ロータス邸の朝は早い。
――と家主であるジャン・ロータスは考えているが、世間一般と照らし合わせれば、標準の枠内に充分収まっている時刻だ。
寝間着用の長袖のシャツに黒いズボン、金色の柔らかな髪に寝癖を付けたまま、青年は鈍重な動作でリビングダイニングに足を踏み入れる。
尻が少し吊り上がっているが、目の形は十分整っていると言える。その中に嵌めこまれた碧色の瞳は、空に浮かぶ雲の如く、眠そうにゆらゆらと揺れている。
「……はよー」
「御早よう」
キッチンに立って鍋の様子を見ていた若い男が振り返る。短く刈り込んだ黒い髪、瞳も同じ深い深い黒色だ。眼差しは厳しく、唇を軽く引き締めて、精悍な顔つきをしている。黒いセーターに白いエプロン。その上からでもわかる肉体はしなやかな筋肉に覆われている。
名前はクロード。このロータス邸の住人である。
炊事だけでなく掃除、洗濯と家事はこの男が全てこなしているが、使用人というわけではない。
「今日の朝飯何ー……?」
ジャンが尋ねると、低いが聞き取りやすい、ゆったりした声が返ってくる。
「クロワッサンと昨日のポトフとプレーンヨーグルト。ジャムは苺とブルーベリー、砂糖もあるから味付けは好きなように」
「んー……」
器棚からマグカップを取り、市販のコーヒー粉末を入れる。ついでにミルク、スティックシュガーを四本手に持って、ポットまで。湯を注ぐ。
スプーンでかき混ぜながら、ダイニングテーブルへ向かう。
ベージュ色のテーブルには既に先客がいた。
年端も行かない小柄な少女だ。きめ細かな白い肌と整った顔立ち。くりくりと大きいどんぐり眼だが、宿った光は知的で、やや冷ややかだ。くせっけ気味のセミロングを丁寧に解かし、臙脂色の子供服を着込んで、既に身支度は完璧に済ませていた。まだ十歳とは思えない、凛とした風格と佇まい。今日も爪先立ちで届く距離までめいっぱい背伸びをしている。
手元には既に、湯気の立つティーカップが用意されていた。真っ白なポット、コゼ、砂時計と、紅茶を本格的に淹れるための道具は全て揃っている。そんな小道具を付けてみると、彼女がカップを傾けている光景は、まるで中世の貴族のお茶会のようだ。優雅さと気品に満ちている。動作一つ一つから育ちの良さが窺えるためだろう。
しかし角を挟んだ隣に寝起き丸出しの青年が座ると、何とも締まらない絵面になる。
「おはよう」
未覚醒な雰囲気の青年と対称的に、彼女は背筋の伸びた物言いをする。
この少女も同居人だ。名はルリという。
「……っはよ……」
だらしない同居人の様を眺めながら、少女はカップを取った。
ジャンはスティックシュガーの封を破き、次から次へ中身を投入していく。さらにはミルクまで注いで、混ぜて、ダークブラウンだった液体を甘ったるそうな薄茶色に変えていく。
そこで唇を開いて、
「……ねぇ」
「んー?」
「そこまで砂糖入れるなら、いっそココアに変えちゃえばいいんじゃないの?」
ルリは顔色一つ変えず尋ねた。
かし、かし、かし、と。スプーンが陶器に擦れる音が響き渡る。
「んー……」
引き上げて、ジャンは、未だ湯気の立つカップの淵に唇を付けた。
微かな水音をたてて啜った後、また唸って、置いて。
「……ココアじゃ甘すぎんだよなあ……」
背もたれに頭を持たせかけ、椅子の前側の足が浮くほど後ろに体重を掛けながら、間延びした声で呟く。長い足でテーブルの柱を踏んで支え、船を漕がせ始める。
「じゃあヨーグルトみたいに、無糖のものを買ってきて砂糖を入れるとか」
「それもなんかちげーんだよなー……コーヒーじゃないとダメっつうかぁ……」
「そういうのって無駄じゃない? 私すごく嫌なんだけど」
「んー……でもなあ」
椅子が勢いよく着地する。
戻った顔、吊り気味の眦の脇、碧の目は相変わらず気だるげだった。
