グロテスク表現注意。



 前

 しん、しん、と、雪の降る日のことでした。

 お茶が淹ったので居間に戻ったのですが、先程までいらしたはずの静政様の姿がどこにも見当たりません。はてどこにいらっしゃるのかしら、と急須と茶碗を置いて縁側をぐるりと探し回ってみますと、庭の植物たちの前に、草色の羽織りを着た方がいらっしゃるのが見えました。冬の大地は一面真っ白で、雪もちらほらと空から降ってきます。外はさぞ冷たいことでしょう。私は小走りに、静政様の元に歩み寄りました。
 静政様はとても凛々しいお方です。芯が強く、自らの誇りを大事にしていらっしゃいます。いつも堂々と、背筋をしゃんと伸ばしていて、立ち振る舞いも洗練されています。表情をあまりお変えにならない人ですが、長年見ていると喜怒哀楽、全ての変化がわかるようになりました。けれどせっかく綺麗な顔立ちをなさっているのに勿体ないと、常から思います。笑い顔が――とても優しい方ですのに。
 静政様はあまり屋敷からお出になりません。私が誘うとようやく腰を上げて、外の世界に足を向けられます。「生き物が沢山いる場所は好かん」とおっしゃられますが、少しは羽を伸ばし、外に触れることも大事なのではないかと私は思うのです。長い間誰とも話さないでいるとどうしようもなく寂しくなって、枯れてしまうのではないかと思うのです。ちょうど、水を与えられなくなった、花のように。
 私がいなくなったら。
 あの方は、お屋敷に篭ったままになってしまうのでしょうか。
「静政様」
 そっと。
 声をかけると、静政様はこちらを振り向いて、私の名前をお呼ばれになりました。
 その真っ黒な髪と紅い瞳が、私はとても好きです。
「椿をご覧に?」
 静政様の隣に収まって目をやりますと、紅を散らしたような、小さな花がありました。
 先が黄色い、ぴんと揃っためしべ。大きく開いた花弁も形のいい葉もふっくりと厚く、緋と深緑に染まっています。けれど決して派手ではなく、気品さえ感じさせる色でした。そしてどちらも雪の白に映える鮮やかさを湛えています。
「綺麗ですね」
 私が呟くと静政様はややあってから、
「そうだな」
 と肯定の返事を漏らされました。
 しかし顔色ひとつ変えず、椿にじっと視線を注がれたままです。
 その姿はまるで、花に魅入られてしまったかのようで。
「……どうかなさいましたか?」
 静政様は、緩い動作で花に手を伸ばされました。
「この花もじきに、落ちるのだろうな」
「そうですね。今日これだけ見事に咲いたら、後は散るだけでしょう。いつかはわかりませんが」
 中指と薬指で挟むように、大きく骨張った指が花の一つに添えられます。静政様の手に赤い色が咲いているようです。
「少し――勿体ない」
 こんなに美しく花を開いたのに、近い間にもう見られなくなる。
「生きる物は儚いな」
 厳かな声。
 静政様は、しんみりしたお顔をしていらっしゃいました。
「静政様」
「なんだ」
「今あなた様が哀しく思いになられているなら、それは間違いですわ」
 目が合って。
 驚いたような顔。
 紅い紅い瞳。
 私は微笑みかけました。
「よく咲いたと思っていらっしゃるなら、どうか讃えてやってください。見送られる者は、嘆かれるより礼を言われる方が嬉しいのです」
 精一杯生きたのですから。
 そう言って。
「……そうか」
