『二人の女と一人の男』


一.

【夕凪通】

「そこの貴方」
 通りの角の駄菓子屋、縁側へ腰掛ける少年へ、少女は高飛車に云った。
「迷ってしまったの。道を教えてくださるかしら」
 艶やかなロングヘアーと紺色の袴が、歩く度にぱたぱたと跳ねる。
 少年は詰め襟の学生服を身に纏い、学生帽をしっかりと被っていた。大きな飴玉を指で摘んでいる。べっこう飴のようだが、それにしては厭に紅い。口に入れようとした途端に話し掛けられ、少年は渋々といった具合で飴玉を唇から離した。
 歩み寄ってきた少女を、少年は無表情に一瞥する。
「それは構いませんが、貴女はどこへ向かう気で?」
 ひどく抑揚のない声だった。
「私の行くべき場所へ」
「貴女は意味を理解して云っているのですか」
「勿論よ」
「――左様で。承知しました」
 少年は流れるような動作で立ち上がり、店の中に向かって「ばあちゃん、ちょっと出てくるよ」と少し乱暴に叫んだ。
 返事は無い。
 しかし少年が気にする様子はない。指先の飴を口の内に放り込む。色味のない、肉付きの悪い頬が、小さくぷっくりと膨れ上がる。
「行きましょう」
 少年はもごもご云った。
 少女は少し顔をしかめたが、黙って後をついて行った。

【直進】
【宵待通】

 少年が飴を転がす度に、コロカラと澄んだ音がする。
 だが少女は先程から苛々した様子だ。ついに我慢できなくなったらしく、暫くした後で、
「その音やめてくださらない?」
 と怒った風に云った。
「おや失礼」
 少年が答えるなり、音はぴたりと止む。
「もしかして、飲み込んでしまったの?」
「ええまあ」
「そこまでしなくても良かったのに」
「どうせ腹に入れなくちゃいけないものだったので」
 少年は涼しい顔をしている。少女は反応に困り、結局ハァと溜め息を吐いた。
 革靴とブーツの足音。
 詰め襟の少年は少女より小さく、視界の端で黒い髪がちょこちょこと上下する。
「しかし勿体のないことをしましたね。名のあるお家のご令嬢とお見受けしますが?」
「まあ、恵まれた家にいたことは否定しませんわ。売り言葉に買い言葉といった体で、ホイホイと承諾してしまいましてね」
「それは貴女、思いきりが良すぎです」
「私が後悔していないのだからこれで良いのです」
 少女はフンと鼻を鳴らした。
「承諾した時点で覚悟はしていましたわ。あの方がいらっしゃらないのは、あちらの運が良かったのか、こちらの運が悪かったのか、どちらかなのでしょう」
 そして彼女は細い手首をさする。幾重もの縄が巻かれた部分は赤く鬱血して、痕がくっきり残っていた。
「――どうしようもない方でした。けれど、だからこそ放っておけなくて、そんな姿がなんだか愛おしく思えてきて」
 間違えようもなく、好きだったのでしょう。
 少女は穏やかに呟いた。
「――そうですか」
 少年はひとこと、そうとだけ答えた。

【右折】
【露月駅】

「この列車に乗ればあとは直通です。一本しか無いので間違えようも無いでしょう」
 突き放すように云ったわりに、少年は駅のホームまでついて来た。階段を下りる少女の背後から、革靴の渇いた音が木霊している。
「改札までで宜しかったのよ?」
 少女が振り返る。やや怪訝な目をして。
「いえ、なんだか、最後まで見届けたくなりまして」
 悪びれもせず、無表情に少年は云った。少女は一瞬目を見開いたが、ふ、と笑って、「そうですか」と視線を前へ戻した。
 プラットフォームに降り立ち、少年と少女は二人、並んで列車を待つ。
 二人以外乗客はいなかった。まだ明るい空が、ただただ白い光を街に落としている。風が線路を撫でる。乗ってきた甘い花の匂いが、僅かに鼻を掠める。
「ねぇ」
 前髪を指で整えながら、少女が口を開いた。
「最後に名前、教えていただいても宜しいかしら」
 静かな声だった。
 少年は少女の顔も見ず、短く答えた。
「みなとです。さんずいに奏でると書いて湊」
「そう」
 一陣。
 小豆色の洒落た車体が、線路に蓋をするように滑り込む。
 空気の抜ける音と一緒に扉が開いた。
 座席にはぽつり、ぽつりと、先客が虚ろな面持ちで座っていた。
 窓硝子は何も映さない。
「では湊さん、案内有り難う」
「良い旅を」
 少女は淡く笑い、箱に乗り込んで、行ってしまった。
 少年は姿が消えるまで車体を見送る。見えなくなってから踵を返す。
 コロカラ、と澄んだ音がした。
 駅にはもう、誰もいない。




二.