「……一応確認。ルリちんの言い分はさー、蹂躙されて、元のものがその意義を剥奪されて、都合のいいように染められちゃうのが嫌ってことでオッケー?」
コーヒーとは香ばしく苦いもの。それが砂糖やミルクを注がれ、『苦み』を剥奪され、まろやかで甘いものにされてしまう。
相手がこくりと頷いて肯定の返事をしたのを見て、ジャンはカップの取っ手を指でなぞりながら、口火を切った。
「じゃあさぁ。躾られて、野生と獰猛さを剥奪されて、愛らしさと従順さばかり強調された愛玩動物の在り方は、間違ってると思うと?」
ルリは言い淀んだ。
しかし青年は容赦なく続ける。
「そもそも愛玩用の動物が存在するのが間違ってるって言うか? でも人間と動物はウィンウィンの関係が成り立ってる。人間側は接してれば可愛くて癒されるし、動物側は餌や快適な環境、絶対のボスを得られて万々歳だよなあ。犬や猫の代わりに成りうるものも今んとこないし。
ていうかそれ『どうして仕事を人間でなく自立人形(オートマタ)に代行させないのか』『肉体でなく人形素体に乗り換えないのか』『いつか死ぬのに今死なないのか』なんて話にも飛躍できちまう気がするんだけーどー、そういうこともルリちんは、無駄って切り捨てちゃうお年頃かなぁー?」
流暢だった薄い唇が吊り上がり、にたーっと、意地の悪い笑みが浮かぶ。
ルリは既に涙目になっていた。唇をへの字に曲げ、俯いて、泣き顔だけは見せまいと最後の意地を張っていた。今彼女の中では、喧嘩を売った相手を間違えたという後悔、一文字も言い返せない自分への不甲斐なさ、そして何より彼の大人げのなさへの抗議が混ざり合っているに違いない。
しかし懸命に、ゆっくりと唇を開き、
「……わ」
「わ?」
「わ……、……私の負けよ……ごめんなさい……」
消え入りそうな声で彼女は言った。
するとジャンは笑みをますます深くして、腕を伸ばし、栗色の小さな頭に軽く掌を乗せた。
「この世界は基本的にな、一つでも自分より優れたものを持ってる奴が偉いんだ。偉い奴の我儘がまかり通る。蹂躙された側の気持ちなんて知ったこっちゃねぇ。人間だって生き物だし獣なんだ、弱肉強食で当たり前だ。だから偉くなるに越したこたぁねぇよ。道徳とか優しさやらはそれから考えな。
あとは蹂躙される側に回ったときどうするか。流される、逃げる、抗う、徒党を組む、助けを求める、取り入る。選択肢は無限だ。何を選んで何を背負うかはルリちん次第だ」
まあ、と彼はそこで言葉を切った。
「そっちの心配は全くしてねーけど」
そして作ったミルキーコーヒーを口に運ぶ。
「今泣けば確実にクロが飛んできて、どういう形であれ勝ちが確定するのに敢えてそれを選ばねぇ、ルリちんの姿勢は買ってる。少なくともオレには真似できんわ」
撫でるように髪を掻き回した後、ルリの嫌そうな顔を見て喉を鳴らして笑って、手を離す。
「あーでも、その剥奪と蹂躙に楽しみを見いだす変態もいるから注意するんだぜ? 人間にまで手ェ出そうとする馬鹿もたまにいっからなー、リアルとエロゲを混同してんじゃねぇっての。いつも言ってるがロリコンには金的かましてもいいから。降りかかる火の粉は滅殺、これがうちのモットーな」
彼がそう言った瞬間。
どこからともなく、電話のベルの音がした。
握り拳の状態から小指と親指を伸ばし、ジャンは受話器の形を模した左手を左耳に当てる。
「あい、もしもし」
親指の辺りから相手の声が小さく漏れ聞こえてくる。すると比較的温和だったジャンの顔が、みるみるうちに憤怒に変わっていった。
「あぁん!? またてめーか! 朝早くに電話してくんじゃねぇっつってんだろ! てめーんとこの施設をロケット花火で襲撃してやろうか! 何度言われたってオレもクロも行かねぇ! じゃあな!」
