 紅くて。紅くて。
 篝火のような、道標のようなそれに。
 身を乗り出して。
 唇が触れ合った。
 柔らかい感触と、酒の味がした。そういえば会ったときは酒ばかり呑んでいたことを思い出した。
 それが神聖な儀式であるかのように、舌は入れない。触れるだけで離れる。
「――御武運を。英雄王」
「ああ」
 そちらもな、言峰。と。
 彼がそんなことを言うものだから。

 ほんの少しだけ、泣きたくなった。



/Lost umbrella