【夕凪通】

「あのう」
 通りの角の駄菓子屋、縁側へ腰掛ける少年へ、おかっぱ頭の少女は恐る恐る声を掛けた。
 尻の垂れた目。やや猫背で、喋り方もおどおどしており、見るからに気の弱そうな少女である。
「ここは――どこですか? 少し道に迷ってしまって」
 歩み寄ってきた少女を、少年は無表情に一瞥した。
 少年は詰め襟の学生服を着込み、学生帽を被っていた。何か大きなものを口の中に入れているのか、頬がぷっくりと膨らんでいる。
「ここは夕凪通です」
「どこの町でしょう? 聞いたことがありません」
「云っても構いませんが、そっちの名前も貴女はわからないと思いますよ」
 少女は困惑したように眉を下げた。
 少年は溜め息を我慢したような顔をした。
「貴女はどうしたいのですか?」
「あたし、ですか?」
 あたしは、と可憐な声が呟く。
「――帰りたいです」
「帰りたい?」
「旧都に、戻りたい」
「それは、できません」
 少年は冷たく云った。
 少女はひく、と体を強張らせ、「――そうですか」と小さな声で云った。
「でも、いくことはできます」
「どこへ――?」
「貴女のいくべき場所へ」
 少年は面倒くさそうな様子で腰を上げた。店の中に向かって「ばあちゃん、ちょっと出てくるよ」と叫ぶ。すると奥から、
「暗くならないうちに帰っておいでな」
 と年を重ねた人間の声が響いてきた。
「行きましょう」
 少年はもごもご云った。
 少女は少し不安げだったが、黙って後をついて行った。

【直進】
【宵待通】

 少年が飴を転がす度に、コロカラと澄んだ音がする。
 少女は先程から目を伏せ、臆病にちらちらと少年の方を見ている。先ほどから黙ったままだ。少年は説明もせず、一人道をつき進んで行くが、何も口を挟まない。
 革靴と草履の足音。
 詰め襟の少年は少女より前を歩いている。少女が目を上げれば、黒ずくめの影が飄々と闊歩している。
「あのう」
 少年が振り向いた。
「ここは彼岸なのですか? あたしはもう死んでいるんでしょうか」
 少年は口を開こうとして、すぐに動きを止めた。ごっくん、と飴を飲み込んでから返事をする。
「いえ。此岸と彼岸の境のような場所です。人でない者の街なのです。三途の川もありますよ」
「それって死んでいるということなのでは――」
「人が死ぬのは彼岸に行った時点でです。貴女はまだ彼岸入りはしていませんから、厳密には死んでいません」
「そんなものでしょうか」
「そんなものなのです」
 事実を教えているというより、ことばで遊んでいるような口ぶりだった。
「けれど、あの人がいらっしゃらないということは、悲願はならなかったのですね」
 寂しそうな顔で少女は呟く。ぎゅっと握りこまれた手は小さい。水仕事でもしているのか、あかぎれがいくつも肌に走っている。
 細い手首には、幾重もの線が引かれていた。何か巻いたのか赤く鬱血していて、彼女の手は糸が纏わりついているように見えた。
「昔はよく来てましたよ、貴女と同じような人。一日一回は見ました。浄瑠璃が流行ったとかで」
「ああ――でもまた増えてしまうかもしれませんね。その御芝居が近頃再演されているので」
「上演されたときと今じゃ此岸も変わっているでしょうから、そうならないことを祈っています。しかし水死って、意外とあっさり死ねないみたいですね」
 少女はくすくすと仄かに笑った。
「――何故でしょうね。あの世で結ばれようなんて、夢のような話を皆信じてしまうのは」
「それでももしかしたら、と一縷の望みを抱いてしまうのでしょう。ままならないのなら、いっそ全て終わらせたいと思ってしまうのでしょう」
 少年は答える。
「もしかしたら、愛する人と一緒に彼岸で結ばれようという、この上ない綺麗な死に方に惹かれるのかもしれませんね」
「――――」
 少女は。
 手首をそっと指でさすった。
「人は死にたがりですから」
 少年の淡々とした声は、厳かな響きを含んでいた。
「――そうかもしれませんね。死にたかった、魅力的な死に方に惹かれた、それは間違いなく、あるでしょう」
 でも私は。
「あの人が好きだった気持ちも、間違いなくここにありました」
 あの人が云うならそうしようと、一生結ばれたいと、思いました。
 この上なく穏やかに。この上なく穏やかな調子で。彼女は云った。
「それを今知れた。よかった、死ぬ前に確認できて」
「――そうですか」
 少年はひとこと、そうとだけ答えた。