怒鳴りつけ、平手でテーブルをバシンと叩く。途端、カップが揺れてコーヒーが少々零れた。それでますます神経がささくれ立ったらしい。
ポケットに入れていたらしい煙草の箱とジッポーを引っ付かんで、一本引き出して銜える。ドラムを回して点火。円筒の先に近付けた。
その瞬間。
「――朝食のときくらいは控えろ」
テーブルに陶器が着地する音と。
唇に挟んでいた煙草が抜き取られるのが、同時だった。
「本当に堪え性がないな、おまえは」
黒い服の黒い男が、呆れたような顔で離れていく。
ジャンはぶすくれた様子で唇を尖らせ、恨みがましい目でクロードの背中を追う。
「だってあいつしつけぇんだもんよー。吸わなきゃやってらんねぇっつの」
「まだ成長途中の子どももいるんだぞ。服に匂いも付くし」
「いいわよクロード。私ならもう慣れたから」
言いながらルリは立ち上がって、キッチンの方に歩いていく。クロードはヨーグルトの皿二つをルリに渡し、彼女は引き返してそれを並べていく。
コンソメの匂いがする器がもう二つ、軽い接触音とクロードの手で共に運ばれてきた。続いてオーブンレンジのベルの音。クロワッサンを三つの皿に二つ、二つ、一つと移してルリにパス、テーブルに乗せる。
「しかし朝から討論会とは精が出るな。……半分言いがかりだったが」
「おう、おかげであたまのスイッチ切り替わった」
バターとジャム類、スプーンが並ぶ。最後、ルリの正面の席にコーヒーとクロードの体が置かれて、食卓にようやく全員が着く。手を合わせる。
「今日も天と大地からの恵みに感謝して――」
「いただきます」
「いただきまーす」
黒い男の音頭で食事は開始された。
食器が擦れる音、パンの層が食い破られる音。にわかに場が賑やかになる。
「ルリ。今日は何か予定は?」
「特に無いから図書館にでも行こうかなーって思ってたんだけど。何かあるの?」
「食料の買い出しに行くから、手伝いを頼みたいと思ってね」
「『兎の穴』に寄ってもいい?」
「勿論」
「やったっ! じゃあ行く!」
いきなり和気藹々と盛り上がる二人を交互に見、
「え、ちょっとオレは? クロー、オレも空いてんすけどー? オレは誘ってくんねぇのー?」
家主は実に情けない声を出す。
が、同居人たちはつれない。
「おまえはすぐふらふらと余所へ行ってしまうから、探すのが面倒くさい」
「ジャンは物選んでたらすぐ遅い遅いって急かすから嫌」
ばっさりと意見を却下された。
「はあ……ようやく狙ってたのが買える……!」
「前々から楽しみにしていたものな」
「うん! って言ってもいつ使えるかわかんないんだけど……」
和気藹々と会話が繰り広げられる。
それをジャンは一人だけ、輪に入れぬままぽつんと眺めている。
「……オレのこの家でのヒエラルキーって一体……」
彼はそれだけしか言えず、縮こまってコーヒーのマグカップに口を付けるしかなかった。
先ほどの能弁さが嘘のようである。『スイッチが切れた状態』、かつこの二人の前であると、ジャンはどうも調子を狂わされ、十九歳という年相応の自分に戻ってしまうのだった。
「あーでも、朝飯うめ」
一人クロワッサンを咀嚼して、ふうと、ため息を吐いた。
朝食は手間のわりにすぐ終了し、汚れた皿が個人個人で流しに集められ、クロードが腕まくりをしながら再びキッチンに立つ。
と、ソファに移動して読書に熱中していたジャンが、本からふと顔を上げた。
「今から買いもん行くんだろ? オレがちょちょいっとやっとくぜ?」
「いや、いい。洗うと言ってもどうせ魔術でだろう?」
カランが捻られ水が出る。スポンジに洗剤を一滴垂らして、揉んで、しゅこしゅこと泡を立てる。
「正直あまり信用できない。魔術に頼って、便利さに頼りきってしまうのも嫌だしね」
その返事を聞いた、端正な顔立ちの真ん中に皺が寄った。
「……真面目だなあクロは」
「あんたも見習ったら?」
