※捏造嫁、snのHFルートネタバレにご注意ください。










 ケースの中に立てられた小さな札を見て、結婚指輪の値段は給料三か月分、なんて売り文句は存外いい加減だと思った。
「本当にそれでいいのか?」
「ええ」
 彼女が選んだ指輪に視線を向ける。調べた相場で言うと安くはないが高くもない、綺礼の稼ぎならぽんと出せるくらい。小さな青みがかったダイヤが二つ付いた、シンプルなものだ。
 一応尋ねてみたのは、デザインが気に入らなかったとか、そういうわけではない。むしろ彼女らしいしセンスは悪くないと思う。
 周りの同じようなカップルの片割れは、険しい顔でショーケースと睨めっこしている。その形相は獲物を吟味する野獣顔負けの迫力がある。しかももう何十分も何時間も店にいるのだろう、後ろに従う男は一様に辟易した顔をしている。同情はするが――結婚という、大事な大事な儀式の記念の品だ。血眼になるのも無理はないと、綺礼でさえ思うのだ。
 なのに彼女は十分ほどで決めてしまった。それが、気に掛かった。
「早くに妥協せずに、もっと見て選んでも構わないんだぞ。時間はたっぷりあるし」
「ううん、大丈夫よ。これがいいの」
 笑顔で言いきられてしまえば、反論の余地もない。
 そうか、とだけ答えて、微笑む彼女の顔を、ただぼんやりと眺める。
「それよりキレイはもう決めたの?」
「私は――」
 明るい店内を見渡す。正直どれも同じに見える。眩しい貴金属の輪っかにしか見えない。
「――決めてない。正直よくわからないんだ。おまえが選んでくれないか」
 彼女は目を丸くして、それからくすりと弾んだ声をこぼした。
「キレイは本当に欲がないわね」
「…………」
「ええと、じゃあ――あれなんかどうかしら」
 手を取って店の奥へ誘われる。繋がれた手は自分のものより数段小さくて、か弱くて、柔らかい。皮膚の下が透けそうなほど淡い乳白色をしている。連想するのは骨と、包帯と、雪。いずれにしてもおおよそ健康的ではない。
 実際、彼女は病に侵されやすい体質だった。もうあちこちが蝕まれてボロボロになっている。きっと、綺礼が少し乱暴にするだけで、その腕も足も簡単にへし折れてしまうことだろう。臓器は破裂して血を流すことだろう。
 儚い、を体現したような女だった。
 そのせいか、彼女と顔を合わせた者は、皆一様に容姿を褒めそやす。「綺麗な奥様ですね」と。その度に彼女は「ありがとうございます」と返事をして、照れくさそうに笑う。綺礼はその光景を、いつも口も挟まず眺めている。だってわからない。彼女と知り合ってもう一年になるが、綺礼は妻となる女のことを、一度も美しいと思ったことは、なかったのだ。
 彼女は自分を愛してくれているのに。
 好きだと思ったことも、一度もない。
 ――なのに結婚なんて。
 本当に、話が破綻していると自分でも思う。
「キレイにはこういうのが似合うと思うのだけれど」
「ああ………………………………そうだな」
「もう、しっかりしてくださいな」
 拗ねたような、でも楽しそうな明るい表情を振りまく彼女。幸せそうだ。――幸せなのだろう。だってもうすぐ結婚式だ。真っ白なドレスを着て、バージンロードを歩いて、彼女は好きな男の花嫁になる。それが、幸福でなくてなんだというのだ。
 そんなありふれた幸せの良さが。言峰綺礼には理解できないだけだ。
 胸の内に苦いものが込み上げてくる。
 結局、綺礼の指輪は彼女が選んだものを買った。捻りの入った銀色のリング。
 式が終わった翌日、朝起きるなりそれを嵌めてみた。――なんだか違和感があって、自分の薬指には少し、重く感じた。

 それ以降、綺礼はその指輪にほとんど触れなかった。
 代行者の主な仕事は戦闘だ。取るか取られるかの化物との戦い、装備一つ間違えば命取りになる。失くすと困るし、そんな血なまぐさい場所に持っていくのも気が引けた。戦いの後は疲れて、装飾品の存在など頭から吹き飛んでしまっている。
 大抵、思い出すのは妻と夕飯を囲んでいるとき。フォークを持つその指に嵌められているのを見て、だった。
「……指輪」
「え?」
「悪い。ほとんど嵌めてなくて」
 謝ったのは本心ではなく。きっと、普通の新婚なら、契りの印をほとんど外しているなんてことは有り得ないだろうと、思ったからだった。
 妻は静かに首を横に振った。
「お仕事に持っていくと危ないからでしょう? いいの、気にしないで。キレイが無事で帰ってきてくれることの方が大事」
 そう言って笑う。彼女は本当によく笑う。だけれどその笑顔は、いつもより少し影があった。――付けてほしがっているだろうことは、充分読み取れた。
 それからはなるべく身に着けようと心に決めたのだが、やはり時間が経てば忘れてしまっていて。妻がごくたまに、何もない薬指を見て寂しそうな顔をするのを目にしたが、結局指輪を付ける習慣は身に付かなかった。
 一年後に妻が死ぬまで、ずっと。
 葬儀の前の綺礼は抜け殻同然になっていた。何をしているかもわからないままで、準備はほとんど近所の神父が進めてくれた。
 棺に納められた彼女の遺体に触れる。白い花に埋もれ眠る彼女は、名匠が作ったオブジェか何かのようで――触れた頬はがちがちに硬く、青白く、冷たかった。
 見ていたら手伝いのシスターに声を掛けられ、白い包みを渡された。ナプキンに包んであったのはいつか買った指輪だった。輝きを失わないまま、静かに布の上で光っている。
 視線を外して彼女の指を見た。
 左の薬指の付け根は、金属の重みを受けて浅く窪んでいた。
 自分の左手を見る。
 刀傷はあるが、指は無骨で、まっさらなままで。
 ――今思うに。
 身に付かなかったのではなく、身に付けなかったのだ。
 自分はその、滅多に見せない妻の悲しそうな顔に、悦を感じていたのだろう。