【右折】
【露月駅】

「この列車に乗ればあとは直通です。一本しか無いので間違えようも無いでしょう」
「いろいろ有り難うございました。何だか少し、気が楽になったように思います」
 少年は駅のホームまでついて来た。階段を下りる少女の背後から、革靴の渇いた音が木霊している。
「あの」
 少女が振り返る。やや面食らった風に。
「いえ、なんなら最後まで見届けようかと」
 無表情に少年は云った。少女は一瞬驚いた顔をしたが、小さく笑って、「有り難うございます」と視線を前へ戻した。
 プラットフォームに降り立ち、少年と少女は二人、並んで列車を待つ。
 二人以外乗客はいなかった。
 少し日の暮れかかった空が、朱色の光を街に落としている。
「あ」
 少女はくるりと少年を向いた。
「最後に名前、教えていただいても宜しいでしょうか」
 弾んだ声だった。少年は少女の顔も見ず、短く答えた。
「みなとです。さんずいに奏でると書いて湊」
「へぇ――変わったお名前ですね」
「よく云われます」
 一陣。
 小豆色の洒落た車体が、線路に蓋をするように滑り込む。
 空気の抜ける音と一緒に扉が開いた。
 座席にはぽつり、ぽつりと、先客が虚ろな面持ちで座っている。
 窓硝子は何も映さない。風景も、人間も。
「では湊さん、さようなら」
「良い旅を」
 少女は淡く笑い、箱に乗り込んで、行ってしまった。
 少年は姿が消えるまで車体を見送る。見えなくなってから踵を返す。
 コロカラ、と澄んだ音がした。
 駅にはもう、誰もいない。




三.

【夕凪通】

「やあ」
 通りの角の駄菓子屋、縁側へ腰掛ける少年へ、青年は快活に声を掛けた。
 書生服。髪はぼさぼさで、くたびれた感じの男だ。
「久しぶりだね――元気かい」
 歩み寄ってきた青年を、少年は無表情に一瞥した。
 少年は詰め襟の学生服を着込み、学生帽を被っている。無表情だが、中に嫌悪の色が混ざっていた。
 青年はそれを見逃さない。承知の上で、笑顔で接している。それははたから見れば、人の良さそうで気の弱い若者の像になっていることだろう。真面目な弟とおっとりした兄の間柄に、見えなくもない。
「――九十九(つくも)さん。貴方また来たんですか」
「ああ。でもまた彼岸へ渡れなかった。何故だろうね」
 青年は少年の隣へ腰を下ろす。
「それで、今度は女性と情死する方法を試してるんですか?」
 ははは、と軽薄な笑い声が挙がった。
「まあ、僕が死ねない運命なら、誰かとなら一緒に死ねるかもしれないよね」
 少年は眉を吊り上げた。青年はそれに気付いたらしい。胸の前で両手を広げ、丸腰のポーズを取る。
 手首には肌が戻らないほど強く、細いものを何十にも巻きつけた痕がある。
「そう睨まないでくれよ。僕だって無節操に相手を選んでるわけじゃない。『この人なら一緒に死んでいい』って女性しか声は掛けてないさ。同意もちゃんと得てる」
「同意。へぇ」
 少年の口調はとても嫌味ったらしかった。納得していないのを隠そうともしない。ポケットから包みにくるまれた飴を出して、手で弄び始める。青年は困ったように笑った。目じりに皺ができて、何歳も老けたように見える。本来の動作と逆にしか作用していない。
「何故死ねないのかなぁ――僕はそろそろ楽になりたいよ」
 ぴ、っと。
 少年は両端を持ってねじりを引き伸ばし、飴を取り出す。
「貴方に」
 ビー玉くらいの大きさの球。赤く赤く、透き通っている。
「そんな綺麗な死に方は許されない、ということなのでは」
 間が空いた。
「湊くんそこまで僕が嫌い?」
「ほどほどには」
「傷つくなぁ」
「そりゃあすみません」
「ははは。まあ今更か」
 もう何度も何度も会っている。今更態度が変わったら逆に気色悪い。
「いっそ僕もこっちで暮らせたらなぁ。此岸よりずっと楽しそうだ」
「無理ですよ。貴方はどうしようもなく――人間ですから」
 少年は飴玉を日に透かし、一度睨んで、口に含む。
 それを青年は羨ましげに見て、深く深く、溜め息を吐いた。
「さて、僕が目覚めるまでの幾ばくかの時間」
 話し相手になってほしいな。
 愛想良く青年は笑っている。一瞥して、少年はもごもご云う。
「貴方のそういうところが嫌いです」
「でも断らないんだ」
「まあ、外に出ずに暇つぶしができるなら、そういうのも悪くないですね」
「相変わらず出不精だなぁ」
 軽薄に青年は笑う。
「話題は?」
「太宰の作品について」
「よしそれで」
 少年はにい、と口角を吊り上げた。

 コロカラ、と澄んだ音がした。

【終幕】