「いーや。勘弁」
そして天に両手を広げ、頭を振って、彼はルリの嫌味を払い飛ばした。
それぞれが好きなことをして少し休憩した後、リビングに集合する。
ルリは朝の服装にベレー帽を被り手袋を嵌めただけだったが、クロードは出かけ着に着替えていた。黒いコートに白いパンツ、マフラー姿だ。ルリもジャンもよく見慣れたものである。
しかしそれは袖を通しすぎて、かなりくたびれているのがすぐわかる。
「そろそろ新しいの買ったら?」
見かねたルリが眉を潜めて指摘するが、クロードは苦笑いを返すばかりだ。
「これくらい柔らかい方が、動きやすくて着心地が良いんだよ」
「もー、クロードは顔も悪くないんだから、もっと身なりを構いなさいよ。第一何でいっつも黒い服なの! お葬式に行くわけじゃないでしょ!」
「黒い服じゃないとどうにも落ち着かなくて」
「私が見立ててあげるから、今日新しいの買いなさい! 良いわね!」
「……あまり余計な出費はしたくないのだがなあ」
「十三歳に服選んでもらう二十三歳ってどうなのよ、クロちゃん」
未だ寝間着姿でソファに寝転んでいるジャンがツッコみを入れたが、クロードは肩を竦めてやり過ごす。
そうして、
「じゃあ行ってくるが――出かけるなら火の元だけは用心するんだぞ」
「んー。あ、土産にチョコのパック買ってきてー」
「わかった」
筋骨隆々の大男と可憐な少女のデコボココンビは、しかし妙にしっくりくる絵面を作って出発していった。
*
屋敷の外に出て数分歩き、大通りに出る。
途端、街の日常の喧騒が穏やかに二人を出迎えた。
めいめいの服を纏い、目的地へと急ぐ人々。道のど真ん中を走っていく車。聳え立つ煉瓦作りの建物。青い空には電柱と電話線が巣を張っていた。新聞配りの少年が、ハンチングを被って声を張り上げている。
賑やかで、少し物騒で、いろんな人間がいる。
いつもの『ジパング』の中央都市の街並みだ。
「しっかしジャンはほんと、甘いもの好きよね。チョコとかキャンディとか」
背筋を伸ばし、しっかりと前を見て、ルリはきびきびと歩みを進めながらぼやいた。
肩を並べるクロードが返事をする。
「それもあるだろうが、研究に頭を使うから、糖分の多いものが欲しくなるらしい。朝のコーヒーも砂糖を大量に入れているだろう?」
「あー……確かにそうね。でも、それであんなに細いのがちょっとむかつく……」
自分は体重計と睨めっこして、大好きなお菓子を我慢することも少なくないのに。
「男は摂取したカロリーが筋肉になるからな。女性は大変だね」
クロードは呑気に笑っているが、ルリからすれば切実な問題だ。太った自分なんて絶対見たくない、プライドが許さない。
「簡単に痩せる魔術とかないのかしら……」
「君はまだ成長が止まりきっていないし、まだ体型の心配などしなくていいと思うが」
「子ども扱いはジャンだけで十分!」
「いやいや、ジャンは君の反応を見て面白がっているだけだろう? 私は事実を言っているだけだ」
言葉に詰まる。確かにその通りなのだ。ジャンは事あるごとに「お子様」「おちび」と小馬鹿にしたように言ってくるが、クロードは車道側を歩いたり、文句も言わず歩幅を合わせたり、さりげなく気配りをしてくれていた。
だから彼と一緒に出掛けるのは好きなのだ。一人前のレディになったみたいで、ちょっぴり誇らしげな気分が味わえる。
「まあ、子どもという言葉に敏感なのは、まだ自分が大人になりきれていないという思っている証拠だ。未熟であることを自覚できているのは、良いことだと思うよ」
「……クロード、それ褒め言葉じゃない」
「おや。それは失礼」
睨むように見上げたが、大男は口元に手を当ててくすくす声をこぼすばかりだ。そんな余裕に満ちた態度を取られて、ますます悔しくなる。
――いつか絶対追い抜いて認めさせてやる!
