うちの学校唯一の美術部員、荒井祐一。三年。
彼は、少女しか描かないことで有名だ。
「せーんぱい」
ひょい、と大きな背中の後ろから、カンバスの中を覗く。
そこに描かれているのは、やっぱり女の子だった。白いワンピースを着た、年若い子。こちらを半分だけ振り返った構図で、少し驚いたような顔をしている。
柔らかそうなショートヘア。華奢な肩。長い睫毛。
現実にはとても居そうにない、ものすごい美少女だ。
「またですか」
半分呆れたのを隠さずに言った。有り余っているイスを引いてきて、先輩の隣に落ち着く。先輩は怪訝な顔をして私の方をちらりと見たが、結局何も言わなかった。黙々と着色に入っている。
中学の時に使っていたような絵の具に、使い古しの絵筆洗い用バケツ。今日は水彩画らしい。例によって一度使われたチューブがいくつも床に落ちていて、何の色がどこにあるやらわからない状態になっている。
しゃがんで、とりあえず傍に落ちていたカーマインに手を伸ばした。
自分でそんなにしたくせに、先輩は使いたくなった色が見つからないと、ガンガン気が荒くなってくるのだ。
「先輩ほんとに女の子ばっか描いてますよねぇ。女の子に特別な思い入れでもあるんですか。昔付き合ってた彼女描いてるとかそんなですか」
セリアンブルー。ホワイト。マゼンタ。
何で色ってこんなにたくさんあって、しかもややこしい名前がついているんだろう。
「……そんなもんは今まで一人もいたことねーよ」
いつもの低い、呟きにしか聞こえない小さな声が耳を擽る。やや聞き取りづらいが、慣れてしまえばどうってことはない。受け答えしてくれるだけ、昔とは遥かにマシだ。
「たまには風景とか描きましょうよ。そんなだから先輩、周りに変態扱いされちゃうんですよ」
「俺は好きなように好きなもの描いてるんだから、他人からどう思われようとどうだっていい」
「じゃあせめてその無愛想やめましょうよ。ムッツリくさいですよ」
「おまえ、ズケズケ物言って周りから嫌われるタイプだろ」
「そうですが何か。それより絵の具の箱取ってください」
いいじゃんそれでも付き合ってくれる友達いるし。
お世辞とか嫌いだし。
「御園遙はこのサバサバ感が売りなのです。うっす」
軽い口調と敬礼。
先輩はやれやれと言わんばかりに首を横に振って、私にほぼ空になった箱を渡してくれた。
先輩は絵筆をバケツにつける。私は膝に手を置いて、バケツを覗きこむ。筆がぱしゃぱしゃと音をたてて、透明な水に色を付けていく。じわりと、染みるように。それを見るのが私は結構好きだ。
「でも毎回毎回思いますが、上手ですよねぇ。やっぱ。私は素人なのでどこがいいとかは言えませんが」
バケツからキャンバスに視線を移すと、半分だけ色を付けられた少女がいる。
線画もすごいけど、何より先輩は色の付け方が上手だと思う。ちょっとしたことで消えてしまいそうな、儚い感じを出すのが上手いのだ。それが絵の中の女の子と絶妙にマッチしていて、見るといつも不思議な気分になる。
先輩が『少女』に固執する理由を私は知らない。現実にいた誰かをモデルにしているのかもしれない。絵ごとに顔や体つきが違うから、もしかしたら『少女』というモチーフが本当に好きなだけかもしれない。先輩は口数が少ないので、きっと自分から語ることはないだろう。
先輩の卒業までには聞きだしたいなぁ。なんて思う今日この頃。
「先輩、これ終わったら私描いてくださいよ」
先輩の顔を見て言ってみる。先輩は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をする。
「断る」
「えー。いっつも手伝ってる後輩にサービスしてくれたっていいじゃないですか」
「おまえが勝手に来て勝手に手伝ってるだけだろ」
「まあそうですけどー……」
いろんな色で汚れたエプロンが、もぞもぞと動く。
絵筆が引き上げられる。
「ていうかそもそもおまえ、何で毎日毎日ここに来てるんだよ。絵なんか興味ないだろ」
また先輩は、キャンパスに色を重ねる作業に戻っていく。
その目はとても真剣だ。先輩は割合綺麗な顔立ちをしているから、黙ってそうしていると結構格好いい。
「いやぁ。だって」
思わず笑った。
実にへらっと。
「先輩の絵見るの好きなんで」
一瞬、手が止まった。
「お邪魔ですかね」
でもすぐにまた、かちゃかちゃと音が鳴り始めた。
「邪魔だ」
「あははは。ひどいなーもう」
ほんっとうにこの人は素直じゃない。
耳が赤いぞ耳が。バレバレ。
この人はコンクールでいろいろ入賞してるらしいけど、多分あんまり褒められたことないんだろう。まあ、その分私が褒めてるけど。
夕方の教室の匂いも。二人っきりの会話も。散らばった絵具も。お手伝いも。
毎日足しげく通う程度には――嫌いじゃない。
「ねー、この子、背中に羽付けちゃいません? 何か似合いそう」
「あー……?」
先輩は妙に間延びした声を出した。
長々と、数分考えた後で、
「……まあ、考えとく」
と小さく言う。
その物言いが随分間抜けに見えて、思わず笑ってしまった。
「ほら、集めときましたよ。絵の具」
「そりゃどーも」
「誠意が見えないですよ」
「当然だ。誠意なんか一ミリも込めてねぇ」
私が差し出した箱を受け取るその手は、少し絵の具で汚れていた。
次の日の放課後。先輩は真っ白なキャンパスに、もう別の絵を描いていた。鉛筆の硬い線。モチーフはやっぱり女の子。ほんと好きだなぁ。
出来上がった絵は教室の後ろに、黒板側を向いた先輩と背中合わせに置いてあった。どうやら乾かしているらしい。
覗いてみた。
小さな、その華奢な背中に見合った、真っ白い翼が付け足されていた。
「先輩、女の子やめて天使描きましょうよ。すごいいい感じですよこれ」
「断る」
即答だった。相変わらず釣れない。
もう一度キャンパスに目をやる。少女から天使に昇格したその子は、やっぱり少し驚いた顔をしている。
突然背中から羽が生えてきて、びっくりしたのだろうか。
「この方がいいのに」
しゃがんで一人、呟く。
「羽生やすのも結構大変なんだぞ」
先輩は不貞腐れたように、そう言った。
・一時間でどこまでできるかという名目で書いたもの。
人間が天使を作るのは難しいのです。