 花を手折らないようそっと離して、静政様はいつもの起伏の少ない笑みを、私に向けてくださいました。
 やっぱり優しいお顔です。静政様が無愛想な方だと誤解されるのが悔しいくらい。
 ほんのちょっとだけ吊り上がった口元に両の人差し指を当て、引き上げてみましたが、やはり駄目でした。笑顔と言うより、口角をいっぱいに上げただけの不気味な表情です。うーん。一体何がいけないのでしょう。目が笑っていないせいでそう見えるのでしょうか。
「……何をしている、風葉」
「静政様はもう少し表情豊かになられた方が良いと思いまして」
「そんな心配は無用だ。離せ」
「無用などではありません。私しか静政様の表情の変化がわからないなんて切実な問題ですわ」
 ほら、笑って!
「…………」
「…………」
「…………」
「……静政様、真面目に」
「やっている!」
「そうですよね。申し訳ありません」
 指を離す。
 嘆息。
 静政様は私が触れた箇所を摩って、不機嫌な膨れっ面になってしまわれました。そこまで痛かったのでしょうか。それとも、そこまで痛いところを突いてしまったのでしょうか。
「でもやっぱり――相手が気付いてくださらないなら、ある程度はこちらから歩み寄るのも必要だと思うのです」
 ぽつりと私はこぼします。
 昔、静政様は顔に出やすいと指摘したときのことが思い出されました。
 その時静政様は、「そんなことは初めて言われた」とおっしゃったのです。目を真ん丸くした静政様というのは貴重で大層可愛いらしかったのですが――この人は本当にずっと独りだったのかと、私は思ったのでした。
 少ないながらも他の鬼さんが遊びにいらっしゃるので、親しくなさっているのだと思っていました。けれどそうではなかったようです。後で聞いたことですが、静政様は私が来る前もずっと屋敷で過ごされていたようでした。外に出るのは、気が向いて人間や獣をさらって、食べに行くときだけだったそうです。
 静政様はすっかり、黙ってしまわれました。
 着物と、音もなく降る雪が見えます。桜の花弁のようです。けれどそれは頬に当たると冷たくて、すぐ溶けてしまって、やっぱり春を告げる花ではありませんでした。どんよりと灰色の空。地は一面の白い色。私が吐く息すらも、白く天へ昇って行きます。
 不意に寒さを感じて、思わず身震いしました。
 頭の上を何かが触れて、外へ外へと軽く動きます。私に積もった雪を払ってくださったのでしょうか。顔を上げたその時には、静政様がご自分の黒い羽織りを脱いで、私の肩に掛けてくださっていました。
「……冷えるな。入るぞ」
 何も答えずに、静政様はお屋敷へ戻って行かれました。
 さく、さく、と、雪を踏む微かなはずの音でさえも、今の私にははっきりと聞こえました。
 肩が温かいのはまだ、あの方の体温が残っているせいでしょう。黒の羽織りは私には大きくて、体がすっぽり隠れてしまいそうです。前を掻き合わせて、ほんのりと漂うお香の甘さを感じて、縋るように布を握りしめました。
 私はもうすぐ居なくなる。
 自分で言ったその言葉を、もう一度呟いて。
 ふと椿に目をやると、先程まで綺麗に咲いていた花が、地面に落ちていました。落ちても尚それは赤々としていて、まるで白い池に椿が咲いているかのようでした。その様は睡蓮によく似ています。
 ――私も、もうすぐああなってしまう。
 その時私は、何をすることが、出来るでしょうか。