なんてでっかい野望を、その小さな胸に抱いているルリなのであった。
「あ、そうだ、この後だがね」
「ん?」
「買ったものは家に転送して、『兎の穴』に行ったらどこかへ出かけるというのはどうかな」
ルリは目をぱちくりさせた。
私と一緒では面白くないかもしれないが、とクロードは付け加えた後で、
「『買ってもいつ使えるかわからない』と言っていただろう? 慣らしも兼ねて、たまには遊びに行かないか」
瞬間、あどけない顔が一気に輝いた。
「うん! 行く!」
元気いっぱいの声を出して頷く。
柔らかな微笑が返される。
「良かった。ではさっさと買い物を済ませてしまおうか」
「そうね! ……あ、でも、ジャン怒らないかしら」
「場所を伝えれば追いかけてくるだろう。尤も、いつものように研究に熱中していなければだがね」
「集中すると何も耳に入らなくなるタイプよねー」
「まあ、昼食なら昨日の残りのカレーがあるから、連絡さえすれば大丈夫だろう」
「それをちゃんと聞いて食べるところまで辿り着けるかもちょっと怪しいけどね……」
呆れたようにルリが言った。
違いない、とクロードは笑った。
そんな他愛ない話をしている間にも、足はすっかり覚えた道を踏みしめ、行きつけの商店街に向かっていた。
買うのは野菜や肉、果物などの食料を三日分ほど。小さなリストを見ながらルリがてきぱきと注文して、購入したものや紙袋がどんどんクロードの腕の中に流れていく。そしてまた次の店へ。その繰り返しである。家主ご所望のチョコレートは、少し離れた洋菓子店でないと売っていないので、後回しにすることにする。
「これで最後……っと」
肉屋で豚肉を数キロ購入。
二人の腕の搭載量が限界になったところで、商店街のアーチの脇にできている、小さな列に並ぶ。
お目当ては、店の密接区の脇に設置されている、L字型ヘルスメーターにそっくりな機械である。
これには、荷物を乗せて地番を念じれば、その先に転送してくれるという機能がある。料金は重さに関係なく一律百円だが、飛ばせる重量は十キロまでと決まっている。自前の魔力が機械に込められる人間は無料で使える。
玄関先に買い物が並ぶのが嫌、買ったものが割れていた、転送先にたまたま人がいて怪我をしたなどの事例もあるが、撤去されるまでには至っていない。各々で自分の家の冷蔵庫の位置を調べておく、転送先に指定する場所を決めておいて近付かない、などの工夫が取られ、融通の利かないところは「まあ、ご愛嬌」と受け入れられているのだった。ジャン曰く「嫌なら使わなきゃいーんだよ使わなきゃ」とのことである。「リスクのない道具なんてこの世にはねーっつーの」。
転送を行うのは決まってルリの役目だ。
クロードは魔術が使えないのである。
曰く、『ジャンに教わろうとしたが、たった三度の授業で頭をボリボリ掻きながら、「クロちゃん才能ない」と匙を投げられた』らしい。
「いつも悪いね」
「気にしないで」
順番が来て、男が荷物を所定の位置に置き、てちてちと少女が進み出る。上に伸びた部分に、杖を持つように、小さな掌を置く。目を閉じる。いつもジャンとやっている修行に比べたら、何倍も簡単だ。
掌に集中する。自分の中の力をそこに溜めるイメージ。
「――セット」
位置を定めたら、後は放出。
すると荷物を中心に、青白く輝く魔術陣がふわりと広がった。
「お見事」
後ろで、聞き慣れた低い声が、楽しそうに呟く。
その後ろではざわざわと小さな騒ぎが起こっている。
自前で魔力を供給できる人間は、この『ジパング』でそう多くないのだ。できるのは、教育を受けた魔術師か先住民だけ。いずれにしても魔術師はこの国では珍しく、ましてやこの年で魔術を使える者などそうはいない。
ルリは動じることなくどちらも無視して、ただ黙々と地番を流し込む。荷物、の後で魔術陣が消えたのを確認して、手を離した。
途端、ぱちぱちと小さな拍手が沸き起こる。
「……え、あ」
そこでルリはようやく、周囲の反応に気付いたという顔をした。
戸惑った目でクロードを見、表情から彼が何もしてくれないことを悟ると、
「〜〜〜〜!」
頬を真っ赤に染め、やや俯き気味に視線を下げ、スカートの裾を摘まんで小さくお辞儀をした。
ひゅう、とお調子者の誰かが、囃し立てるように口笛を吹いた。