 それから十年とちょっと。
 仕事机の引き出しを開けたら、奥の方から小さな箱が出てきて、中身を検めてみれば二つの指輪が収まっていた。
「…………ああ」
 思い出すのに少し時間が掛かった。小さな青いダイヤが入ったものと、捻りの入ったもの。その存在よりも、きちんと取っておいたらしい自分に驚いた。
 指先で弄る。きらきらと光を反射する。用を失った婚姻の証。――しかしもう。持ち主であった女の顔すら、綺礼には思い出せない。
 いっそ捨ててしまおうかと思ったが、結局、それは再び箱にしまわれた。
「――持っていたところで、何が変わるわけでもないのにな」
 結末も、言峰綺礼の在り方も。
 それでも引き出しの奥に放り込んで、ただ感傷に浸る。
 時計を見たらもう朝の二時を過ぎていた。礼拝堂の長椅子に転がしてきた少年はそろそろ目覚めないだろうか――そう思いながら席を立つ。
 衛宮士郎はその数分後に飛び起き、イリヤスフィールを取り戻すと言って教会を出て行った。どうやら彼は諦めておらず、間桐桜もイリヤスフィールも救う気でいるらしかった。好きな相手を守り抜く。その意志と闘志に満ち溢れた瞳は生気を滾らせている。先ほどまでぐったりして倒れていたのが嘘のようだ。しかしあまりに無鉄砲。このままではきっと、敵に闇雲に突っ込んで死んでしまう。
 ……その姿を微笑ましく思ったのか。亡くすことを惜しく思ったのか。協力を申し出たのは勿論こちらの目的のためだったが、一割くらいは、人間らしい感情があった。
 まだ十七、八の少年だ。衛宮切嗣の意志を受け継いだ者。全ての人間を救うと豪語し、誰かを助けることに至福の喜びを感じる、『正義の味方』という破綻者。構造は自分とは全く逆だが、同じような欠陥製品だ。初めて見たときから確信していた。そうだと、思っていた。
 自分の願望のために手元の幸福を全て切り捨てた衛宮切嗣。
 幸福の小さな欠片さえ見出だせず迷い続け、この世の悦を全て手に入れたと謳う王に導かれ――自らの幸福は、昏い感情の中にしか無いと悟った言峰綺礼。
 彼はそのどちらとも違った。間桐桜という一人を選び取った。その他大勢でなく、命に代えても、世界を敵に回しても守りたいと思える存在を、手に入れた。
 そして今。絶望的な状況に立っても諦めず、まっすぐ前を見て、一歩一歩、突き進んでいる。
 ――ああ、その姿に。
 何も感じなかった、なんて言ったら嘘になる。
「助けた相手が女ならば殺すな。目の前で死なれるのは、中々に堪えるぞ」
 だから、そんな言葉が口を突いて出たのかもしれない。
 逃がした衛宮士郎の後ろ姿を一瞬だけ見送って、らしくないことをしたと、後悔した。



 ……少しだけ。
 少しだけ、こんなユメを見た。

 自分は普通の幸福を享受できる普通の人間。
 彼女は体が弱くて病気がちだが、いつも穏やかに笑っていて、健在で。
 生まれた娘は傍にいて、ちょっと甘えん坊だ。癖のある銀色の髪と金色の瞳は母親譲り。こんな寒い日には黒いタイツを履いて、白いブラウスと紺色のスカートに身を包んでいる。
 娘は今年初めて降った雪を見に外へ出て、帰ってきたところ。教会の庭園に、ぱたぱたと軽い足音が響く。子どもは髪に雪をちらほらと積もらせ、寒さで頬を真っ赤にしている。首元の青いリボンがほどけ掛かっていて、妻が笑いながらそれを結んでやる。
「今から夕飯の買い物に行くけれど、カレンも行く?」
「はい! お母様」
「キレイも、荷物が大変だから手伝って」
「ああ、わかったよ。――クラウディア」
 コートを着て、手袋を履いて、あったかくして。
 真ん中に娘を挟んで。
 三人で手を繋いで、深山の方までゆっくりと歩いて行く。
 そんなありふれた日常。
 いつか望んだもの。
 手に入れたのに手に入らなかったもの。
 それは、もう手の届かない遠くへあって。

