『海と坊主』
【夕凪通】
【駄菓子屋しちくま】
少年は全身びしょ濡れだった。
ちょうど駄菓子屋を通りかかったところで湊が声を掛けたからよかったが、そうでなければずっと黄昏寵(たそがれちょう)のご寵内をずっとさ迷っていたことだろう。少年は大層混乱していたが、湊がお古の着物に着替えさせ、アイスキャンデーを振る舞ってやると落ち着いた。
「じゃあ君は海で溺れて、気付いたらここにいたんだね?」
湊の質問に、冷静な面持ちで頷けるくらいには。
「気を失ってここにいるとなるとな――うーん」
「でも俺、まだ死んだわけじゃないんだろ?」
さっぱりと髪を刈り込み、小麦色に日焼けした少年は、生意気そうな口をきく。自分が帰れると信じて疑わない様子だ。
だが湊はもう一度唸った。
「そうなんだけどさ。今の君は確かにまだ生きてるけど、助かる確率は五分じゃないかな。
助けが遅かったら体は死んでしまう。もしかしたら、君がまだ生きてるのは体が持ちこたえてるだけで、もう海の底にいるのかもしれないし」
瞬時に、少年の顔がさーっと青ざめた。
助けを求めるように口を開閉させているが、湊は力なく首を振る。
「こっちからできることは何もないよ。普通なら、此岸の体が目を覚ましたら、黄昏寵に来てる魂は体に戻れる。死んで体との繋がりが切れたのに此処に迷い込んだ魂なら、彼岸に送ってあげられる。
今の君はどっちでもない。助かって此岸へ飛ぶか、体が死んで彼岸へ飛んでしまうか。どちらかの瞬間が来るのを待つしかない」
小さな手から、アイスキャンデーがするりと抜けた。落下した氷の塊は畳を、甘い汁で濡らす。
「嫌だなぁ。君が飛んだ先はどっちだったのか、僕にはわからないんだよな」
湊が至極残念そうに呟く。
しかし少年の突っ込みはまともだった。
「そ、そんな心配してる場合じゃないだろ! じゃあ俺は、自分が死ぬかもしれないのに待ってることしかできないのかよ!?」
「結論から云うと」
「そんな――何かないのか!?」
「今の状況を打破する手なら、一つだけある」
「教えろ!」
湊は人差し指をぴんと立てる。
「三途の川を渡れば彼岸に着く」
「それ意味ねぇだろうが!」
「さっさと楽になった方がいいかなぁと」
「そんな方法で楽になりたくないわ!」
我儘だなぁ、と言いたげな目で湊は首を振ったが、少年の一睨みで居住まいを正した。
「自分の体と、お父さんを信じるしかないよ」
「完全に他人事かよ! ――他人だけど!」
「いいとこだよ彼岸。今の閻魔大王、結構美人だし」
「嫌だああああまだ死にたくない!」
少年は頭を抱え、床に突っ伏した。
そのとき。
「あ」
驚いたような声の後で。
音もなく、少年の姿が掻き消えた。
「あ」
湊も間の抜けた声を挙げたが、時すでに遅し。
「――あーあ」
いく瞬間さえ目で追えなかった。声に反応して、視線を向けたらもういなかった。
まあ、見ていたところでどちらに行くかなんて、見極められなかっただろうが。
「さて、助かったのかなぁ、彼」
此岸へ帰ったか。
彼岸へ渡ったか。
もう誰にもわからない。
「答えは神のみぞ知る――か。まあ、そういうのも、悪くない」
カリ、とアイスキャンデーを噛む。
破片は冷たく、甘く、夏に丁度いい美味さだ。
「ああ――夏だなぁ。外に出たくないなぁ」
暑さも寒さも特に感じないくせに、学生服の少年はやはり不精だった。
【終幕】