パフォーマンスは一分ほどで、ルリは足早にそこから移動し、クロードも苦笑いしながら付いて行って、やがてギャラリーも散り散りになった。
「もー……恥ずかし……」
「いやはや、大変可愛らしい挨拶だったよ」
「クロードが助けてくれたら良かったのよ!」
憤慨するが、真っ赤になった頬に手を当てて冷ましながらでは迫力も何もない。クロードの方は涼しい顔で罵倒を聞き流し、ますますルリが膨れる羽目になる。
「まあまあ。これから念願の『兎の穴』に行くんだから、良いじゃないか」
しかしその一言で、小さな少女はぴくりと肩を震わせた。
「取り置きは頼んであるんだろう?」
「う、うん」
「ヒールの靴だったか?」
「そう」
『兎の穴』はルリ行きつけの靴屋だ。彼女はその店で売っている、爪先の丸い、白いエナメルのパンプスをずっと欲しがっていたのである。
しかしまだ十三歳であるルリの財布の中身では到底買える金額ではなく、男連中の手伝いや毎月の小遣いでやっと貯めたところ。
ちなみに今ルリが履いているのは、普段使いの底の低い革製のブーツである。完全に見た目より機能性を重視したタイプの靴だ。『男連中の手伝い』をやっているせいで、動きにくいヒールのあるものは持っていないのである。
「……いつも悪いね」
それを察して、クロードは一言だけ呟いた。
「……私が無理に置いてもらってるようなもんだから、気にしないで」
大人びた答えが返ってきたが、そう言うルリの目は据わっていた。
*
ロータス邸。
未だパジャマ姿で、冷蔵庫の扉を全開にして中を漁っていたジャンは、急に空を見上げて真面目な顔をした。
「ん? いっつもは鍛錬とか言って持って帰ってくんのになあ」
さんざ悩んでいたのに、結局クロードお手製のプリンのカップを一つ取りだしただけで、ばたんと乱暴に閉める。
――服、着替えといた方がいいかね。
すぐ出かけられるように。
「今日なんかイベントとかあったかなー」
封を拙い手つきで剥がし、付着していたプリンの欠片を意地汚く舐めながら、一人思案しつつ歩き出す。
彼がキッチンを出、ドアを後ろ手に閉めたと同時に、冷蔵庫の前に魔術陣が現れた。一瞬光ったと思うと、大量の茶色い紙袋が床に軟着陸し、バランスを崩した一つがごろりと、呻くように林檎を吐き出した。
空中にぞんざいな手招きをした後で、ダイニングテーブルに腰を落ち着ける。すると食器棚の銀色のスプーンと、リビングテーブルに置いてあった新聞が浮いて、まっすぐにジャンの席まで飛んできた。膝を折って椅子に座り、プリンに銀色を差し込む。新聞が一面から、ジャンが手を振れていないのに勝手に広がる。折り目が少し浮き上がっていてきちんとしていないのは、きっとクロードが読んだ後だからなので気にしない。
「……おわ、また内戦か」
大見出しを見ながら一人呟く。
ジパングは現在軍事政権である。それが始まったのは十年ほど前からだっただろうか。
元々は極東の小さな島国で、鎖国状態にあったここに、現在勢力を伸ばしつつある大国家、英国が目を付けた。結果、条約が結ばれ、ジパングは考える暇すらなく、ある日突然英国と提携された。
結果、和風だったジパングの街並みは一気に洋風に塗り替えられ、その物価の安さに金を持っていないものは未知の土地になだれ込み、多種多様の生まれの者が溢れる雑多な国になった。
別に不平等な条約を結ばされたわけではない。植民地になったわけでもない。相手から冷遇されているわけでは決してない。
ただ大国家は、極東独特のとある技術に、用があったのだ。
新聞の上で戦っているのは毎度、レジスタンスと化したジパングの先住民たちと、軍の兵隊たち。
写真にばっちり撮られている、テロリスト側の人々の顔を眺める。
――もう手遅れだってのに、よくやるよなあ、あいつらも。
スプーンを底まで突っ込んで、カラメルと一緒に黄色い生地を掬う。食べる。新聞を自動で捲り、だらだらと適当に記事を眺めていく。
「んー、エリック・ドローマンのオペラコンサート、はないだろうしなー、古本市か? あ、こっちのバザーかね」
独り言をぶつぶつと呟きながら、ジャンは着実にプリンを減らしていく。
結局、彼は頭を回すことなら何でも好きなのだった。例えそれがかなりくだらないことでも。
*