 目が覚めれば誰もいない、這うようにして帰ってきた教会と。
 間桐桜の手の中に置かれた、もう長くはない痛む体。
 一般の幸福を幸福と感じられない自分と。
 必死で貫き通した、間違いだらけの生き方だけがある。



 体に力を込める。刻限はすぐそこ。目の前の願望を、自分の願望を持って押しつぶす。
「ぐ――あ!」
 蹴りは的確に命中して、衛宮士郎の体が後ろに吹き飛んだ。叩き込んだ拳にも確かな感触がある。――ただ、彼ももう極限状態にいるらしい。
「……厄介な体だな」
 体の中から無数の剣がざくざくと突き出している。これでは触れるたびにこちらの四肢も傷付いてしまう。でもまあ、後などあと数分しか無いのだし、取り返しがつかないことになっても問題ないと再び構えを取る。
 背後には塔のように聳える『この世全ての悪』がある。黒く禍々しい呪い。彼が十年を賭けて求め、今守らなければならないものだ。
 ――いや。
 守っているのは、自分の在り方か。
 腕を振り上げながら、呑気にもそう思う。
 剣の体を殴る拳は既に骨が折れている。ひどく痛む。それでも攻撃の手を休めない。右が塞がれたら左の手で殴る。少年も縄張り争いの最中の犬のようなひどい顔をしている。

 ――誰にも代えられない誰か(こうふく)を見つけた相手。

 かつて自分にもいた。理解して、尽くして、自分の欠けを埋めようとしてくれた人がいた。あれほど自分を癒そうとしてくれた女は居まいとすら、今でも思っている。人の中に交われず、背徳を行い続け、罪を重ね続けるこの身にも、確かにいたのだ。

 ――なのに。

 どうして自分の方は。
 そんな大事なひとの顔すらも、もう思い出せないでいるのだろう。

 無我夢中で八つ当たりを繰り返す。
 砕けた左拳の薬指には――いつかの誓いの先。もう繋がる相手がいない、銀色に輝く指輪が嵌められている。


 そうして男は先に活動を停止した。
 捨て台詞を吐いて少年を見送った。地面に倒れ伏す。ごろりと仰向けになった。昏い瞳には、赤い泥の呪いと、洞窟のごつごつした天井だけが映る。
 今度こそ本当に死ぬな、と思った。
 しかし感想はそんなあっさりしたもので、後悔も未練も、不思議と何もなかった。
 ただ安らかに。暖炉の前にでもいるかのように、意識がゆらゆら揺れてとにかく眠い。ずっと緊張していたから反動が来たのか。全身だるいしもう休みたい。
 視界がぼやける。……前すら見えなくなる。
 そんな曖昧な視界の中に。ふと。
 白いものが映りこんだ。
 頭が僅かに持ち上がって、柔らかい何かを差し入れられた。
 ――白。
 連想するのは骨と、包帯と、雪。
 それから、彼女。

「……私は」

 ――あれから十年生きて、気付いたことがある。
 自分の中にも愛はあるということ。普通の形とは違うけれど、表現の仕方も違うけれど、それでも何かを愛する気持ちは生きているということ。
 愛せば愛そうとするほど、苦しむ姿が見たいと思った。今わの際にすら、直接自分が手を下したかったと思っていた。
 自ら地獄に落ちた馬鹿な女。他の死を見たときは可笑しさしか込み上げてこなかったのに、それだけはどうしようもなく『堪えた』。
 なあ、それは。
 こういうことだと思っては、いけないかな。

「おまえを、愛している」

 出した声はひどく掠れて、自信なさげで、いつもの自分からは想像もつかないようなか細いものだった。
 天井がぐらぐらと揺れて、轟音を発しながら崩れようとしている。それも気にならない。だって無性に眠いのだ。
 不意に、顔に柔らかいものが宛がわれた。それが綺礼の左頬をするりと撫でる。肌に一ヶ所だけ――何か、金属のようなものが引っ掛かっていた。
 穏やかな声で、それは言った。

「そんなこと、とっくに知っていましたよ」

 聞き覚えがないのに、どこかで聞いたことのある声だった。
 光の玉を転がすような声。
 薄く、苦笑いがこぼれる。

「――そうだったね」

 あのときの結婚式の文句。一生を愛し共に生き抜くという誓い。それがようやく、自分と相手とで、繋がった気がした。
 ああ、もう。本当に眠い。
 瞼を落とす。温かな感触だけをただ感じている。
 意識すらも落ちるその寸前。
 彼女の声が、微笑んだ気がした。

「お疲れ様。おやすみなさい、あなた」



/一隻のマリッジ
 隻:本来なら二つペアのものが片方欠けている状態のこと。