 後

「静政様ー! 朝ですよ!」
 毎日毎朝、風葉の騒がしい声で目が覚める。
「朝餉が覚めますから早く起きて支度してください! ゆっくりしてると私だけ先に食べますからね!」
 無視してまた目を閉じるとばたばたとうるさい足音が部屋に入ってきて、風葉に体を揺らされる。たまに掛け布団を無理矢理剥がされたりした。すると温まった布が取り払われ、寒さの中を寝間着一枚で転がされる羽目になる。冬の尖った空気が体に突き刺さる。鬼であってもこれは辛いものがある。
 そして喧しさと寒さにそろそろ我慢ならなくなった頃に、仕方なく、瞼をこじ開ける。
「静政様、おはようございます」
 一日の一番最初に見る風葉は、いつも笑っていた。


「――静政様。起きてください」
 今日はそんな静かな声で、意識が覚醒した。
 目を開けると風葉は布団の脇に正座しており、微笑を浮かべて「おはようございます」、と言った。それから立ち上がって歩いて行って、襖を開け放す。
 淡い光を受けて発光する雪景色と、塀に沿うように植わっている赤い椿が、窓の外にずらりと並んでいた。昨日の雪はどうやら止んだらしい。空からは明るく日が差している。
「今日は晴れましたよ」
 はしゃいだ声を出して風葉は縁側を通り、窓も開け放して庭へと出た。背中で緩く結った長い黒髪が歩く度に揺れる。俺は体を起こし、その小さな姿をぼうっと眺め、ふと思い至る。
 ――ああ。
「逝くのか」
 呟くように言うと風葉は途端に足を止め、ぴくりと肩を跳ねさせた。わかりやすい女だ。
「……静政様こそ、察しが宜しいことで」
 風葉はこちらを向いて、庭からまっすぐ俺を見ていた。
 泣いてはいなかった。薄くだが笑んですらいた。穏やかに、そして、安らかに。
 少し、ほっとした。
「お別れは外(ここ)で言わせてください。中だとお座敷が汚れて始末が大変でしょうから」
「こんな時まで気を使うことはなかろう」
「使いますよ。長い間住まわせていただいた家ですから」
「家主にも、だろう」
「ご自分でおっしゃらなくても感謝しておりますわ」
 くすくす。
 柔らかい声。
「後のことですが――朝餉はおむすびを用意しましたので、気が向いたらお食べください。一応琉さんに連絡しておきましたので処理してくださるとは思うのですが、屍は好きにしてくださって結構です。今後の生活をどうするかは、静政様がゆっくりお考えください」
 他の鬼がいるところに移るなり、鬼を雇うなり、一人でいるなり、好きにしろということか。
 白い息が吐かれる。空気が冷たいからだ。息が温かいからだ。まだ熱を持って、風葉は確かにそこにいた。
 風葉の薄桃色の着物。その背後にあるのは真っ赤な椿の群れだ。風葉が立っているところだけ、色彩が薄い。椿の中に一つだけ、桜が混じってしまったかのように見える。冬の中に一つだけ、春が混じってしまったかのよう。
「でも一つだけお願いがあります」
「何だ」
「また独りになるのは、やめてくださいね」
 あなたは優しい人なんですから、他の鬼さんとも上手く付き合って行けますよ。ちゃんと関わって、きちんと仕事をしてください。今までさぼってた分、早く終わらせてあげないと鬼さんたちがお困りになりますよ。
「あなたは鬼の一族の頭領なんですから」
 私のような、短命でちっぽけないきものには、もう構わずに。
「あなたは鬼の中へ戻ってください」
 有無を言わさぬ口調だった。
 近付こうと身じろぎして、留めた。否定の言葉も口の中に押し込んだ。
 女の最後の願いは、俺が『人間』と手を切って鬼と関わることだ。ならば、俺は触れるべきではない。例えいくら反論して触れて抱きしめてやりたくても、俺はそうするべきではないのだ。
 どんな内容でも、風葉の今際の願いは、叶えてやりたい。
 笑顔。
 綺麗だ。
 最後まで――こいつは笑うんだな。
「散々お世話になっておいて、我儘ばかり言ってごめんなさい」
 風葉の言葉で、俺は首を横に振った。
 炊事洗濯掃除、ここ一年ほどの家事の一切は風葉が引き受けてくれていたのだ。
「俺こそ世話になった。おまえといるのは存外……楽しかった」
 風葉の笑顔が、歪んだ。
 目尻にみるみる涙が盛り上がる。堪えようとしてか、ぎゅっと唇がきつく結ばれる。それでも涙は頬へと落ちて行って、顎を伝い、雪の上にぽたぽたと、消えた。
 風葉の口が開いた。目は真っ赤で、声も震えていた。でも確かに、俺には聞き取れた。
「私も、楽しかったです……誰かと一緒に暮らすなんてしたこと無くて、それも男の人と一緒に住むことになって、旦那様がいたらこんな感じだったのかもなんて図々しいことを考えたりして……実家にいた頃からは考えもつかないほど幸せで……」
 朝日を反射して、散る涙が時折光る。
「本当に、ありがとうございました……っ」
 声を殺してしゃくりあげる女を、俺はただ見ているしかない。
 風葉は手の甲で目を擦る。腫れると思ったが、伸ばそうとした手を急いで抑えた。遠い。座敷から庭までそれほど距離はない筈なのに――こんなにも遠くて、届かない。
 俺に出来るのは、最後に叫んだ思いを、聞いてやることだけだった。
 庭にただ、風葉の声だけが響いている。しかしそれもしばらくすると、先細りするように治まって行った。
 手を離した風葉の顔は酷いものだったが、表情はすっきりしていた。口調もしっかりしている。
「――すみません、見苦しいところをお見せしました。私は……そろそろ失礼します」
「……そうか」
 風葉は笑った。
 綺麗に。
「静政様、後ろを向いていてください」
「何故だ?」
「女は最後まで、自分の醜い姿は見られたくないものなのですわ」
 そう言われては仕方がない。ようやく布団から出た。
 掛け布団の上に、庭に背を向け腰を下ろす。胡座をかいて。無駄に広い、無愛想な畳張りの部屋だけが視界に入る。あの椿のような鮮やかさは微塵も無い。くすんでいる。
「静政様」
 不意に、風葉が話しかけてきた。
「何だ?」
 ほんの少しだけ、肌寒い。
「ずっと――」