大通りをぶらぶらと歩き、『兎の穴』に向かっていたルリだが、店が見えてきた辺りでクロードに手で先を押し止められた。
「? どうしたのクロード?」
「……何だか、嫌な予感がする」
普通なら笑い飛ばすところだが、ルリは真剣な顔で眉間に皺を寄せた。クロードの勘はよく当たる。それこそ神憑り的に。
「……こんなピンポイントでやってこなくてもいいのにね」
「全くだ。どうする? 諦めて今日は帰るか?」
そんな相談を始める二人の横を、自動車が通過した。黒のこじんまりしたものだが、そもそも車自体が高価で、乗っているのは貴族や金持ち層くらいなので、物珍しさに振り返る通行人も多くない。
「んー、でもなあ……今日逃したらいつ買えるか……」
「気のせいだと思い込んで進むことはできるよ。ただ、縁起が悪いというだけで」
「んー……」
腕を組んでルリが唸る。クロードはただただ苦笑いしている。
車はちょうど、二人が目指していた店の前で急停止した。
瞬間、青い空に黒い点が現れた。
一つ、二つ、三つと数が増えていく。だんだんと大きくなる、こちらに接近している。ざわざわと人々が騒ぎ出す。
二人も空を見上げ、めいめい、うんざりした顔を作った。
「……ねえ、クロード」
「……何かな」
「嫌な予感ってあれじゃない?」
「……かもしれないな」
ついには服装、乗っている箒が見える位置まで凄まじいスピードで降りてきて、先ほど止まった車の周りを囲み始めた。ふわふわと宙に浮くその姿は、獲物に群がる蜂を思わせる。
全員顔を隠しもせず、ファッションの系統も性別も年齢もバラバラだ。ただ一つの共通点は、体のどこかに赤いバッジを付けていることくらい。両の羽を広げる、胡蝶のような、鳥のような、不可思議なデザインである。
ルリもクロードも知っている。それは、とあるグループのエンブレムだ。
名前は『朱鳥(しゅちょう)の団』。
紫のフレームのサングラスを掛けた、栗色の髪の青年が、窓をやや大袈裟にノックする。後退し始めた太短い金髪を蓄えた、小太りの運転手が混乱した様子で顔を出す。
でこぼこコンビが地面を蹴ったのは、二人ともほぼ同時だった。
ルリは走りながら、人差し指を横へまっすぐ伸ばし、親指は天へ上げた。右手で銃のような形を作り、銃口をまっすぐ茶髪に向ける。
青年はにやにやと笑みを取り繕い、ゆっくりと、運転手の方に手を伸ばしている。まずい。
「――セット!」
ルリが叫ぶ。瞬間、人差し指の先に魔術陣が現れ、腕の軋む感覚と共に魔力が収束し、
「いっけぇ!」
指が跳ね上がると同時に、閃光を孕んだ弾丸が放たれた。
茶髪に向かって、恐るべきスピードで飛んで行く。
盛大に舌打ちした後、青年はその、運転手に触れかかっていた手を路地に向けた。
ルリのものとはスぺルや記号、デザインの全く違う陣が形成される。彼の掌を覆うほどの小さいもの。しかし見習いの少女が即席で作った、小さな弾を飲み込むには十分だった。
ぱん、と呆気ない音がして、接触と共に弾は消えた。
少女が絶句するのと、青年が口元を厭らしく引き上げるのが同時。
茶髪の掌の魔術陣が急速に肥大し、ぐるぐると、モーターのような勢いで回転を始める。
彼女が放った魔力を還元し、自分のものとして使用しようとしているのだ。光が一ヶ所に集まっていく。魔力の塊はバスケットボールほどに膨れ上がる。
ルリが怯んだ。
駆ける足は未だ止めない。しかし彼女は、相手の魔術師ほどうまくは術を使えない。あの大きさではちょっと身をよじったくらいでは避けきれない、身を守る手段は脇に飛び退くくらいしかない。
だが彼女が結論を出すよりも速く。
青年はそれを、
「そぉ――」
振りかぶって、
「れ!」
ぶん、と力任せに、小さな魔術師に向かって投げつけた。
「!」
目にも止まらぬ速さで魔弾が放たれる。
「……っ!」
避けきれない、と彼女が反射的に悟った瞬間。
青年が攻撃に気を取られている隙に先行し、ルリの前に立ちふさがっていた、クロードのブーツが蹴り抜いた。
水風船が弾けたような破裂音。光を帯びた塊は真っ二つに割れ、一瞬の淡い輝きを放ちながら宙に霧散する。
ひゅう、と青年の口笛が、風に乗って聞こえてきた。
「んー、かぁっこいー! 魔力の圧縮弾を生身でかち割ろうなんてフツー考えもしないよなー。爪先イっちゃったんじゃないの今の、うちにもこれくらい骨のある奴がいればいーのに」