 お慕いしておりました。

 と。
 鈴を転がしたような声の後で。

 ぼとり。

 と。

 鈍い音が、庭にぶつかった。

 振り向く。
 飛び散る鮮血と、雪と、赤で染まった庭と――頭と体が分かたれた、風葉の姿があった。
「――ああ――」
 溜息のような、音が出た。
 草履を履いて、庭に出る。
 煙のように漂う白い息。ぬめる温かな液体が、雪に染み込んで溶けていく。
 赤い雪を踏みしめて、風葉の頭の前でしゃがみ込んだ。
 風葉は目を閉じていた。顔にも結われた長い髪にも唇にも、血が飛び散っている。頬に手を添えるとまだ温かく、色もつやつやしていた。顔を上げる。体は地に伏している。当然だ。支えがなくなったのだから。薄桃だった着物も、今は真っ赤だ。
 春は、冬になった。
「……ふん」
 まだ固まっていない血を、指で拭ってやった。
 冷えていく。急速に体温が奪われて、死んだものへと変わっていく。風葉ではない、物言わぬモノへと劣化していく。
 もう動くことは無い。
「どっちの意味だ、馬鹿者」
 ぽつり、と呟いた。
 お慕いしていました、なんて、どうとでもとれるじゃないか。
「うわ、くっせ」
 声のする方に視線をやると、色素の薄い軽薄そうな男が寝室を横切ってこちらに歩み寄っていた。見た目だけは年若い。手で鼻を覆って、くぐもった声で「派手にやったなぁ」と言う。
「まーそう怖い顔で睨みなさんな。俺は風葉ちゃんに頼まれて来たんだよ」
 へらへら笑って、そいつは俺を手で押し止める。
 いつもなら即刻追い出すところだが――さすがに今は気分が乗らない。
「……そんなことを、言っていたな」
 琉はうんうん頷いてこちらに歩み寄り、俺と同じように座って覗きこむ。でも決して触れることはしない。俺が怒ることがわかっているのだろう。
「別嬪さんで優しい子だったのになぁ。可哀想に」
「会ったときから、病にかかっているとは言っていた」
「にしたってひどいぜこの死に方は……嫌だねぇ、こんな病が流行ってるなんてさ」
 そう言って頭を振る。琉の反応はいちいち大袈裟だ。
「――で、さ。頭領」
 声の響きが急に真面目になり、驚いて目を向けた。
 琉は真剣な顔でこちらを見つめ返している。
「あんたはこれからどうすんだ? ここに引きこもれるのは、風葉ちゃんが死ぬまでって約束だった筈だぜ」
「…………」
 ああそうだ、うるさい長老どもを丸めこむための条件がそれだった。風葉が死ぬまで放っておいてくれたら、これから真面目に仕事をする。
「その様子だとあんた、今まで忘れてただろ……」
 嘆息。
 俺は肩を竦め、立ち上がった。琉の視線が下から付いてくる。
「自分の口から言った以上、約束は守ろう」
「ほんとに!? やったねー、あんたと戦うの嫌だし困ってたんだよ」
「ただし――」

「俺は一生、誰も娶らない」

 しん、と。
 雪の降る音すら聞こえそうな、静寂が満ちた。
 琉が間抜けな顔で口を開閉させているのが、目に見えるようだ。
 たっぷり時間が空いた後。
「……ジジイどもが黙っちゃいないぜ?」
「あんな老いぼれに俺が殺されると思うか?」
「それは思わねぇけど」
 琉が後ろ頭を掻いた。
「面倒くさがりのあんたがじいさん達に歯向かおうと決めたことに驚いたよ……」
 とても信じられない、という口調だ。鼻で笑ってやった。
 そして踵を返し、部屋へ戻る。死体の始末をしなくてはならない。何か大きな布くらいどこかにあるだろう。

 本当に、儚いな。
 そう言おうとして。

「――――」

 口を噤んで。
 呟いた。

「有り難う」

 しんしんと、雪の降る日のことだった。





 序

「あなたが鬼さん、ですか?」
「…………」
「それにしては、とても人を食べるような方には見えないのですけれど……」
「……おまえにはこれが見えていないのか」
「それは兎さんですわね」
「……………………誰だ、おまえは」
「あなたへの供物です。私があなたに食べられる代わりに、村は襲わないでほしいという住人からの言伝です」
「…………」
「私、一応金持ちの娘だったんですけどね。今村では首が落ちる奇病が流行っていて、それに掛かってしまいまして。本当は贄は全然別の娘さんが選ばれたんですけど――もう老い先短いからと、私が代わりに」
「…………」
「いても迷惑だったんです。効くかどうかわからない薬代だって馬鹿にならない。使用人は移るんじゃないかって戦々恐々している。だから出てきてよかったんです。後はあなたに食べられてすっぱり死んでしまって。あなたが村に手を出さないことを願うのみです」
「……おまえは」
「はい?」
「性格が悪いな」
「そうですかね?」
「でも嫌いじゃない。俺も――独り、だから」
「……え?」
「気持ちはわからなくもない」
「…………」
「名前は?」
「かざはです。吹く風にはっぱの葉って書いて、風葉」
「どうせ行く宛てもないんだろう」

「うちに、来るか?」