車を囲んでいた箒乗り達が地に降り立つ。ドアを開け、乱暴な声を出している。出てくるのは両手を挙げ、暗い色の燕尾服を纏った初老の男性だ。
クロードは足を止め、ただ冷ややかな瞳で、銀髪の青年を睨みつけた。
「――この間内戦をやったばかりだろうに、今日もテロ行為とは。誘拐かね? お忙しそうで羨ましいよ」
蜻蛉(かげろう)、と名前を呼ぶ。勿論偽名だが。
青年はサングラスを人差し指で押し上げて、
「んー、わりとオレあんたには言われたくねーんだけど。余所者は黙っててくれねーかな」
「私はれっきとしたジパング国民だが」
「そーいう意味じゃないんだけど……まあわざとだろうからつっこまねーけど」
「クロード! 足平気!?」
ルリが追いついた。
今の攻撃では骨の一本や二本折っていてもおかしくない。
ちらりとクロードが車を盗み見た。
車から兵が二人、両手を挙げて引っ張り出されている。運転手も出た。蜻蛉はこちらから目を離さず、にやにやと笑みを浮かべている。
おら出ろ、と乱暴な声がして、自動車から最後の乗員が出てきた。
十八、九歳くらいの少女だった。
フリルの付いた薄水色のドレスに身を包み、踵の高いミュールを履いている。
顎の辺りで切り揃えられた、絹糸のように細く柔らかい茶髪。西洋系の顔立ち。瞳の色がエメラルドグリーンで、どうやらこの国の人間ではないらしい。細いというより体は肉付きが悪く、衣装も相まって、まるで動いているビスクドールのようである。
腕を掴みせっついてくる、小太りの男の姿を、恐怖の浮かんだ目で見ている。
「あれ、御頭ー。これターゲットと違いますよ」
「んー? てゆーかオカシラって呼ぶのやめて、だっせーから」
「男じゃなかったですっけ、狙ってたのって」
「んー、確かに男のはずだけど、家族かなんかじゃね? いちお捕獲しとけ」
「――ルリ」
相手が気を取られている隙に、小声で声を飛ばした。
「悪いが足がしばらくまともに動けそうにない。頼めるか」
すると心配そうな顔が一気に険しく、頼もしくなる。
ルリは返事もせず、再び走り出して、クロードの脇をすり抜けた。
「セット!」
左足、右足、また左と、踏み出した先に魔術陣。靴底で踏みつけた瞬間、ルリの姿が消えた。
「!」
蜻蛉がたじろぐ。
すかさず、クロードがポケットに手を突っ込んだ。
取り出されたのは、長い鎖の付いた懐中時計だった。蓋には複雑な魔術陣が刻まれていて、彼が手を離し落下するその一瞬、きらり、と赤く輝く。
時計は硬い道路に激突することなく、水の中に落ちるように地に飲み込まれて、ぽちゃりと、見えなくなった。
しかし瞬間――蓋のものと同じ魔術陣が地面に大きく広がり、のどかな街並みとは違う、何もない真っ黒な空間に一行と自動車を切り離した。
「な……!?」
蜻蛉が仲間を振り向いた。
「おまえら、ターゲットしっかり見て……」
叫ぶが遅い。
次に気付いたときには、ステルス状態となったルリの魔弾をありったけ喰らった小太りが昏倒し、目立つドレス姿の少女もその場から消え失せていた。
逃げたのだ。
「――っ、おまえ、魔術は使えないはずじゃ――」
青年がクロードに向き直る。その顔から余裕はすっかり消え失せている。
「ああ、普通のもの(・・・・・)は使えない。だがまあ、酔狂ではあるが、ジャンも伊達で研究をやっているわけではないからな」
今は、魔術を使えない者でも使える魔術道具の開発を行なっている。これはその試作品だ。
効果は蓋の魔術陣を任意の場所に映写し、中に入ったものを別空間に閉じ込める、それだけ。一応閉じ込めたものの持ち運びも可能だが、縦二メートル、横五センチまでと条件がかなりシビア。ちなみに成分が変質する場合があるので食料は非推奨である。決して大衆受けする効果を持っている道具ではないが、今のこの状況にはぴったりだ。
クロードが右手を掲げた。そこにふわりと小さな魔術陣がもう一つ現れ、ゆっくりと、細いフォルムの柄が滑り出てきた。
縦二メートル、横五センチ以内の条件に合致するもの。
彼が愛用する真紅の槍だ。
「さて――」
掴んで、二回、三回と回す。ひゅん、という鋭い風切り音と、紅い軌跡が宙に残る。
両足を広げ、刃を下に向けて構えて、クロードは不敵に笑った。
「――根比べといこうか」